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出張中の彼女から電話。穏やかな時が流れてゆく…
突然、姿を隠すかのように転校をしていった彼女と彼。 信じられないことに彼は、少年探偵団の保護者として戻ってきましたけれど 彼女の行方は杳として、知れませんでした。 彼を含めて、一部の大人たちは、彼女の所在を知っていたようですけれど 教えてくれるつもりがないようなので、あえて尋ねることはしませんでした。 将来、自分で探し出す決意を固めました。 知力・行動力が身につけば可能性が開けるでしょう。 でも、そんなことにとらわれてばかりはいられません。 学生には学校があって勉強だってしなければなりません。
僕の心を知ってか知らずか、彼は英才教育的な家庭教師もしてくれました。 少年探偵団は、みんな一緒に学んでいましたけれど 科学好きの僕は特に目をかけてもらっていました。 彼女の保護者だった人からも、彼の義父からもいろいろと (役立つかどうか分かりませんけれど)教え込まれました。
彼と僕たちが関わりあうきっかけとなった事件の話は その時、僕らが子供だったので、あまり聞かせてもらっていません。 隠さなくてはならない事情があるのでしょう。 少し成長してちょっぴり調査する力がついたからと いままでとっておいた、その気になる事件を調べてみることにしました。 自分への15歳の誕生日プレゼントとして。
けれども、ほかの事件と違って 通常の調査では全くなにも浮かんできませんでした。 自分の力の無さに、はがゆさを感じましたが仕方ありません。 まだ研鑚がたりないというですね。 理由は不明ですけれど、隠す事情のあることは確信できました。 でも、このときの僕の交信記録を密かに見て舌を巻き そして、微笑んでいてくれた人がいたことを 僕はまだ知りませんでした。 保安上の理由で、この事件関連にアクセスする交信は すべて記録されていたのだそうです。
すでに知っていることを教わるのは退屈です。 僕はいつものように化学の授業中に 最新の学術論文を読んでいました。 しかし、その日はいつもではありませんでした。 自分の目標とすべき研究テーマを見つけたからです。 この論文の著者のもとで研究できるようになりたいと真っ先に思いました。 どこの国?日本?大学?研究機関? 最初の頁に戻る頁をめくる手が、もどかしく感じられました。 ああ、ここだったら、彼が知っている人かもしれません。 僕は授業中であることを忘れ、教室を飛び出していきました。
彼にその論文を見せると、今まで知らなかったのかと不思議がられました。 有名な人だぜとも。そして、もうひとつ、意味不明の言葉が漏れたように感じました。 それは、『俺の忠告が分かっていないなぁ』と聞こえたような気もしましたけれど 彼から忠告されるも何も、この研究のことも研究者のことも 今日初めて知ったことです。聞き間違えでしょう。 でも、なぜか、デジャブのような気もしました。
彼は姿勢を正して僕のほうを向いて言いました。 「この研究者は友人だから紹介するのは簡単さ。でも、そんなことは意味がないだろう。 この人の下で働けるような力をつけて、共同研究者や部下となることを勧めたいな」 確かにその通りです。すばらしい目標が出来たことに感謝すべきだということですね。
でも、彼は僕には甘い人でした。彼に論文の話をした1週間後 例の目標の研究者からの僕に対する励ましの手紙を持ってきてくれました。 どんな風に僕のことを紹介したのか分かりませんが まるで僕のことを知っているかのような温かい励ましの手紙は その論文の鋭い切り口からは想像できないものでした。
最後は、あなたがわたしたち研究グループの 優秀なメンバーの一人になってくれることを確信しています。 会うのはその時にしましょうと結ばれていました。 論文を読んだ後に知ったことですが その人は人前に出ることを避けていて 学会での発表や講演なども全くしない まぼろし伝説のようなの有名人ということでした。
大学の受験は推薦で決まってしまったので、あっけないものでした。 大学に入ってからも、相変わらず少年探偵団としての活動をしながら 僕は大学院進学を目指していました。
ある日、とてもかわいい女の子から告白されました。 一般教養の科目で同じ教室にいたような気もしますが その程度の認識で僕はとても驚きました。 そのことを僕が探偵団の連中に報告したら そういうところが彼にそっくりだと言われてしまい 彼の奥さんもそれを聞いて思わずと言った格好で吹出していました。 そうでしょうか。
探偵団の連中には「付き合ってみたら」と軽く勧められました。 想い人がいないわけではないんです。 でも巡り逢える可能性はかなり低いから。 本当のところ生死だって分からないのです。 「考えてみますよ」と答えて話題を変えました。 そんな僕を彼と彼の奥さんの2人は、やさしく見つめていてくれました。
結局、僕らは2年ほど交際をしましたが、やがて別れが訪れました。 「ミスキャンバス」の彼女と 友人も多く、探偵団として大人社会にもちょっと首を突っ込んでいるせいか なにかとまとめ役に駆り出され注目を浴びることの多い僕。 自分で言うのもなんですけど、ベストカップルと言われていました。
おくての僕らも漸く本物の恋人同士となれるのではないかと予感したある日。 ふたりで夕暮れの川辺の堤防に腰を下ろして 小学生の遊んでいる姿をぼんやり眺めていました。 遊んでいたのは少し大人びた女の子とやさしそうでおだやかな男の子。 女の子が主導権を握っていて男の子は完璧に振り回されているようでした。 心の奥底で何かがはじけかかりました。
だんだん暗くなってきました。 子供たちは家に帰って行くようです。バイバイといっています。 恋人が話しかけてきました。 「ねえ、女の子が転校しちゃうみたい。今日でお別れなのね。 でもね、あの女の子すごく強気よ。 手紙は書けるかどうか分からないって言っているわ」 「そう...」僕は答えました。 あの女の子には特別な事情はないでしょうし 間違いなく、あの男の子のことを好いています。 僕の場合とは違うけれど思い出してしまいますね。 彼女が僕の前から完全に消えた日を。 転校と言っていたけれど あれは「消えた」と言うにふさわしい状態でしたよ。
その日から僕は彼女を探し出すまでは 自分の愛するという感情は封印されたままであることに 徐々に気づいてゆくことになりました。 そんな僕を一番近くで見ていた恋人は 僕よりも早く僕の心の奥底にある感情に気づいしまったようです。
夕暮れの堤防の日から1ヶ月ほどたった日 僕は恋人に正直な自分の気持ちを伝えました。 そして信じてもらえないかもしれませんけれどと前置きをして ひとつだけ言い訳をさせてもらいました。 いままでの気持ちには偽りはなかったということを。
恋人は美しい笑顔で答えてくれました。 「それはわたしが一番よく知っているわ。 あなたが心を偽って恋人として振舞えるほど 器用な人間ではないことをわたしが一番理解しているの。 あなたの温かい気持ちにいつも包まれて幸せな時間を過ごしたのよ。 わたしもあなたの気持ちに気づいていたの。 だからこそ、あなたからきちんと言って欲しいと思っていたの。 やっぱり、あなたは最後まで、わたしの思った通りすてきなひとだったわ」
僕は恋人に、「その美しい笑顔で見つめる人は他にきっといるはずです。 あなたにふさわしいすばらしい人にめぐり合って下さい」と言うのが精一杯でした。
それから僕は、いろいろな人物の非難を甘んじて受け入れざるを得ませんでした。 そう、恋人は本当にすばらしい人だったのです。 しかし、彼はそれについて何も言いませんでした。 それだけに非難されているようで、とても息苦しく感じました。
結局、僕は研究室に通うだけの大学院生活を選びました。 しかし、それは思わぬ形で実を結ぶことになりました。 熱心な研究の結果、その分野の若手研究者としては 一目置かれる存在になっていきました。 そして念願の、あの研究者の部下として働けるようになったのです。 人生悪いことばかりではありません。
その出勤初日の早朝、彼が就職祝といって封筒を差し出しました。 彼はそのまま踵を返すと朝もやの中に消えていきました。 不思議に思いながら部屋に入り封筒を開くと その中には写真が入っていました。 彼女の写真が。
彼女はその後の失踪を予感していたかのように 写真に撮られることを嫌っていましたから 僕は彼女の写真を1枚も持っていません。 学年の途中に転校してきて、その学年が終わらないうちに 転校していってしまったので進級記念の写真もありません。 確かに嬉しいものですが、彼の意図が全く分かりませんでした。
不思議な感覚に捕らわれたまま出勤し 玄関で待ち受けていた上司に連れられて、配属部署に案内されました。 皆の前で挨拶を済ませると 僕を案内してくれた上司とは別の人に突然呼び止められました。 「ああ、君か。クールビューティーが強力に推薦した新人というのは」 僕は話がのみこめず戸惑いました。 すると僕を案内してくれた上司が説明を始めました。 「彼の活躍は注目されているんです。この分野では。 ですから、彼女が推薦するのは当然ですが なんとなく、いつもの彼女らしくなくて印象に残りましたね」 「君、早くクールビューティーに挨拶してきたらどうだ?」 「あの、どなたでしょうか?クールビューティーと呼ばれている方は?」
そこに、あの人は入ってきました。 「あら、新人さんの挨拶は終わってしまったの?残念だわ。 ごめんなさいね、遅れてしまって。円谷君ね。よろしく、宮野志保です。 工藤君に渡した手紙は受け取ってくれているのよね。 ずいぶん前のような気もするけど、ようやく会える日が来たのね」
僕は自分がどう挨拶したかも覚えていません。 ただ宮野さんの顔を見つめていました。 それを上司に気づかれて 「彼女はやめておけ、君の手におえる相手ではないぞ」と どこかで聞いたようなせりふを聞かされる羽目に陥りました。
新一さんの今朝の贈り物の意味が分かったような気がしました。 失踪するなんて通常では考えられません。 そうですか、彼女が今までどのように大変な思いをしてきたのか 自分で調べて知っておくようにというメッセージのようですね。 ようやく同じフィールドに立てる準備の出来た今だからこそ。
でも、宮野さんは何にも言いません。 本当にそうでしょうか、いいえ、見間違うはずはありません。 あの茶色のさらさらとしたストレートのショートボブ、グレイがかった深い瞳。 そして、時々シニカルな笑みを浮かべる口元。 灰原さんに間違いありません。 僕より何年ぐらい先輩なのでしょうか。 新一さんや蘭さんと同じぐらいのようです。 やっぱり、あのとき、コナンくんと灰原さんは同じ状況だったのですね。
今後の仕事について説明を受けている間も上の空でした。 「...繰り返します。1年間はわたしの特別チームではなく、チームの構成員の下で 働いてもらいます。そして、その結果によって特別チームに入ってもらうかどうか 判断させてもらいます。分かりましたか?」 僕ははい...と無意識ながら返事だけは返せたみたいでした。
家に帰って落ち着いて考えると 昼間の興奮は冷め、僕は更に混乱していきました。 憧れていた研究者、宮野さんが失踪した灰原さん? あのときの事件とは何だったのでしょうか? 宮野さんは僕のことを分かっているはずですが何も言ってくれません。 でも上司です。気安く話しかけるわけにはいきません。 もちろん問いただすことなんて考えられませんよ。
以前は灰原さんを探し出してみせると息巻いていましたが 実際のところ、このような形で対面してしまうと どう対処すればいいのか混乱は深まるばかりでした。
幸い宮野さんは個室を与えられているほどの地位の人間で 顔を合わせることはほとんどなく 僕は僕でなんとか仕事はこなしていたものの 自分でも分からない何かにとりつかれていました。 でも、このまま仕事にも集中できず脱落してゆく事態は避けなくては 今までの自分の努力が何であったのか、わからなくなります。
そう思った僕は、灰原さんとの思い出を辿ってみることにしました。 学校、公園、探偵団と博士とで出掛けた旅行、探偵団が活躍した事件。 そのころの日記を手ががりに、休みの日を利用して実際に行ってみました。 博士のビートルを借りて。 この作業を始めてからは、仕事にも集中できるようになり ようやく本来の自分を取り戻していくことができました。 大人になって行ってみると、そんなに遠くには出掛けておらず 2ヶ月ほどで思い出の場所をまわることが出来ました。
そして、僕はある決心を胸に、新一さんを訪ねることにしました。 灰原さん、宮野さんのことを知りたいのです、教えてくださいと。 彼は待っていましたとばかりに、机の引出しから紙片を取り出して僕に渡し 自分の子供に向けるような優しい微笑をたたえて声をかけてくれました。
「やっと、訪ねてきてくれたね。 待っていたんだよ、光彦がこうやって訪ねてくると信じていた。 こうして君の恋を応援することが、君にとって吉と出るか凶と出るかはわからない。 でも光彦は自分の心を前進させるのには、これしかないと思っているのだろう? 君が15歳の誕生日の日から1ヶ月かけてした調査は実を結ばなかったんじゃないのか。 宮野に関する情報は今でも完全に当局の保護下にあるんだ。 それを突破できるキーワードをプレゼントするよ」
絶句している僕に蘭さんが、お茶をすすめながら彼の言葉を継ぎました。 「志保の情報にアクセスするとすべてが記録されて 各方面に報告される仕組みになっているの。もちろん志保本人にもね。 10年前に彼女、楽しそうに話してくれたわ。絶対にあれは円谷君だって。 もちろん調査した結果、光彦君であることはすぐに判明したんだけど その前に彼女は気づいていたのよ。 でね、今回のこのキーワードは彼女からのプレゼントなの」
そして、蘭さんは続けました。 「彼女は市民権も取り戻して、社会的な地位も手に入れたわ。 でも家族は今でも博士だけ。個人的な付き合いがある人も限られているわ。 幼児期や思春期の体験のトラウマだと思うって本人が分析している。 今はあなたのことを愛することは出来ないけれど 時間を共有してみたいと言っているの。 それならば隠し事はできないからといって、このキーワードを預かったのよ。
同じフィールドに立てるまで努力した光彦君と、それを信じて疑わなかった志保。 強い絆の友人というのも素敵よ。 ねえ、キーワードを見てみてちょうだい。 きっと光彦君が喜んでくれるって志保が言っていたけれど何かわかる?」 折りたたまれていた紙を開くと 「私のレスキュー隊員」という文字が目に飛び込んできました。 僕は昔のことを想いだし、思わず頬が紅潮してゆくのを感じました。 それは二人にしっかりと目撃されてしまいましたので 宮野さんには間違いなく喜んでいたという報告がいったはずです。
宮野さんのバックグラウンドを知り 僕はまだ個人的にはつきあえないと判断をしました。 今の僕を知ってもらうことが先決です。 仕事上で接触できるようになってから、一歩を踏み出すようにしようと考えました。 1年後、宮野さんのチームに配属が決まった最初の会議。 優秀な頭脳集団とあって会議が決裂します。 先入観のない僕は、その議論の問題点にたまたま気づきました。 宮野さんの発言も彼女がそれに気づいていることを裏付けるものでした。
けれども、宮野さんはその結論へと強引に導いてゆく気はなさそうです。 争わず完全にひいてしまっているみたいです。 激しく対立することに恐怖を感じているのでしょうか。 こんな調子で数々のすばらしい研究成果を残して この地位に上り詰めたのは、よほど優秀でなければなりません。 彼女の成果がどれほど他人に横取りされて発表されてきたことでしょうか。
皆、疲労の色が濃くなり、発言が途切れたその時 僕がこの会議ではじめて発言をしてみました。 「もう一度、僕が洗いなおして調査してみます。 資料を再編成してみます。1週間ください。 それから、もう一度検討してください。 いまのままでは、議論は平行線をたどるだけです」 絶妙のタイミングで宮野さんからの助け舟が入りました。 「どうかしら?新人さんにチャンスを与えてみる気はある?」 みんな、しぶしぶ同意してくれました。
僕は宮野さんとの個人的な交流は努めて控えていましたが 仕事上では必ず彼女をフォローするようにしていました。 彼女は自分で抱え込むタイプです。 しかも、みんなが彼女の椅子を狙っています。 孤立無援。ミスは許されません。 ですから、彼女を守るためには、僕もミスを犯すわけにはいきません。
こんな関係がしばらく続いていました。 話すのは仕事のことだけ。 でも、信頼を寄せてもらっていることは充分分かります。 心地よい状態です。彼女もそう思ってくれていると信じて。 かたくなになってしまっている心の持ち主を 支える手段として仕事というのは好都合ですね。 必要なことをしているだけですから相手の負担になりにくいのです。
ある深夜、そろそろ帰ろうかと思った時メールが入りました。 緊急に処理しなくてはならないことです。 上司の判断も必要な重要な案件でした。 僕は迷いましたが、はじめて宮野さんの家へ電話する決断をしました。
番号を押す手が震えます。 「はい」いつものクールな宮野さんの声。 いや、こんなことを考えている場合ではありません。 緊急の用件を伝え、今からこちらに来るという彼女に僕は提案しました。 「資料を持って出ますので 宮野さんのご自宅近くの駅前のファミレスで1時間後でいかがでしょう。 僕の帰る方向でもありますし」
彼女の利便、安全を最優先した提案でしたが 彼女が来るのを待つうちに不安になってきました。 外で彼女と待ち合わせるなんて初めてのことです。 何も考えずに言ってしまったことですが、変に思われてはいないでしょうか。
まもなく、宮野さんがやってきました。 職場でのダークスーツ姿の彼女しか知らない僕は目を奪われました。 いま扉を開けて入ってきた彼女は 深紅のゆったりとしたシルクのシャツに白のパンツ。 透き通るような白い肌にシャツの色が映えています。 ちょっと無防備ですよ。 扉が開いたとたんに中の男たちの視線が集まっていったじゃないですか。
彼女が目の前に座ると目のやり場に困ってしまいます。 なるべく悟られないように早く済ませてしまおうと 早口で説明をして資料を渡しました。 でも、きっとこの鼓動の早さもバレているんですよね。
彼女の意見を盛り込み内容をまとめて、相手に送信して仕事は終了しました。 彼女は車で来ているというので、途中まで乗せてもらうことにしました。 彼女のマンションの前まで。 ここから歩いてもさほど違わないのですが、ちょっと理由がありました。
5分か、そこいらのドライブとはいえ、二人きりで会話に詰まってしまい 困り果てた僕は、とんでもないことを口走ってしまいました。 彼女が僕を車で家まで送ってくれると何度も言い張ったあと 今、僕が彼女の車に乗っている理由を言ってしまいました。 レストランに入ってきたときのほかの人たちの視線、 今日の彼女は、どれほど魅力的なのか、 だから、家に入って無事を確認しない限り安心できないと。
彼女がまたポーカーフェイスに表情を隠してしまう不安を感じましたが そうではありませんでした。ありがとうと微笑んで 「今日はあなたのアドバイスに従うわ」と言ってくれたのです。 ほっとした僕は更に暴走して 「来週の日曜日、博士と3人でピクニックしませんか」と誘ってしまいました。 今を逃したら、また彼女と個人的な会話をする機会が 当分巡ってこないと悟ったからです (本当ですよ)。彼女は「えっ?」と言ったきり黙ってしまい、車が止まりました。
なんでもありません。彼女のマンションに着いたのです。 僕は挨拶をしながら、彼女の部屋の窓の位置を確認して 電話を入れることを了解してもらいました。 はたして彼女の部屋の明かりがついたのをみて 携帯のスイッチを入れました。
「きょうはいろいろと、どうもありがとう。 あなたが仕事上でバックアップしてくれているのは 単にありがとうという言葉では表現しきれないぐらい感謝しているわ。 日曜日がたのしみね。おやすみなさい」 何も言葉が見つかりません。 「あっ...ありがとうございます。おやすみなさい」
僕は家に帰り博士に短いメールを送信しました。 そして、すぐに心地よい眠りに落ちていきました。
日曜日は気持ち良く晴れ上がり心が弾みます。 彼女に似合うのはちょっぴりホットなエスニック料理。 シャンツァイの香りがアクセントです。 それに合わせるのは、もちろんよく冷えた辛口の白ワイン。 気に入ってくれるといいんですが。 博士用には少し香辛料を控えたものを用意しました。 結構、お子さまの味覚なんですよね。
学生時代に行ったアジア放浪旅行の後に 凝って通いづめたエスニックレストランのマスターから 教えてもらった料理です。 ここ一番の時のとっておき料理として。 僕としては、このレシピが役立つときが来たなんて夢みたいです。
宮野さんはジーンズに白のコットンシャツという平凡な服装で現れましたが 彼女が人待ち顔で僕と博士を探しているとき、何人の男が振り向いたことか。 そして、僕が手を振ると僕らにも視線が集まってきました。 僕はどうしても上司という感覚が抜けずに 「今日はお忙しい中をおいで頂きまして、どうもありがとうございます」 と間抜けなほど堅苦しい挨拶をしてしまい、宮野さんと博士が同時に吹出しました。 「円谷君、仕事上ではもちろん上司と部下という関係よ。 でも、こうして会うのは友人としてと考えさせてもらいたいんだけれど。了解?」 「ええ、もちろんです。宮野さんのおっしゃる通りで、よろしいかと思います」 と僕は更に間抜けな返答をしてしまいました。
「光彦君、そう堅くならずにリラックスじゃよ、リラックス。 ほお、なんだか仲人をしている気分じゃな」 「やーね、博士」 「ほ、ほ、ほ」と博士は謎の笑いで答えていました。 ちょっと照れてしまうような内容ですが、何だか本当の親子みたいですね。 そう思うと気持ちがほぐれ、普通に話せるようになっていきました。 皆で大きな木の木陰へ行き腰掛けるように用意してきたシートを敷きました。
「ねえ、円谷君、そのランチバスケットってあなたが用意したの?」 「そうですよ。これでも結構凝って用意してきたので、まずは見てください」 「すごいわね。これって英国風のピクニックランチね。 あら、この香りはシャンツァイかしら? 私についてリサーチした結果、好物が分かったってところかしら」 「ちがいますよ。そんなこと調べたって仕方ないじゃないですか。 これは僕の考えで、あなたにと思って用意してきたんです。 そんなに身構えないでください。僕は僕で、全然いつもと変わりませんよ」 「確かにそうね。さっきの挨拶でよーく分かっているわ」 「からかわないでくださいよぅ」 「ごめんなさい。こういう経験がなくって、どう反応していいのかわからなかったの。 結局、皮肉を言ってごまかすことしか出来なくて」 「きっとおなかが空いているんですよ。どうせ、朝は飲み物だけでしょう」 「どうして分かるの」 「そうじゃよ。さあ遠慮なく食べなさい」 「博士、僕が用意してきたんです。僕の台詞をとらないでくださいよ。」 「そうじゃった。すまん、すまん」 「はい、どうぞ。ワインも冷えてますからね」 「まあ、完璧なサービスね。嬉しいわ」
僕は紙ナプキンと料理をのせた紙皿を宮野さんに渡しました。 「早速頂くわ。ん?この味、これって、あの裏通りの...」 「分かりました?そう...」 「ラビリンス!!」二人の声がそろいました。 「宮野さん、ご存知だったんですか」 「ええ、博士覚えている?一時私が凝っちゃって通いづめたのよね」 「おお、あの店か。わしは辛いのが苦手じゃろ?いつも料理を選ぶのが大変でな。 そのうちマスターが、わし用の皿を用意してくれるようになったんじゃ」 「じゃあ、この料理がそれかもしれません。食べてみてください。 辛いのが苦手な人用のレシピなんです。両方ともマスターからの直伝ですよ」 「むぐむぐ。ほれはよ。ほれ」 「博士、なに言っているのか分からないわ。興奮しないで。頬張ってしゃべるのはだめよ」 「なんだか父娘みたいですね。さっきもそう思ったんですけど」 「そおかしら?なんだかいいわね。ふふふ」
「僕もラビリンスには、よく行っていたんですけど。 一度も会いませんでしたね。どうしてでしょう」 「ねえ、博士。私の勘って、すごいことが分かったでしょう。 私ね。あそこでは会っていけない人に会ってしまう気がして、 必ず個室を予約していたのよ」 「ちょっと待って下さい。それじゃあ僕が会っては、いけない人みたいじゃないですか」 「そんなことはないけれど、その時会わなくてよかったのは事実でしょう」 「まあそうですけど…そうですね、たぶん僕ならその時でも分かったでしょうね。 宮野さんが灰原さんだってことは」 「でも、会ってもどうにもできなかったのではないかしら」
その後は最近読んだ本やよく聴く音楽の話など、とりとめのない話をしていました。 しかし、突然それをさえぎる轟音が聞こえてきて、二人で目を見合わせて微笑を交わしました。 気持ちのよい午後にアルコールの入った博士は居眠りを始めていたのです。 僕はそうなるだろうと予想して持ってきた薄手の毛布を博士にかけてあげました。
「ずいぶん準備がいいのね。いつもこんな感じなの」 「うーん。そういうわけでもないですけど。 やっぱり大切な人の行動は、なんとなく無意識に予想してしまいますね。 コナンくんの影響が大きいかもしれません。新一さんじゃなくてね。 どうしても、いつも意識してしまっていましたから。 だって、灰原さんはコナン君のことが好きだったんでしょう」
「ええ、あの時はそう思っていたわ。 あの狂気に満ちた状況で 同じ境遇でしかも頭も切れる工藤君に惹かれていくのは 自然なことだったわ。 きっと彼が私をすべてのことから 救い出してくれると信じようとしていたんだと思うわ。 でも、宮野志保と工藤新一として会ってみたときに 恋愛とは少し違うと思うようになったの。 工藤君は蘭のことしか見ていないし、入り込む隙がなかったのも確かだけど 決定的だったのは、私にとっての蘭の存在を認識したときだと思うわ。
今思えば、工藤新一でなく江戸川コナンが好きだったのだと思うの。 哀はコナンと秘密を共有していた。 それは蘭の知らない彼を知っているという優越感でもあったわ。 でも、蘭は哀がコナンを好きなことを知っていたし コナンが工藤君であることも確信していたのよ。 分かる?隠す事情があるのだろうと知らないフリをしていたのよ。 人のことには深い洞察力の働く、そんな女性なの、蘭は。 でもね、彼女は工藤君の心を独占してることには気づいてないの。 今ではもちろん、愛されている自信に溢れて輝いているわ。 でもね、彼の心をあれほど独占していることに 気づいていないのは彼女だけでしょうね。 彼女は愛情を与えることに長けた人、与えられることには不器用なのよ。
蘭はね、私の感情や過去のことも含めて すべて受け入れてくれた友人だったの。 それに気づいたとき、私はこうして受け入れてくれる人の存在が ほしかったんだということが、はっきりと分かったのよ。 宮野志保の過去を受け入れてくれるのは わたしと共に危険な戦いを生き抜いた工藤君だけだと思っていたのね。 でも、そうじゃなかった。蘭も園子もわたしのことを温かく受け入れてくれたのよ。
わたしは天涯孤独。蘭のことを家族のようにも思っているの。 蘭も、きっとそう。彼女は父親も母親もいるわ。 でも、決して幸せな少女時代を過ごしたとは言えないと思うの。 大人になった今ならば、両親の愛の形も理解できると思うけれど 多感な思春期の女の子にそれを理解するのは不可能だわ。 結局、いがみ合っている両親としか映らなかった筈よ。 わたしたちの心は自然と寄り添っていったの。支え合う姉妹のように。
そして、私が初めて普通に穏やかな時を過ごすことの出来た 灰原哀という存在も忘れてほしくないと強く感じていることに気づいたの。 だってずるいじゃない?江戸川コナンは蘭の心の中に 時には工藤君のライバルとしてしっかりと生き続けているのよ。 だから、蘭に哀も覚えていて欲しいと願ったし 灰原哀を好きだったあなたに会いたいと思ったの。 そんなわたしを、わがままだと思わないで欲しいの」
「そうだったんですか。 灰原さんの気持ちはよく分かっていましたから それをどう克服したのかと思っていたんです。 だって、蘭さんとお友達ですよね。不思議に思っていたんです。 ああした状況での心のつながりというのは強くて そこから自分を解放するのは難しいことです。 僕は灰原さんが好きでした。ですからとても気がかりだったんです。
僕が灰原さんのことを好きになったのを不思議に思っているのでしょう。 いつもシニカルでポーカーフェースの女の子なんて可愛げがないと 考えているんじゃありませんか。 確かに最初は仲良くなれるのか心配でした。 だって、灰原さんは自分の殻の中に閉じこもっていましたからね。 でも、少したって、いろいろと話すようになったときに 冷たい口調とは裏腹の行動をしていることに気づいたんです。 そして、ある時ふっと見せた 悲しそうで淋しげな横顔を忘れることが出来ませんでした。 これが、あなたの心の内だと分かったような気がしたんです。 そのときから、本当のあなたの姿を知りたいと考えてきました。 それは今でも変わっていません。 そして今、こうして宮野さんとしての、あなたと会えたことは 僕自身の喜びでもあるんです。 宮野さんに何かを求めるんじゃありません。 僕があなたのことを理解したいと思っているんです」
こうして僕たちは毎週金曜日の夜に、ラビリンスで夕食をとるようになりました。 僕たちが二人で訪れた最初の夜、マスターはとても驚いて 僕らの食事のあいだ中ずっと、僕らのテーブルから離れようとはしませんでした。 もっともな驚きであったので、仕方ないと思いつつも 僕としては最初のデートなのにと、少々憮然としてしまいました。 でも、そこは僕の性格で聞かれれば誠実に答えてしまい まあ一種の悪循環というか、そんなところでしょうか。 やはり、宮野さんが期せずしてではあるものの 姿を隠そうとしていた相手が僕で 僕がここ一番のレシピを披露したいと思っていた相手が宮野さんだったのは 僕たちのことを別々に知っていた人にとっては驚くべきことですよね。 もちろん博士用のレシピが本人に使われたのも運命のいたずらでしょうか。
僕たちは毎週のように会っていましたが、特に変わったことは起こりませんでした。 食事をして、話をして、僕が宮野さんのマンションの前まで送っていってと 平凡な日常の一部でした。でも、僕たちにとってはとても貴重な時間でした。 空白の時間を埋めるのには、いくら時間があっても足りません。 二人で過ごす時間はとても充実したものでした。 そうです、ただ一つ変わったことがありました。 円谷君と宮野さんだったのが、光彦君と志保さんに変わったことです。 言い訳がましくなりますが、これはマスターの影響です。 マスターは僕たちが行くと必ず同じ席に案内してくれて、いつも話してゆきます。 そのマスターが光彦君と志保さんと呼ぶので、自然とそうなっていったのだと思います。 ラビリンスは内装が凝っていて、中二階のバルコニーのような席が数席あり その一番奥が僕たちのいつも案内される席でした。とても落ち着いたいい席です。 恋ふたたび:満天の星空へ)
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