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一
日曜日。午後十一時。
待ち合わせの時間ぴったりに駅前の時計台の下のベンチ前にたどりついた。蘭はこちらに見向きもせず、本を読みふけっている。──普通なら、と考えた。待ち合わせをしているわけだから、しかも今、丁度その待ち合わせの時間なわけだから、もう少し周りを見まわすなり時間を気にするなりの動作があってもいいんじゃねーか?
蘭は、人を待つ気配すら感じさせないくらい自分の世界に浸っているようだった。
「ヘイ、彼女!ちょっとそこらでお茶しない?」
悪ぶった声で蘭をビックリさせようと企んだ(バカを承知で)。が、返答がない。こっちの立つ瀬がないってものだ。
「あれれ?蘭ねーちゃん、こんなとこでなにしてんの?」
などとコナンの物真似などしてからかってみたり。いや、気をひこうとしたと言うべきか。が、蘭は相変わらず本を読み、時々ブツブツつぶやいている。そうかと思うと本を閉じ目を閉じ、やはりブツブツ…。そんな動作を繰り返し繰り返し。
本の表紙にはカバーがかけてあり、何を読んでいるか盗み見ることはできない。
「おいっ、蘭!」
遂に業を煮やしてちゃんと名前を呼んでみた。なのに返事がないってのはどういうことだよっ。
「…ったく」と、オレは蘭の手から本をひったくる。するとようやく蘭はハッとしてオレの存在を認めた。
「し、新一!いたの!?」
「いたの、じゃねーだろーが!」
蘭は目を丸くしている。相変わらずの天然のボケだ。
「いきなり本取らないでよね。びっくりするじゃない」
「なんなんだ?そんな必死になって読んでるこの本って…。」
そっとカバーをはずし中を確認する。
「あ、ちょっと取らないで!」
すでに確認済み。なるほど映画の台本ってわけだ。これが。
話は数日前に遡る。
どういうわけか芸能プロダクションにスカウトされ、映画のオーディションを受けることになった蘭は、やはりどういうわけかそれに受かってしまい、いきなりデビューが決まってしまった。蘭が女優に…なるらしい。ま、ずっと続けるわけでもないだろうけど。映画の台本を読みふけっているところを見ると、案外やる気なんだな。
「で?蘭の役ってどれ?台詞あんの?」
オレはニヤニヤ笑いつつ取り上げた台本をパラパラとめくった。どうせちょい役なんだろうと高を括っていたんだ。
「そ、そんなのどうでもいいでしょ」
と言って蘭は真っ赤になって本を取り返そうとする。オレはひょいとかわして更に中を確認する。赤えんぴつでチェックの入ったところがきっと蘭の役なのだろう。
「へぇ。結構たくさん台詞あるんだな。…って言うか、これってヒロイン?」
更にページをめくっては頷く。
「ふうん…。アクションもありか。それに台詞マジでいっぱいじゃねーか?出来るのか?こんなの…」
「いっぱいだから必死でやってるんじゃない。返してったらっ」
やはりひょいひょいと蘭の手をかわしオレのチェックは続く。そして、そのページ釘付けになった。
え?これを本当に蘭がやるのか?…そこにはちょっとしたラブシーンが書かれてあった。過激なものではない。…キスシーン?そんなものもないなと心の隅でホッとして。だけど確かに告白のシーンではある。映画とはいえ、これを蘭が言うのか?
止まったページに気づいた蘭がハッとして本をひったくる。
「あー。見た?見たのね?」
顔が真っ赤だ。
「こんなこと、言うんだ?」
「そ、それは!!…だからただの台詞でしょ?…それよりホラ、行きましょ。映画の時間に間に合わない!」
そう言えば今日は久し振りのデートで映画を見る約束をしていたんだった。
いや、しかし気になるものは気になる。
蘭はお構いなしにどんどん先を行く。追いかけるように後を追った。
「おいっ、蘭!待てよ、蘭!」
蘭の手を掴んだ。実はまだ手をつなぐことに余り慣れていなかった俺は、これしきのことにドキドキしてしまう。コナンのとき、散々手をつないでたくせに変だよな。自嘲して、更にそんな幼い自分に嫌気がさす今日この頃。
幼なじみ。──すべてはこれのせい。オレはそう思おうとしていた。ガキな自分を棚に上げて。
「せっかく久し振りに遊びに来てるんだし、どんどん先に行くこたーねーだろ?」
そうとがめると、蘭は足を止め素直に「ごめん」と謝った。そんな蘭を見ると、なんでも許せる気になってしまうから不思議だ。
「ヤベー、時間ねーから走るぞ!」
「うん!」
そして、蘭の手をさらに強く引いて映画館へと走った。振り返ると蘭にいつも通りの笑顔が戻っていた。蘭の笑顔を見ると、自然こちらの顔もほころぶ。
そう、いたって単純な奴さ、オレは。
なんとか映画館に着いた時には、すでに中では次回予告などが上映されていた。慣れない暗闇に席を見つけ、二人並んで座った。
映画ひとつ選ぶにも蘭とはいつも揉めた。今回も約束の段で随分検討し、妥協しあい中を取って推理ありサスペンスあり更にラブロマンスありという触れ込みの邦画を見ることに決まっていた。
だけど、密かに蘭は自分の相手役でもある有名男優の演技をチェックしようと考えていたのだとオレは今気づいた。そして、気づいてない振りをしながら、先ほどの台本のあの役の役者の名前は忘れたりはしない。なんといっても蘭からの愛の告白をもらう憎々しい奴である。蘭がオレ以外のどんな奴にその気になるのか、とくと見てやろうじゃねーか。…オレは少し的外れにそんなことを考えていた。
上映中、チラリと蘭に目をやると、恋する乙女のようなまなざしでスクリーンを見つめている。なぜかやたら蘭の反応ばかりが気になって映画の内容が頭に入ってこない。せっかくの推理モノだが考える余裕がない。
この感情はなんだ?スクリーンのあの役者が気に食わないぞ。この心の焦りはいったいなんだ?隣に座っているはずの、こんなにそばにいるはずの蘭なのに遠くに感じる。
いや。ここで考えを改めてみた。
映画ってのはたいていそんなものだ。映画のなかの役者に夢中になったり、ヒロインになり切ってみたり。誰だってそうだ。そんなのは嫉妬するようなことじゃない。そうだ…。
と、ここまで考えて「嫉妬?」と自分で解釈しながら自分で驚いた。嫉妬なのか?これは、やきもちを妬いてるってことなのか。……よし、嫉妬。これは認めよう。仕方ないよな、実際。だけど、心のもやもや、これはいったい…?
しばらく自分で自分を分析してみる。あれこれ考え尽くし、結局、自分の中にある不埒な考えが問題なのだと気づく。
暗闇。手を伸ばせば届く距離。遠くに感じるなら、なおさら。…肩くらい抱きたいよな。それができずにいる自分が腹立たしいのだ。心のどこかで「チャンスだ」と言っている自分がいる。と、その時、蘭が囁くように
「ね、犯人わかった?」
などと聞いてきた。犯人?んなこと知るかよ。と思いながら
「あいつじゃねーの?」
と、たまたまスクリーンにアップになった気に食わないあの役者を指差した。すると蘭がくすっと笑って
「冗談ばっかり。あの人探偵役じゃない」
そうか、そうだったのか。そんなことすら頭に入ってないんだから相当重症だ。
「蘭…。ちょっと」
囁いてみる。蘭は耳をそばだて顔を近づけた。と、その瞬間「肩を抱く」という行為を飛び越して、オレは思わずそのくちびるを奪っていた。
蘭は言葉をなくし戸惑っている、驚いている。オレだって自分のやらかしたことに驚いているくらいだ。胸のドキドキが止まらない。
言葉にはできず、言葉の代わり、蘭の手を強く握り締めた。こうしていると、蘭のそばにいることが実感できて安心だった。蘭の気持ちもきっと同じだと信じられるくらいに。
映画が終わり、駅への道を二人、歩いていた。
まだまだ時間がある、デートはこれからと思っていたのに。
「今日これから打ち合わせなの」と蘭がクールに言ってのけた。あまりに素っ気なく、その態度が意外だった。
「そいつのか?」
大事そうに片手に持ったままの台本を目で指しながら。
「うん。これからちょっと大変そう…。でも頑張らなくちゃねっ。」
その目は輝いている。前向きの蘭は綺麗だと思った。
「こんな時期なのに大丈夫なのか?受験もあるんだぜ?まさか、このまま芸能界に入るってわけじゃないだろうな」
「まさかぁ!」
ニコニコ笑って答える。だけど満更でもなさそうに見える。
「進学しようと思ってるよ。…わたし、教師になりたいんだもん。勉強だって手は抜くもんですか!!」
蘭はちゃんと夢を持ってるんだな。…今まで自分のことばかりで、オレ、蘭の夢の話なんて全然聞いてやってねーな。
そして改めて考える。オレの夢って、なんだ?
探偵になりたかった。ずっとずっと小さい頃から。そして、それはたやすく手に入った。
手に入れてしまえば夢は終わったのか?これからオレは何を目標に何を目指していくんだろう。
「蘭…」
蘭を見た。生き生きしていると思った。
「また!またそんな目、してる。今日はずっとそんな目でわたしを見てたね。わたしのこと心配してくれてるの?」
見透かされていたのか。
「心配っていうより不安そうな目だよ」
急に立ち止まり、蘭がオレの頬に手をかざす。そしてまっすぐオレを見た。胸が高鳴る。
「打ち合わせはどこで?送ってく」
蘭の手を取り、気持ちをそらそうとした。このままじゃ映画館での二の舞だ。公衆の面前で蘭を抱きしめたくなる。
「うん、もうそこなの」
れんが造りのシックなビルディングを指差す。もう五十メートルもない。「じゃ、前まで」と歩き、前まで来ると「ここで」と簡単に蘭が手を振る。
蘭はやはり今までの蘭じゃない。これじゃ、いつもと立場が逆だ。蘭のうしろ姿を見つめるのは辛かった。一度振り返り笑顔で手を振る蘭。行ってしまう…。
自分がいったいどうしたいのかわからない。ともかく、心にわだかまりが残っていて気持ち悪い。すかさず蘭を追ってビルの中へ入った。丁度閉まろうとしていたエレベーターに滑り込む。そこに蘭は一人きりで、エレベーターの中は束の間の二人だけの空間となった。
「新一?」
蘭はとても驚いていた。オレはいいわけを用意していなかったけれど、その必要はなかった。
「新一がこんなにわたしのこと気にかけてくれてるなんて。なんか吃驚したけど、でも…。でもとってもしあわせ…」
そう言うと自らオレの胸に飛びこんで来た。蘭を受け止め、更に強く抱きしめようとしたその時、エレベーターは目的の階に到着し、ゆっくりとドアが開いた。二人の時間はここまでか。
「じゃ、明日学校で」
行こうとする蘭、まだ引きとめたいと思った。これ以上引きとめてどうする?どうしたい?何女々しいことやってんだ?オレは。葛藤の中、女々しい自分が勝利した。
蘭の手をつかんで再びエレベーターに引き入れる。そしてエレベータの「閉」のボタンをすかさず押す。押しつづけるなか、もう一度蘭を抱きしめた。
「…オレを軽蔑するか?こんなこと言う資格オレにはきっとないんだと思う。だけど…、今、この手を離したら蘭が遠くへ行っちまう気がして。…ハハハ、女々しいよな。…頼む、もう少しだけこのまま…」
蘭は何も言わずにオレの甘えを聞いてくれた。
「こんな新一、はじめてだね」
蘭は天使のような笑顔でオレを包み込む。オレのが絶対子供だと感じた瞬間だった。だが、時間はやってくる。このオレだけの天使を手放す時間が。
そっと「閉」のボタンから指を離す。再びそのドアが開いたとき、蘭は背をピンと伸ばし、真っ直ぐ前を向いて歩いていった。じたばたしている自分がとても格好悪い。ああ、自己嫌悪。
エレベーターで一階まで降りると、俺も蘭に習って背を正してみた。前を向いて歩かなくては。蘭の姿に何かを学んでいた。
すれ違いに見覚えのあるサングラスの男がエレベーターに入っていった。この男?つい先ほど見た映画に出ていた気に食わない奴だ。蘭と演る予定のあいつだった。
理由などない。ただ、このいやな感じはぬぐえやしない。オレ、蘭に関しては絶対冷静になんてなれねーな。…つくづくそれだけは確信していた。
もうすぐ夏がはじまる。
今年の夏は二人で海に行きたい。ただ、漠然とそんなことを考えていた。