旅立ちU 〜この空と道、出会う場所へ〜

 あれから一年と数ヶ月が過ぎていた。
 新一からの連絡が途絶え、それでも遠い日の約束を胸に、蘭は日々を過ごしていた。
 もちろん、辛くないわけはない。寂しくないわけはない。

「蘭…オレはいつもおまえのそばにいるよ。どんなに離れてたって、おまえが呼べば飛んでくるって」

 それはあの日の約束。 
 ウソツキ…呼んでも飛んでは来てくれなかった薄情者。
 何度心で叫んだだろう。
 でも、…わかっているから、二人はきっと同じ気持ちだって、信じているから、だから、わたしは待ちつづけている。
 声を聞きたい、その顔を見たい。その温かい手に触れたい。…溢れる思いを抱きしめて。
 多忙な日々に自分を置いて、明るく振舞って。確かにそんな日常は充実していたし、自分を必要としてくれている人たちに支えられて、新一がいなくてもわたしは幸福だった。
 だけど、それが今日、思い違いだと言うことにやっと気づいた。いつのまにか、心のどこかで「忘れよう」なんて思ってた?新一がいなくても平気だと思い込もうとしてた?
 …全然平気じゃないのに。
 …新一がいない今が幸福なはずはないのに。

 会いに行こう。
 心の奥に封印していた「会いたい」という気持ちを今、素直に言葉にしてみる。
「新一…会いたいよぅ………」
 言葉はいつしか、ずっと枯れていた涙へと変わった。

 わたしたちの経緯を知る、今はスイスに在住している新一の両親に連絡を入れた。素直に会いたい気持ちと今までの自分のすべてを話すと、新一の母・有希子は「スイスにいらっしゃい」とわたしを誘った。
 そこへ行けば新一の何かがわかる?居場所が?それとも、そこに新一はいるの?
 わたしは手筈を整えて、旅立った。…ようやく。あれから、ニ年近くも経った今。


*****


 スイス。
 空港に降り立ち、列車に乗り継ぎ3時間余り。優作と有希子の住む街に着いた。異国の青空が蘭を出迎え、少しばかり冷たい風が頬を撫でた。
 二人の住むところは、名の知れたリゾート地でもあり、蘭は、その輝く湖、高山の花々の美しさに目を奪われていた。

 久し振りに会った有希子は、蘭をやさしく温かい微笑で迎えた。
「いらっしゃい、蘭ちゃん。何年振りかしら?元気そうで、本当に…本当によかった…」
 涙を浮かべ蘭を抱きしめた。
「おばさま……」
 挨拶の言葉も出ないまま、蘭は抱きしめられながら安堵し、涙した。

「…ったく、どうして蘭ちゃんをずっと待たせっぱなしで……あの子ったら。もう…連絡くらいよこしなさいって思うわよね?」
 有希子の愚痴から察するに、有希子たちもまた新一の居場所や近況を知らないのだとわかった。
 落胆する蘭に、優作が口を挟んだ。
「今、インターポールの友人に調べてもらって随分突きつめたんだが…。あいつが助っ人している地下組織の一人がこちらにいるらしい。どうやら、それがそこのリーダーらしいから、新一の動きもきっと把握しているに違いないと思うんだが」
「…地下組織のリーダー…?」
 蘭は、記憶をたどって、それがひょっとすると新一を連れ出した宮野志保ではないかと直感していた。
 彼女のことは、黒の組織との闘いの全貌を聞かされた際に、新一から聞いていた。その後の彼女の活躍振りは、新一に聞くまでもなく、MITでの功績は、日本でも大きく取り上げられていた。
「今、彼女を調べている。…ああ、どうやらリーダーは女性のようなんだ。なんとか接触する方法を考えているんだが」
 やっぱり…彼女に違いない。わたしは確信した。
「接触する方法って…彼女いったい?」
「うん、どうやら彼女が探っている秘密結社のそのアジトに、今、自ら軟禁状態となっているらしい」
「軟禁って………それじゃあ、彼女…」
「相当危険な場所にいると見ていい。恐らくは新一のことどころじゃないはずだろう」
 …そんな切迫した状況にある彼女の元に、ただ新一に会いたいという気持ちだけで会いに行く?
 置かれた現状の違いに、ショックは大きかった。

「諦めるかい?」
 優作の問いに、それでも首を横に振るしかなかった。それでも、会いたい、と。
「でも彼女に接触するのは、相当危険だよ」
「危険?」
「それを言えば、新一に会うこと自体危険には違いないが…。君が新一の弱点だと知ると、組織の連中は……」

 知らなかった。新一の闘いを。知らないところで命の危険さえ請け負って戦って来たことなど。
 そして感じた寂しさ。どこか懐かしく切ない。
 そう、あの黒の組織との闘い。やはり新一は「わたしを危険な目に合わせたくない」と言う思いで嘘をついた。コナンという偽りの姿でわたしの前に現れ、そうしてわたしを守りつづけてくれた。…それが、でも寂しくて。
 また裏切られた。そんな気がした。
 またあの人は、そんな新一を見ていたと思うと辛かった。口惜しかった。あの人……志保さん。

 置いてきぼりの孤独感を再び感じ、怯む心。
 だけど…。
 それでも…。
 ううん、だから、もう二度と置いて行かれるのは嫌。
 もう、絶対…。

 わたしが弱点?
 もしも、それで却って新一に危険が及ぶようなことになったら……。
 迷ってばかり。
 誰かに大丈夫って言ってもらいたい。
 誰かに背中を押してほしい。
 お願い…。
 わたしは目を閉じた。

 とその時。
「蘭ちゃん、大丈夫。大丈夫よ。ここまで来たんだもの。新一に、ちゃんと会わないでどうするつもり?」
 有希子がケロっと笑って言ってのけた。
 驚きと戸惑いとで、また涙が頬を伝った。


 そして翌日。
 一本の電話が入り、地下組織のリーダーに会う方法があると聞かされた。
 週に一度、彼女が軟禁されている建物から、買い物を許されるのは、日曜日。とは言え、監視下にあるらしい。下手な発言は出来ない。それ以前に話せるかどうかもわからない。…なら、どうする?
 メモをしたためようかとペンを握ってはみたものの、言葉が浮かばない。相手が彼女なら、言葉はいらないと思った。ただ、わたしが勘を働かせて彼女から上手く聞き出さなくては。
 …それが、出来るだろうか?わたしに出来るだろうか?胸がドキドキする。

 日曜日──。

 朝早くにわたしは一人、出かけた。不慣れな異国で言葉も不自由だったが、なぜかそんなことは平気だった。せっかくのクラシカルな街並も美しい風景も目に入らなかった。電車は、国境近くにあるとある街に到着した。
 有希子たちの住むところとは違って、ここは生活を感じさせる庶民の街という気がした。
 賑わう市場広場を目にし、少し時間を潰すために見て回った。
 彼女が現れるだろう時間は、正午頃と聞いていた。まだしばらく観光客の顔をして街を歩ける。そう思ったが、誰かとすれ違うたびに、彼女ではないかと目を見張った。胸は高鳴り、手は微かに震えた。
 色とりどりの花や野菜が並ぶ。…だけど、それらは目に入らなかった。聞きなれない言葉で店主に声をかけられても素通り。表情一つ変えることもなく。
 気になるのは時間。頭に秒針の音が響くようで、でも、それは自分の鼓動だということに気づきもしないで、ただ時間を待っていた。
 彼女が必ず立ち寄ると聞いたショッピング街はすぐそこ。そして、時間も刻々と近づいている。

 彼女と接触できるのか、果たして話せるのか…。
 石畳を進みながら、不意に一軒の雑貨店のウインドウを見た。その奥に、今、ちらと確かに人影が目に入った。恐らくは見知った彼女の…。
 迷わずその店に入り、確認した。
 それは、やはり彼女だった。彼女を宮野志保として紹介されたことは一度もなかったが、何故か懐かしい気持ちになった。その横顔は、あの哀ちゃんそのものだと思った。
 店のドアが開いたので、志保もまた蘭を確認した。知らないはずはない。けれど、当然のように彼女はポーカーフェイスで、蘭に近寄る気配はまるでなかった。
 蘭にも、どうして彼女がそんな態度を取ったのかは想像できた。やはり、監視されているのだろう。蘭がアヤシイと感じたのはニ人の男だった。その一人に、志保は、蘭にも聞こえるように言った。
「花、買いに行きたいわ。市場に寄ってもいい?」
 やたらはっきりとした英語で、そして、ほんの一瞬蘭に視線を送った。
 その男は時計を見て、「もう終わってる時間じゃないか?」と口を挟んだ。志保は、「まだ大丈夫」と笑って答えた。そうして店を出ていった。
 それはきっと志保からのメッセージ。わたしは察知した。少し時間をずらし、その店を出て、先ほどの市場に急いで戻った。
 花市…確かに先ほど通った。
 どこ?どこだった?
 市場を見まわし、花市を探す。
 そして。花よりも先に志保を見つけ、蘭はそっと近づいていった。すぐ傍まで近寄り、けれど背中合わせに、ようやく声をかけた。
「志保さん……?」
「こっち見ないで。他人の振りしててね」
 早口で言う。
「知りたいのは、工藤くんの居場所?」
「し…知ってるの?」
「もちろん」
「どうしたら……会える?」
「三日後またこの場所に来て。仲間と連絡取って指示するわ」
 機械的な受け答えと、表情一つ変えない強さ。
「……どうして?」
 蘭には、聞きたいことがたくさんあった。
 どうして、新一をアメリカに連れていったのか?それはどうして新一でなければならなかったのか?
 どうして、連絡一つ出来ないのか?なのに、どうして、今、会うことを止めないのか?
 どうして?どうして?どうして?
 志保は、束ねた色とりどりの花を抱えて、蘭から離れていった。
 一言「幸運を祈ってる」…そんな言葉を残して。


 蘭の滞在の予定は1週間だった。だけど、急ぐことはない。伸ばすことも出来る。
 日本での蘭は、一旦教職を離れていた。家庭教師や塾の臨時講師などをアルバイトに、しばらく過ごして来たが、ようやく再就職することに決まった。その日まで、まだ一ヶ月はある。


 三日後…。
 それまでの二日間を蘭は、スイスの自然と戯れた。有希子の案内で、程近い古城を訪れたり、街中にあるレース専門店で職人の技に魅了されたり。せっかくだからと、少し離れた温泉場へ足を運んだりもした。
 思えば、それは有希子の心遣いだったのかもしれない。じっと家に篭っているよりも外に出たほうがリラックスできると。
 蘭は深呼吸した。新しい空気を吸い込むと、まるで何もかもが上手く行くようなそんな気がする。
 きっと新一にも会える、そう思えた。

 三日前と同じ時間に出発して、ニ度目の街へ繰り出す。
 目指すのは花市。
 人を待っている素振りも、探している様子も見せないように、必死で観光客を取り繕った。それでも、志保の姿を見逃すまいと肩に力が入った。
 前回と同じように、背中合わせの会話を想像していた蘭の肩に、不意をついて、そっと手が掛かった。
 ハッとして、でもすぐには振り返らずに慎重に言葉を探した。
「志保…さん?」
 相手は答えない。だから、蘭は振り返るのをためらった。
「蘭……」
 懐かしい声が聞こえた気がした。それは空耳?まさか、そこにいるのは…?
 振り返るのがまだ怖かった。信じられない。
「振り返っても平気だ…」
 その台詞に、ゆっくりと蘭は相手の顔を見た。
 そこに立つ、懐かしい顔は、やはり………。
「し………しんいち」
 呟くように声にした。
「蘭……本当に蘭なんだな」
 新一は、ニ年という月日を感じさせないほどに、日常的な笑顔を見せた。その暢気な表情に、あの日までの「蘭」が戻って来た。
「…もう!心配したんだから…。ずっと、ずっと…どうして連絡の一つもしないで……わたし、本当に心配で…ずっとずっと……」
 怒りなのか、うれしさなのか、それともそのどちらもだったのか、わたしはまとまらない言葉を次々と押しつけた。
「わたしだけじゃないよ…新一のお母さんだったね…みんなどんなに心配して…。駄目じゃないっ、もう…」
 市場の真中で泣きじゃくる蘭に、好奇の目が集まる。
「ちょ、ちょっと待て。ゆっくり話そうぜ」
 焦る新一に、まだ言葉は続いた。
「だって………」
 言葉を詰まらせながら、それでも真直ぐに新一を見据えて。
「もう二度と会えないんじゃないかって、何度も何度もそう思った…。心細くて寂しくて…。ね?わかる?わたしがこのニ年、どんなふうに過ごして来たか…ねぇ?新一ぃ……」
 蘭の瞳に惹きこまれて、新一は無意識に蘭を抱き寄せていた。
 好奇の目は歓声へと変わった。
 抱きしめられて、ようやく蘭は落ちついた。我に返って、ビクリと体を離した。
「大丈夫なの?こんな……その…監視されてたりとかしてないの?…危なくないの?」
「うん、オレは全然。それに……」
「それに?」
「多分、もうすぐ終わる」
「ホント?」
「多分、な」
 花市の真中での会話が場違いなものと察し、二人同時に顔を見合わせ笑った。
「その辺でティーでもドリンクしませんか?お嬢さん」
 新一の妙な言い回しに蘭が吹き出し笑った。
「喜んで」
 腕を組んで石畳を歩き出す。まるでごく普通に待ち合わせをしてデートを楽しむ恋人同士のように。

 新一はこの期に及んで、まだ詳しい話をしようとはしなかった。知らないほうがいい、の一点張り。
「それじゃ……もうすぐ終わるってなに?」
「うん…来週頭がヤマだな」
「何があるの?」
 聞き出そうとすると口を閉ざした。
 蘭は話題を変えた。
「そんなことより、お母さんたちにどうして連絡しないの?こんなに近くにいるのに……」
「いや、オレがここに着いたのは今朝なんだ。母さんたちへは電話くらいは入れようと思ってたさ」
「どうして会いに行かないの?」
「うん。全てが済めば…いつでも会える」
「それが来週ってこと?」

 嫌な予感は否めない。
 そのヤマって危険なんじゃないの?…大丈夫なの?…大丈夫なの?
 蘭は、すっくと立ちあがると、「行きましょう」と新一を促した。
「なんだ?」
 先を歩く蘭を不思議に思った。
「怒ってんのか?…だから、全て終わったらオレは…絶対おめぇんとこに帰るって、それだけは本当にそうだから…」
 蘭は立ち止まり言い放った。
「お父さんとお母さんに会いに行ってあげて…。ここからそんな遠くでもないじゃない。ね?今すぐ行こう?」
 新一は寂しげな表情に変わる。
「駄目だ、まだ…。ここでおめぇに会うことだって反則みたいなもんだったしな」
 すぐに返す言葉が見つからず、ただじっと新一を見た。
「……また行っちゃうのね?」
 頷く新一。見ていられなくて蘭は体を翻し、また前を歩き出した。
「蘭……」
 新一は追って、その手をすばやく取った。

 新一の手、…あったかい。
 ここに確かに新一はいる。そばにいるんだ。
 言葉はなくても、新一の気持ちが伝わってくる気がした。その熱い気持ちが。
 同じようにわたしの気持ちも伝わってるのかな?

「蘭、ごめん…」
 
 たったそれだけで、全部許せる。放ったらかしで連絡一つくれなかったこの長い月日…、恨み言はまだまだいっぱいあったのに。


 いつしか夕暮れて。
 帰る時間が迫っていた。最終の電車の時間は案外早く、明るいうちに駅へと歩き始めていた。
「新一は、今日どこに……?」
「オレは仲間のいる場所に…」
「電車で?」
「うん」
 遠くの山々が赤く染まって、でも二人はそれを背に歩いている。
 次第に言葉数も少なくなって、別れの予感に寂しさは拭えなかった。
 駅から電車の音が聞こえてくる。乗るのはあの列車?

 ……今度いつ会えるの?

 一番聞きたいことは怖くて聞けない。
 蘭の足が止まった。新一の羽織ったジャケットの端を握り締めて。
「新一……」
 涙で言葉が出なくなる前に言ってしまおう。
「帰りたくない…。いっしょに………いたい」
 言い終えて涙が零れた。新一の背中に頭をつけて、そこで泣いた。
「蘭……?」
 しばらくして新一が振り返った。
「…あ、ホラ、綺麗だぜ。夕陽……」
 遠くの山が薔薇色に染まる。それに気づかずに二人歩いていたのかと新一は苦笑した。そして蘭の肩を抱き寄せた。蘭も顔を上げて、その夕陽を見上げた。
「ホント、綺麗……」
 時を忘れて二人、空が色をなくすまで遠くの山々を見ていた。
 しばらくして電車の発車する音が耳に入った。
 どちらからともなく、駅とは反対方向に歩き始めていた。


 近くのホテルにチェックインして、二人はようやく二人だけの空間を手に入れた。
 街中を歩いていた時とは違った張り詰めた空気に、互いに気づき、どこか照れていた。
 シーンと静まりかえった部屋。ドアが閉まる。同時に、二人は互いに引き寄せあった。
 抱きしめ、抱きしめられて。再会のくちづけを交した。そのくちづけがはじまりのくちづけに変わっていく途中で、蘭はそっと新一から離れた。
「待って…」
 翳りを見せた蘭をもう一度新一は引き寄せた。
「どうした?」
「これで最後じゃないんだよね?…戻ってくるんだよね?」
 蘭の不安が涙とともに溢れ出す。
「答えて、新一…。何か言って…」
「バーロー、必ず戻るさ…」
 涙にキスして、蘭に笑う。
「それだけ?」
「え?」
 蘭は、新一の腕をすり抜けてベッドの傍らに座った。
「ごめん…。新一の気持ちはわかってるつもりなんだ。でもね、それでもね。……待ってるには、『言葉』だけが頼りなの…」
 新一も蘭の隣に座る。肩をそっと抱く。
「わたし、そんなに強くないからね。…ごめん、つまんないこと言ってるよね?」
「いや…」
「こんなこと言う自分がちょっと嫌」
「そんなことないさ」
「ごめん、もう……いい」
「そんな何度も謝るんじゃねーよ…」



 確かな言葉を蘭は欲している。そして確かな約束を。そんなことわかってる。
 でも。
 促されて「言う」のは違うだろ?
 必ず帰る。それは本心だけど、約束できるのか?
 オレはいつでも前向きな蘭を見て迷いつづけていた。
 オレの夢、蘭の夢。
 オレのためにあいつが泣くのは嫌だ。あいつの夢を潰すのは嫌だ。
 だけどオレは我侭で、あいつを放って、やりたいことをしてきた。
 もしも、オレじゃなかったら…。
 待っててくれ、なんて本当は言っちゃいけないんじゃないか?
 そして、更にそれ以上の言葉なんて。
 ずっと言いたい言葉を呑み込んできた。
 このニ年なんてものじゃない。もう何年も、ずっとずっと。



「蘭…おめぇはホントにオレでいいのか?」
 今更何聞いてる?
「オレじゃない方がしあわせになれるんじゃねーのか?」
 思ってもみない言葉が溢れて止まらない。
「いつでもおめぇはオレに振りまわされて、泣いて…。泣いてばっかりいたよな?」
 苦しくて窓の外を見る。もう真っ暗闇だった。
「オレはおめぇを本当にしあわせに出来るのか?」
 沈黙したまま、蘭はオレの胸に顔を埋めた。
「バカね…」
 意外にも蘭は少し微笑んで言う。
「新一はいつでもそう。なんでも自分だけで背負い込んじゃう。新一のしあわせって、じゃあなんなの?…わたしは新一に与えて欲しいんじゃない。わたしはね…わたしはただ、新一と…新一と一緒に歩いていきたいだけ」
 蘭は新一の頬にそっとキスした。
「もう忘れちゃった?あの日、わたしが言ったこと…」
「蘭が…言ったこと?」
「忘れたんなら思い出させてあげる」
 そう言うと、蘭は、新一のジャケットに手をかけた。それをそっと取ると、ベッドに新一を倒してそのくちびるにくちづけた。
 蘭の瞳から零れた涙が新一の頬に落ちた。
「また泣かせちまったな…」
 蘭を抱き寄せた。



 とても懐かしい蘭の匂いに、目を閉じてあの日を思い出していた。
 その白い胸に顔を埋めながら、変わっていない自分の気持ちを確認していた。
 オレが蘭を抱いてるんじゃない。オレが蘭に抱かれてるんだ。
 そう、いつも。
 
 『…いざとなったら、新一、あなたを…わたしがあなたを守ってあげる…』

 思い出したよ、あの日の言葉。




 辛そうな新一の台詞…。
「オレはおめぇを本当にしあわせに出来るのか?」
 それを聞いて、わたしはただその気持ちがうれしいと思えた。
 言葉を頼りにしてたけど、こういう新一を見ると、もう何もかもがわかってしまうから、だから、もういい。
 わたしの気持ちを全然わかってないのは少し癪だけど。
 抱きしめられて、わたしはしあわせ。
 触れられて、キスされて、新一の吐息を感じて、わたしはしあわせ。
 互いに求め合って、一つになって。
 新一のしあわせがわたしのしあわせだから。
 きっと、待つこともしあわせ。
 そうなんだよ?




「会えてよかった…」
 蘭が傍らでつぶやいた。
 一つのベッドで抱きしめあって、眠るに眠れず朝まで何度も求めあった。
 すでに白みはじめた夜明けの空が窓の外にあった。
「また泣いてんのか?」
「…もう泣いてないってば」
 立ちあがって、窓から見える風景に目をやった。
 恐らく今見えているその方向に秘密結社のアジトがあるはず。決戦の日は近い。
 もうすぐ終わる、もうすぐ。
 全てが終わったら、そうしたら……。
「やだなぁ、もう、そんな格好で…」
 蘭がベッドから笑ってオレを見た。確かに素っ裸で窓辺に立つのは妙かもしれねーな。
「蘭も一緒に見ようぜ、日が昇るのを…、な?」
 ニッと笑って、オレは蘭のシーツを剥いだ。
「きゃっ」
 傍にある枕で裸体を隠す、その素振りが可愛い。
「ホラ、こっち来いよっ」
 手を引いて窓辺まで引き寄せた。持ってる枕は遠くへ投げた。ちょっと意地悪だったかもしれないな。
「あ。日が昇るのね…」
 窓の外の風景に目を奪われて、蘭が微笑んだ。
 その微笑が、オレを狂わせる。
「綺麗だな、蘭」
「うん、素敵だね…」
「違うよ、蘭が綺麗だって言ってんだって」
「え?…やーねぇ、もう。見ないでってば」
 頬を染める裸の蘭に手を伸ばす。引き寄せ抱きしめて。
「結婚……しよ?」
 それはとても簡単に口から零れ落ちた。言えずに呑み込んできた言葉が、今。
「帰ったら即行、な?」
 顔を上げて、蘭がきょとんとしてオレを見た。
「それって……プロポーズ?」
「へ?」
 それ以外のなんだってんだ?とことん直球だろ?
「蘭?」
 わからないのか、答えはノーなのか、その顔を窺った。すると蘭の顔がパッと明るく変わった。
「…うれしい」
 そう言って微笑んだ蘭の顔、それを見て思った。オレのしあわせはコレだな、と。
「わたし、待ってるね。ずっと待ってる。だから、絶対帰って来てよ?」
「……おぅ!」
 気合を入れて返事をした。蘭の答えにちょっと照れている自分を隠しつつ。



 別れ際、蘭がメモを一枚手渡した。
「わたしね、来月からここにいる。再就職なの。北海道のフリースクールの先生。ここで、新一を待ってるから」
「…え!?なんでまた北海道なんだ?」
 驚いた。
「いいとこよ?北海道って」
「そうじゃなくて!!結婚しようって言ったばっかりなのに…そんな東京から離れた場所で……(ブツブツ)
「あらぁ?言ったじゃない?どんなに離れてたっていつもそばにいるんだって。呼んだらすぐに飛んでくるって」
「そ、それは、だからぁ…。相談くらいしたって……」
「相談?できたらしてたわよ?」
「何もそんなとこに一人で行かなくてもさぁ」
「一人じゃないもん。だから大丈夫なの」
「…んじゃ、帰っても一緒に暮らせないってことかぁ?」
「いつまでもうだうだ言ってないで。わたしの再出発なんだよ?」
「そっか、そうだな。おめでとうって言わなくちゃな…」
 半ば諦めて、蘭を見送った。
 またすぐ会えると思えたから、オレは笑顔で見送ったが、やはり蘭は涙を見せた。それを必死で笑顔で隠そうとしているところが、あいつらしくて。

 必ず帰るから。帰る場所は蘭のところだから。そこしかないから…。
 オレは再びオレの戦場へと戻っていった。

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