with

 




「新ちゃーん、足元、気をつけなさいよー!!」
「はーい」
 その夏。七才のオレは父さん母さんに連れられて海に出かけた。
 しっかし、なんでまたこんな岩場だらけのとこ歩かなくちゃいけねーんだよ?もう少し先まで行けば、砂浜の海岸がいやってほど続いてるっていうのに。なんて、ブツブツ文句を言ってると、岩についた苔に足を取られて滑って転んだ。
「いてっ」
「ホラ、大丈夫か?」
 父さんが手を差し伸べる。にこやかに笑っている。そして、オレが大丈夫とわかるとシラッとした顔をして母さんの方へ戻っていった。
 母さんの手を引く父さん。二人はどこかの若いカップルみたいだった。恥ずかしげもなく子供の前でどうしてこうも仲良く出来るんだろう?
 オレは子どもだったから、それは父さんに嫉妬したのか母さんに嫉妬したのか自分でもわからなかった。が、なんだか疎外感を感じる。オレだけ手をつなぐ相手がいないこと。これが問題だったんだろう。
 それでも、仲のいい二人を見るのは悪くはなかった。いつもなら喧嘩ばかりで──ま、それもそんな険悪なものではなかったし、第一、お互いを気に掛け合ってる証拠でもあるわけだから──母さんのヒステリックな声を聞くのが日常。そんなのが嘘のように穏やかな時だった。
 にしても。どこまで行く気だ?
 肝心の海は見えねーぞ。木が生い茂る。岩場は続く。砂浜はどこだ?波音は聞こえるのに海はいったいどこなんだ?おーいっ!!
 それでも、二人は嬉々として岩場を進んでいく。そこになにがあるんだろう。
「新ちゃん、大丈夫?ついてきてる?」
「大丈夫だけど、…まだなの?」
「もうすぐよぅ!早く早く!」
 気をつけろと言ったり早くと言ったり…。ったく。

 二人の後を、少し遅れながら続くオレ。
 ふと、二人がそこに止まった。着いたのかな?と思ったその瞬間、なんと、父さんときたら母さんを抱きかかえてるじゃないか!!まぁ、よく言えば映画のワンシーンみたいだけど、見てるこっちはどうすりゃいいんだか。太陽の逆光がまぶしくて、正視できないでいた。
 その場までたどりつき、そこで父さんが手を差し伸べた。
「新一、そこで目を閉じてみろ」
「目?閉じたら危ないよ」
「大丈夫だ、父さんがちゃんと抱き上げてやるからな。」
 え?なんで目を閉じるんだ?わけがわからない。でもその通りにした。ひょいと父さんがオレを持ち上げ、最後の岩の上に無事着陸。先ほど母さんにしたのと同じようにそうしたのだった。
「さぁ、目をあけてみろ!!」
 言われるままに目を開けた。

 そこは…海!
 視界いっぱいの海!
 輝く海!
 しぶきを上げキラキラと光る水面、水平線がまぁるく浮かぶ。
「すげー!!」
 感動していた。
 ただの海だぜ。ただの海なのに。
 まるで生まれて初めて見る海のような。空気が違う。風が違う。空も、違う気がした。
 しばらくその感動に言葉を失っていた。
 そうか、ここに来るためだったんだ。…この場所は一等席だったんだ。

「新ちゃん、びっくりした?」
「うん!」
 まだうまく言葉が出ない。
「ここはね、母さんたちの思い出の場所なのよ」
「思い出?」
「そう。思い出いっぱいの場所なの。聞きたい?」
 聞きたくないっていっても聞かせる癖して。

 母さんがまだ、女優で名が売れていた頃。と言っても名が売れまくってる最中(さなか)に父さんがかっさらっちまったって話しだけど。
 売れっ子の母さんは、その頃プライベートなんてものが許されず、仕事と家の往復の毎日で煮詰まっていた。夏なのに海へも行けない。夏の日差しを浴びることも許されない。ある日、我慢の限界に達した。よくある話しだ。
 早朝。そっと家を飛び出し、マネージャーにも黙ってタクシーに飛び乗った。
「どちらまで?」
 と聞かれ、咄嗟に耳にしたことのある有名な砂浜を指定した。タクシー運転手は訝しげに聞き返し、まじまじと母さんの顔を見た。
 バレた?内心ドキドキしながらも、なんとも言えぬ快感を感じていたらしい。ま、母さんらしいと言えばその通りで。ともかくタクシーは走り出した。
 到着した頃には、夏の日差しと風と空気が流れていた。じりじりと暑い。
 砂浜近くでタクシーを降りて、母さんは一人になった。一人になってみたらみたで、なんとなくさびしくなってしまう。行き先も目的も何もない自分が惨めにさえ感じていた。海を目の前にため息しか出なかった。
 が、そんなさびしくも静かな時間は長くは続かなかった。どこでどう調べたのか、遠くに血相を変えて近づいてくるマネージャーの姿が見えた。
 更にタクシーや車が数台停まる。芸能レポーター!?
 レポートする色っぽいネタなんて、何一つ母さんにはなかったのに追っかけて来たらしい。あれこれでっち上げて。例えばコイビトと謎の失踪とか週刊誌が狙ってたのはそういうネタなんだそうだ。
 身に覚えなんてないくせに追いかけられると逃げてしまうから、母さんも可笑しい。
 せっかく海に来て、日差しをいっぱい浴びてって思ってたのにそれを邪魔されたのが許せない。と、母さんは逃げた。
 走っても逃げきれないと悟った母さんは、近くを通る自転車に乗った青年に声をかけた。
「ごめんなさいっ!後ろに乗せてもらっていいかしら?」
 フツーなら乗せねーよ。そんな怪しげな女なんてな。だけど、これが乗せちまうんだ。その青年、…つまり父さんは。
「追われてるの?まかせなさい!さぁ、後ろに乗って」
 年より老けた物言いが母さんを笑わせた。そして安心感も与えた。
 自転車で疾走!!
 が、振り返ると連中も必死で追ってきてるじゃないか。
「どうしよう…」
 困惑している母さんを父さんは自転車から降ろし、ひょいと木の陰に自転車を隠してから、岩場に誘導した。
 はじめて会ったと言うのに、母さんはすっかり心を許していたのか、手を引かれ人っこひとりいない岩場について行った。
「多分ここなら大丈夫だよ。僕のとっておきの場所だからね」
 軽くウインクして母さんに微笑む父さん。この瞬間恋に落ちたんだと母さんは今でもうっとりした眼差しで言う。
 それから、母さんが不思議に思ったのは、父さんが女優である自分に全く気づかない、もしくは全く知らないということだった。だけど、そのほうが母さんにとっては都合がいい。人並みの恋愛なんてもう出来ないと思っていただけに、こういう出会いは大歓迎だったのだ。
 母さんは、一人わくわくしていた。
「足元、気をつけて」
 言われたそばから苔に足を取られる。
「きゃっ!!」
 咄嗟に腰に手を回され助けられた。目と目が合ってドキドキする。
「ありがとう」
 恥ずかしくなって目をそらして。…母さんはそんな自分に酔いしれる。
 追っ手はここまでは来ないようだった。自転車を木の陰に隠したのが正解だった。きっとあの道をずっと先まで探しに向かっているのだろう。
 安心していた。ここにしばらく隠れていれば大丈夫。そう思った。
 が、父さんはまだ先に行こうとしていた。
「あのー、どこまで行くの?」
 いい加減にしてと言わんばかりに手を引っ張った。
「せっかくここまで来たんだから、もう少し先まで行きましょう。ね!」
 爽やかな微笑をなぜか信じられた。大きく頷き先へ進んだ。

 まだ?まだなの?
 まるで、先ほどのオレのように母さんもやきもきしていた。
 そして。
「よし。着いたよ。ここで目を閉じて」
 そう言われて母さんもさすがに警戒した。
「どうして?こんなとこで…」
 うろたえて逃げたくもなった。
「大丈夫。僕を信じて」
 フツーは信じられないよな?だけど信じたんだな、母さんは。(先ほどからそうなんだけど、この二人、お互いに警戒したりしないんだな。)そうしたら目を閉じた瞬間、体がふわりと浮いた!!……!!──そりゃもう驚いた。抱きかかえられているとはわかっていたが、どこか心地よくも感じて。幸せをも感じて。と母さんは夢心地に語る。だけどそれはほんの一瞬のことだった。すぐに最後の岩場に降ろされた。
 そして。言うまでもなく先ほどのオレが感じたように母さんもこの光景にとても感動した。それこそ涙が出るくらい。
 ここは、思い出の場所。母さんと父さんの出会いの場所。
 二人が恋に落ちた場所。

 七才のオレが憧れるくらいに、それはとてもロマンチックなストーリーだった。
 二人がずっと離そうとしないつながれた手。それはまるで運命の赤い糸を見ているようだった。
 まだオレにはつなぐ手がない。糸が見えない。だけど、いつかその糸を見つけたら、その時は一緒にここへ来たいな。その赤い糸の先の大事な人と──。

 幼なじみの蘭とは、物心つく前からずっといっしょで。母さん同士が友達だったから、まるで兄弟みたいに付き合ってきていた。間抜けなオレはその大事な糸の先にいるのが蘭だとは気づきもしないで、長い間見逃したままだった。
 そしてようやく気づき、夏は今ここにある。

 だから、あの海へ。あの海を見たい。
 with ──そのあとには「蘭」と綴りたい。

 

next