そして、数ヶ月。
 北海道は秋の風が吹いていた。
 メモを頼りにこの地に着いた。
 見渡す限りの広大な畑や牧場の真中に、ポツンとそれはあった。フリースクールと言う名の学校。丸太で作られた看板に落書きのような文字で学校名が書かれていた。が、その看板から校舎まで、ものすごく遠い。
 全寮制らしく、校舎の隣には寮らしき建物もあった。そして牛舎や畑も学校のものらしい。
 遥か遠くに生徒たちが走る姿が見え、その先頭を走るのが蘭だとわかった。
「元気そうだな…」
 ボソリとつぶやく。

 校舎の近くまで歩くと、傍の寮から幼い少女が飛び出してきた。まだ足がおぼつかない。真赤なジャンパースカートの少女は、その存在だけでパーッと辺りを明るくしてくれる。まるで花が咲いたように。…そう感じた。
 そして、少女は勢い余ってオレの目の前で転んだ。
「こんにちは。大丈夫?」
 オレはニッと笑って手を差し伸べた。少女は泣きそうになるのを堪えて、オレの手につかまった。
 …あれ?はじめて会うのにこの懐かしい気持ちはなんだろう?その表情は誰かに似ている?
 ともかく授業中では蘭に声をかけることもできない。待っている間、その少女と遊ぶことにした。
 傍らにあったサッカーボールを見つけ、懐かしい感触にオレはボールと戯れた。まだまだ腕は鈍っていない。少女はそれを見て喜び、はじめて笑顔を見せた。
 あ、やっぱりこの笑顔も……懐かしい。なぜだ?
 そして少女は、自分もサッカーをしたいと意思表示した。ボールを渡すと、それを蹴ろうとして見事にひっくり返った。先ほど転んだ時には、一生懸命堪えていたのに、よっぽど痛かったのだろう。金切り声を上げて泣き出した。
 オレはそれにおたおたするどころか、微笑ましくなってしまった。泣き顔すらどこか懐かしい気がする。この子はいったい…?
 少女の泣き声が聞こえたのか、しばらくすると寮から声が聞こえてきた。
「どうしたの―――っ?百合ちゃーん?」
 少女はそれに答えるどころか、ますます激しく泣き出した。

 この子の名前は百合と言った。ユリ?…やっぱり、知らない。

 見かねて、寮の中から寮母と思しき女性が現れた。
 少女は、その寮母の顔を見ると安心したのか、「よっちぃ、よっちぃ」と抱きつき甘えた。寮母はやさしく百合という少女の頭を撫で、抱きしめた。「よっち」とは寮母の愛称らしい。
 そして、ようやく新一の存在に気づいた。寮母は、新一の顔を見ると「あら!」と声を上げた。
「あ、どうもこんにちは」
 頭を下げて挨拶をする。
「ひょっとして、工藤さん?新一さん?」
 目を丸くして驚く寮母。
「あ、はい、工藤です。今日は、そのぉ、ここで教師をしている……」
 もはや最後の言葉を発する隙はなかった。
 寮母は校庭へ駆け出すと、大声で叫んだ。
「蘭せんせ────いっ!!!」
 怖気づいたのはオレの方だった。
「ちょ、ちょっと今授業中…」
 止めるのも聞かず、寮母は更に大きな声で叫んだ。
「蘭せんせ――――いっ!!!!」
 大きく手を振り、オレを指差したりする。
 気づいた蘭と、一緒に走っていた生徒たちがランニングの足を止め、こちらを注目した。
 そして、寮母は振り返り、ボロボロと泣きながら言った。
「早く行ってやって。蘭先生ずーっとずーっと待ってたんだから。早く早く」
 そう言って背中を押す。
 その様子を目を丸くして見つめる少女が、次の瞬間、校庭の蘭に向かって叫んだ。


「ぉかぁた――――んっ」


 舌足らずな叫び声。それは確かに「おかあさん」と聞こえた。蘭をそう呼んでいるのだ。
 少女は、両手を広げて蘭の元に走った。蘭は、走ってきた少女を抱き上げて、じっとこちらを見ていた。
 …蘭、その子はオレの…………そうなのか?
 百合って言ったな。百合か。蘭と同じで花の名前…いい名前だ。
 生徒たちも見守る中で、オレは蘭の元へ歩いていった。
 本当は猛ダッシュで走っていきたい。そして強く抱きしめたい。一刻も早く蘭を安心させてやりたい。だけど、たった今知ったばかりの真実を呑み込む時間がオレには必要だった。
 歩きながらオレは蘭を思った。色んな蘭を知っている。幼い頃からの蘭を。泣いてる笑ってる怒ってる拗ねてる。そんな蘭を。だけど、知らない蘭がまだいた。今、目の前の蘭。
 どんなふうに過ごしてきたんだ?どんな思いで過ごしてきたんだ?
 蘭の目の前に立った。生徒たちは興味津々でオレを見ていた。
「新一……」
 蘭が呼ぶ。……その声、聞きたかったぜ。
 オレは、堪らず、その腕の中にいる百合も一緒に蘭をきつく抱きしめた。
 その耳元で「ただいま」と一言。
「おかえり…なさい…」
 蘭はまた泣いている。
「カッコわりぃぜ?蘭先生」
「え?」
「こんなとこで泣くんじゃねーよっ」
「だって…」
「ま、随分待たせちまったしな、しょーがねーか」
「そ…そうよっ。待たせすぎよっ…だいたい新一が……」
「でもちゃんと帰ってきたぜ?」
「そんなの当たり前でしょっ」
 小声で二人は話した。周囲の目が気になる。百合はオレと蘭との間で、ポカンとオレたちの様子を見ていた。
「ところで、このシュチュエーションから、どう出る?」
「え?」
「あ、いや、ついこんなとこで抱きしめちまったけどよぉ。どうしたもんか…」
「あら案外意気地ないのね。名探偵工藤新一ともあろう人が」
「探偵とこういうのは別口だろ?」
「はいはいっ」
 痺れを切らした生徒の一人が蘭にこう言った。
「あのー、先生、授業中なんですけど…僕たち…」
 それに救われ、蘭はオレから離れた。
「あー、ごめんなさい。じゃ、ランニングの続きね…」
 と言う蘭の言葉を止めた。
「よっし。ランニングはここから一番近い教会まで!!行くぞッ!!」
 オレは威勢良く叫んだ。
 ざわめく生徒たちの先頭に立ち、蘭から百合を奪い取り、「ホラ、行くぞ。蘭!!」…そう言って走り始めた。
「な、何?新一!?」
「結婚するぞっ」
「え?」
「即行って言ったろ?」
「そ、そりゃそうだけど、今授業中で……」
「ボーっとしてたら置いてくからなっ」
 蘭は慌てている。だけど迷っている場合じゃない。寮のそばで見守る寮母は泣きながら拳を振り上げていた。…それは「がんばれ」と言う意味。「いってらっしゃい」と言う意味。「あとのことはまかせなさい」という意味。蘭はそれを察して寮母に叫んだ。
「よしえさ―――――んっ、ありがとう―――っ。行ってきま―――すっ!!!」


 オレは走った。
 そう、一番近くの教会なんて知らない。そこから何十キロも離れた場所だなんて全然。それでもしばらくは勢いに任せて生徒たちも走っていたが、途中ついにバテて、休憩を取ることになった。みなゼイゼイと息を荒げていた。
「教会は……まだなのか…?」
 近くの生徒に聞く。
「しらねー」
 素っ気無い返事に、唖然。
 たまたま通りかかったトラクターの親父を止めて、聞いてみた。
「あんなとこまで走って行くなんて、やめとけ」
 そう止められた。
「おっちゃんは今日仕事終わったのか?」
「ああ、今日はもう帰るよ」
「じゃーさ、それちょっと貸してくんねー?」
 トラクターを指差す。
「まさか、教会まで行こうってのかい?」
「そうそう」
 にこにこと頷いた。
「何用だ?」
「結婚式」
「結婚式ぃ!?」
 親父は仰天している。
 オレは蘭とオレを指して頷いた。
「ほぉ!」
 感嘆の声を上げた後に、
「後ろ乗っていいぞっ」
 そう言って荷台を指した。
「ありがとう、おっちゃん!」
 オレは先に百合を乗せ、自分も乗って、蘭に手を差し伸べた。
「蘭、行こうぜ!」
 呆気に取られて、オレを見ていた蘭は、
「ちょっと待ってて」
 そう言うと、生徒に向かって叫んだ。
「みんなー、お疲れ様っ、今日はこれで帰っていいわよ。先生、ちょっと行って来るからね!!」
 生徒たちは、「おおおーっ」とどよめいた。
「おめでとう」
「よかったね」
「しあわせになれよ」
 生徒たちの声が飛び交い、ようやく蘭も荷台に乗った。
「蘭先生、おめでとう!!」
 重なる声に見送られて、オレたちはトラクターから手を振った。



 トラクターに揺られながら。しばらくして蘭に聞いた。
「なんでこいつのこと言わなかったんだ?」
 百合を指して聞く。
「うん…話さなくてごめん…」
「オレが逃げ出すとでも思った?」
「ううん、違うよ…その逆。この子がいるから、ひょっとしたら早く帰ろうと無茶したり、無理したりするんじゃないかって……。そんなことも思ったし。でも、それよりも。この子がいるから結婚しよう、じゃ嫌だったのね」
「にしてもだな……」
「言うなれば女の子の夢ね。要するに普通にプロポーズされたかったのかな?」
 蘭は笑って答えるけど、オレはまだ不可解だった。どんな状況でもオレの気持ちは変わらねーぜ?
「でもね、ちゃんと言ったんだよ?一人じゃないってスイスで会ったとき…」
「え?そうだっけ?」
「そうよ。…だから、名探偵の新一にならわかるんじゃないかって思ってたのに」
 くすくすと笑う。
「それからね。百合がいたから新一に会いにいったんだよ?…ずっと成長を見てきて。ハイハイして、つかまりだちして、一人で立てるようになって、そして一歩を踏んだの。その最初の一歩を見た時に、わたしこの子から勇気をもらったんだ。わたしも前に踏み出さなくちゃって。自分に向き合おうってやっと思えた。それまでは、忙しさで自分を誤魔化して「さびしい」って感情閉じ込めてた。わたしはそれどころじゃないのよって…」
「蘭…」
 そんなオレの知らない蘭のこのニ年間を思って、更に蘭が愛しくなる。
 百合を間に挟んで肩を抱き寄せた。
「愛してる……」
 そうして二人、くちづけを交す。
 もう誰にも邪魔されない。もう永遠に離れない。誓いのくちづけは長く甘く…。

 教会へ向かう。道は真直ぐに延びている。だけど二人は今、トラクターの上、後ろに出来た通りすぎた道を見つめている。それは決して真直ぐではなくて。

「百合、寝ちゃったみたい…」
「ははは、この寝顔、蘭そっくりだ」
「え?嘘っ、新一にそっくりだよ?」
「うりゃっ。…このほっぺた、つねりたくなるよな?」
 百合の頬を少しばかりつねってみる。
「ちょ、ちょっとやめてよぉ」
「プルプルしてるぜ?」
 今度はその頬を撫でまくる。
「起きちゃうわよ?」
 言ってる傍から百合は泣き出した。
 オレは百合を抱き上げてじっとその顔を見た。すると何故かピタリと百合は泣きやんだ。
「百合。おとうさんって言えるか?」
 キョトンとしてオレを見て、困ったように蘭を見る。
「ぉとうたん…?」
「そうそう」
 今度は蘭を見て「ぉとうたん?」と聞く。
 蘭は答える。
「そう、百合のおとうさんは名探偵工藤新一なんだよ。おかあさんの幼なじみで、ずっと小さい頃からそばにいて、どんなときでもおかあさんのこと守ってくれた、……おかあさんの一番大好きな人」
 今、一番輝く蘭の笑顔を百合に横取りされちまった。それを少し口惜しく思いつつ、そんな柔かな蘭の表情に惚れ直してる。…オレは単純だ。

 このトラクターは三人の旅立ちに丁度いい。
 ゆっくり歩こう。並んで歩こう。寄り添って歩こう。
 教会への長い道のり、互いに知り得なかったニ年間を話そう。


 いつでもそばにいる。離れてたってキミはココに──心に──。
 ずっとずっと、永遠に──。
 この空と道、出会う場所へ、ボクたちはゆっくりと進んでいく。

 

fin

モドル