恋ふたたび
後編):満天の星空 作・華


連休前の金曜日いつものように食事をしていると

雨が降りそうだから今日は早めに帰ったほうがよさそうだと

マスターがわざわざ知らせてくれました。

せっかくだからと、その忠告に従ったのですが、やはり途中で降り出してしまい

二人ともびしょぬれになってしまいました。

僕が志保さんのマンションの前で別れを告げ足早に帰ろうとすると

志保さんが僕の腕をつかみました。

「今日はまだ時間も早いし、タオルと傘を貸すわ。ちょっと寄ってちょうだい」

志保さんの家を訪ねるのは初めてです。

迷いはありましたが、肌寒い夜で少し温まりたいという誘惑には勝てませんでした。

 

志保さんがシャワーを浴びているあいだに、僕はタオルを借り、ぬれたシャツを脱ぎ

志保さんの大き目のTシャツに着替えさせてもらいました。さすがに男物はないみたいですね。

志保さんの部屋は白とベージュに統一されたモダンな雰囲気になっていました。

ソファーにあるクッションと飾られている絵の額縁のグリーンが

アクセントになっています。グリーンは僕の好きな色です。

それだけで、なんだか幸せな気分になってきました。

気がつくと志保さんはシャワーを終え、お茶を持ってきてくれました。

 

「いいかおりですね。何のお茶ですか」

「ガラムマサラをいれたミルクティーよ。マサラティーっていうらしいんだけど。

夜はミルクティーが落ち着くと思ったの」

「ありがとうございます。いただきます。温かくておいしいですね。

本当はご迷惑だとは思ったんですけれど、体が冷えてしまっていたので

ご厚意に甘えてしまいました。すみません」

「いえ、こちらこそごめんなさい。引き留めたりしてしまって」

「なにか話があるのではないですか。どうしたのですか」

「鋭いのね。ばれていた?」

「ええ、志保さんが僕の腕を掴んだときの力が強かったので、そう思いました」

「わたしね、冷たい雨の降る日は苦手なの。

だから、あんなにあっさりとさようならが言えなくて」

「本当にそれだけですか」

「本当にそれだけの理由よ」

 

こういうとき、恋人たちはどうするのだろうと遠くに思いながら

口をついて出てきた言葉も滑らかに、僕は無意識の行動に出ていました。

「それでは元気の出るおまじないを」

と言いながら、志保さんをそっと抱き寄せました。

シャンプーのさわやかな香りが僕の心をくすぐります。

そして、頬にくちづけをしようと顔を近づけたとき

志保さんが僕の顔を見上げるように向きを変えたので

唇に軽く触れてしまいました。

志保さんは一瞬驚いたような目をしましたが、にっこりと微笑んで

僕の首に腕を回してきました。

もう僕は止まりません。志保さんの唇に甘く長いくちづけをしました。

志保さんと僕は離れられませんでした。

二人の吐息が重なり夢中になりかけたとき

志保さんが顔を背けました。

驚いて志保さんの顔を両手でそっと挟み向き合うと

彼女の美しい瞳には大粒の涙があふれていました。

僕は彼女をただ抱きしめました。

 

しばらくして、志保さんが落ち着いたようなので、抱きしめていた手を離し

台所へ行き、コップに水を満たしてきました。

志保さんはそれを無言で受け取ると、ゆっくりと飲み干しました。

そして彼女は口を開きました。

「光彦君、あなたは全然悪くないの。私がいけないの。

私、いつからか、こうなる瞬間を待っていた。ずっと待っていた気がする。

でも、それを受け入れてはいけないという心の葛藤がいつもあったわ。

私は犯罪組織に属していたことがあって

しかも、そのメンバーの愛人だった過去を持つ汚れた女。

あなたの温かい愛情に包まれると

皮肉なことに、その忘れかけていた汚れた事実が

私の心の中で浮き彫りになってくるの。

変えられない事実として」

 

彼女の悲痛な叫びに、僕はただ抱き寄せることしかできませんでした。

志保さんは泣き疲れたのか、心の内を吐露して安堵したのか

ごめんなさいと泣きながら、やがて僕の腕の中で眠ってしまいました。

そんな志保さんを僕は、ますます、いとおしく思ったのでした。

彼女をベッドまで運び、僕は居間のソファーに横になりました。

 

カーテンの間から朝の光が差込み僕は浅い眠りから目覚めました。

昨夜の出来事は夢のように遠いものに感じられましたが

彼女の家にいる僕、そしてベッドで寝息を立てている彼女を確認して

やはり実際にあったことなのだと思えました。

僕は冷蔵庫を覗き簡単な朝食を用意したあと

持っていた小説の続きを読みながら、彼女が起きてくるのを待ちました。

 

程なく志保さんは腫れぼったい赤い目をして起きてきました。

泣きながら寝てしまったのですから当然です。

「ごめんなさい」

彼女は消え入るような声を絞り出して言いました。

「志保さん、朝の挨拶はおはようですよ。

さあ、朝食です。もし食欲がなければ飲み物だけでも」

僕は努めて明るく話しかけました。

ぼんやりと椅子に腰掛けている彼女をよそに、僕は普通に朝食をとりました。

そして、志保さんと声をかけ、強引に唇を奪いました。

態度は強引でしたが、くちづけはあくまでも、やさしく、そして甘く。

拒否されることも予想していましたが、意外にも彼女はそれに応えてくれました。

優しく閉じられた彼女の目からは一筋の涙がこぼれ落ちました。

 

そして、僕は志保さんに告げました。

「僕はこれからいったん家に戻って着替えを取ってきます。

冷蔵庫も、もうほとんど空っぽですから買い物もしてきます。

そして、必ず戻ってきますから待っていてください」と。

志保さんが休んでもいいように合いかぎを借り

チェーンだけは外しておいてもらうように頼んで僕は出掛けました。

はやる気持ちを押さえ必要なことを済ませた僕は

急いで志保さんの家へ戻りました。

 

かぎを開けてはいると、志保さんは、まだぼんやりと椅子に座ったままでした。

朝は彼女のことが心配で目に入っていませんでしたが

彼女が身につけているのは、透けるような薄手の生地で出来た下着のようなものだけです。

でも、彼女の姿がとても小さく見え、まるで灰原さんが戻ってきたように思えるほど

その挑発的な姿はあまりに、はかなく、悲しいものでした。

「志保さん」僕は声をかけました。

一瞬ビクっとしたものの、僕の顔を見てほっとした様子で

子供のような笑顔で答えてくれました。

僕は両手いっぱいの荷物を下ろすと、志保さんのそばへ行き手を取って立たせ

体を支えながら居間のソファまで連れて行きました。

 

そして僕はまた台所に戻ると、朝起きたときにチェックしておいた

コーヒーメーカーで熱いコーヒーをいれ、運んでゆきました。

「志保さんはブラックでしたよね」

コーヒーを渡す前に、台所の椅子の背にかかっていたカーディガンを渡しました。

「ええ。ありがとう」

「ねえ、志保さん」

僕はコーヒーを渡しながら話しかけました。

「僕はきっとあなたの気持ちを完全に理解することは

一生かかっても出来ないと思うんです。

でも僕にとってあなたは、僕の愛情で包みたいただ一人の女性です。

その気持ちを簡単に諦める訳にはいきません。

あなたも僕の気持ちに、こたえてくれているからです。

拒む気持ちは本意でないのでは、ないですか。

とにかく僕がこうしてここにいるのは、僕の意思なのです。

僕はあなたが繊細で美しい心を持った女性で

僕のこと大切に思ってくれていると考えています。

なにか違いますか。

志保さんの過去の事実は知っていますけれど

汚れているなんて考えたこともありませんでしたよ」

 

僕はほとんど触れ合うぐらいに顔を近づけてたずねました。

「昨夜や今朝のくちづけは不快でしたか?

嫌だったなんて信じませんよ。だって志保さん。その、あの…」

勢いで話していた僕は自分の頭の中に浮かんだあまりに

きわどい表現に我に返りへどもどしてしまいました。

「あのですね…」

気持ちを落ち着けて続けました。

「お互いに幸せな気持ちになっているのに

どうして罪悪感があるのですか。

温かな愛情だけでは不安ですか。

今はそれで満足してみませんか」

「ごめんなさい」

「志保さん、また言いましたね」

「だって…。私にとって充分過ぎることよ。

それ以上のなにを望むというの?

『ありがとう』それがあなたの言葉に対するふさわしい返事だったわ」

志保さんの美しい瞳はまた涙でいっぱいになりました。

 

僕は志保さんを強く、強く抱きしめました。

そして、彼女の目を見て微笑み甘いくちづけを交わしました。

僕たちのくちづけは徐々に貪欲になり

濃厚で狂おしいものに変わってゆきました。

僕が唇を離すと、志保さんは甘く切ない吐息を漏らし、僕に体を預けてきました。

僕が彼女の首筋と鎖骨に強くくちづけると彼女は身をよじり

彼女の唇から漏れた熱い息が、僕の耳をくすぐりました。

彼女は自分で肩のストラップを外し

身につけていた薄い布はふわりと床に落ちました。

そして彼女は僕のシャツのボタンを一つ一つ外しながら

僕の首筋、鎖骨、胸に熱い唇を寄せてきました。

官能の世界に誘われながら

僕は志保さんを抱き上げ寝室へ連れてゆきました。

 

僕と志保さんは飽くことなく

お互いの体のすみずみまでを堪能し、快楽を求め続けました。

最後に彼女は恍惚のまま僕にすがりついてくるだけで

起きあがれなくなりました。

僕も昨夜、ほとんど眠っていなかったので

その彼女の横で幸せな眠りに包まれてゆきました。

どのぐらいたったのでしょうか。

まだなにも身につけていない彼女に抱きしめられ目覚めました。

彼女のやわらかな姿態に刺激され

僕は再び体が反応するのを感じました。

焦らすような彼女の動きに、僕はゆっくりと応えてゆきました。

 

二人でシーツに包まり、軽いキスを交わしながら、余韻を楽しんでいると

玄関のチャイムが鳴りました。

誰かしらといいながら

出てゆく気のない志保さんの白い背中に僕はキスをしながら

でないんですかと尋ねました。

その一言で、彼女はなにかを思い出したようで

慌ててインターホンを取り行きました。

廊下の向こうから親しげに話す彼女の声が聞こえ

彼女は寝室に戻り、下着の上に僕のシャツを身につけ玄関へ行きました。

 

僕はとりあえずジーンズをはき、ベッドに腰を下ろしました。

話をしている相手の声はどこかで聞いたことがあるような気がします。

突然、話し声が途切れました。

話の内容がはっきりと聞こえていたわけではなかったので

心配になり、大丈夫ですかと声をかけながら玄関へ向かいました。

そこには首筋を隠すように、シャツの襟を立て押さえている志保さんと

僕の姿を見てすべてを悟ったという顔をしながら

耳まで赤くなっている蘭さんが立っていました。

「じゃあ、また、その、電話するわね」と蘭さんは決まり悪そうに帰ってゆきました。

志保さんが、今日、蘭さんに連絡する約束になっていたのを忘れてしまっていて

連絡がこないので、心配した蘭さんが様子を見に来たのだそうです。

 

僕たちは急に現実の世界に引き戻され

朝食を摂ったきり、何も口にしていなかったことに気づきました。

僕が今朝買ってきた材料を使い、二人でパスタとサラダを作って食べました。

そして、志保さんが蘭さんにちゃんとお詫びしたいと言い

結局、僕が新一さんに電話をかける羽目になり

ワイン1本をお土産に、二人で工藤邸をたずねることになりました。

 

外に出ると火照った体に夜風が気持ちよく、少し遠回りして行くことにしました。

ふたりで寄り添って歩いていると、とても幸せでした。

気がつくと公園に来ていました。

僕は志保さんの瞳に捕まってしまい、志保さんの唇を指でなぞりました。

すると志保さんは、こんなところではダメよと言いながら

僕に情熱的なくちづけをしてくれました。

そんな志保さんの態度になだめられ、僕はまた歩き出しました。

その一部始終を目撃されていることも知らずに。

 

新一さんの家に着くと志保さんは、何もなかったかのように

陽気に新一さんや蘭さんと話し始めました。

でも、僕ははずかしくて何も話せず

二人と目を合わせないようにしていました。

「そろそろ、もう1組の客人が来る頃かな」と新一さんがにやりと笑いました。

小さい頃から見なれた、その不敵な笑みに僕は一抹の不安を覚えました。

そのとき玄関のチャイムが鳴り、新一さんが玄関に行くのも待たずに

扉が開き、歩美ちゃんと元太くんが転がり込んできました。

二人とも興奮状態で何を言っているのか分かりません。

漸く聞き取れた言葉は「灰原さん」とか「ずるい」とかそんなものでした。

そうです。彼らには話していませんでした。

僕としては、志保さんと僕との関係がうまくいくにせよ、壊れるにせよ

はっきりとした段階で、話そうと思っていたのです。

そうでなければ、とても落ち着いて話せるとは思えなかったからです。

でも、何でこんなタイミングで彼らが来るんですか。

しかもこんなに興奮して。

 

蘭さんから水をもらった歩美ちゃんが、漸く筋の通った話をしてくれました。

「蘭お姉さん。さっきも電話で話したでしょ?

光彦君が公園でね、灰原さんにそっくりな綺麗な女性とすっごく情熱的なキッスをしていたのよ」

あはは…あれを見られていたんですね。

「なあ、光彦、宮野、もういいだろ。話してやっても。蘭からも色々聞いてるぜ。

ずいぶん素敵な関係に昇格したらしいってこともなっ。」

こんな風に新一さんにいわれても、志保さんは冷静ででした。

「そうね、秘密にしておくつもりでもなかったし、こうなってみると落ち着いて話せそうだわ。

そう思うでしょ?光彦君?」

僕は「はい」と答えながら、志保さんの美しい瞳にぼうっとなり

「光彦、なに考えているんだよっ!」という、元太くんと新一さんの厳しい声が飛んできました。

 

志保さんは、時々涙で声を震わせながらも

今までのことをゆっくりと話していきました。

その間、僕は彼女の手をそっと握っていました。

こうして、まとめて話を聞くと

すべてを知っていた筈の僕も、鼻の奥が熱くなってきました。

蘭さんも新一さんに寄り添い、涙をためていました。

歩美ちゃんも蘭さんと同じように涙をため

そして…え〜〜っ!!!元太君に寄り添っているじゃありませんか。

ちょっとぉ、どういう進展があったんですかっ!!!聞いてませんよっ。

一通り話し終えた志保さんは、とても彼女らしい言葉で締めくくりました。

「それで。小嶋くんと吉田さんには

何であんな時間に公園にいたわたしたちを目撃することが出来たのか

納得の行く説明をしてもらいたいわね」

 

志保さんはこのことをきっかけに

また昔のように博士の家に戻り暮らし始めました。

それから間もなく、歩美ちゃんと元太君が結婚式を挙げ

博士は、すっかりそのモードにはまってしまっていました。

僕が遊びに行くたびに

「娘の花嫁姿を見るまでは、三途の川は渡れないのう。

そうじゃ。孫の世話は誰がするんじゃ。

わししか居らんじゃないか。哀君似の女の子か?

まだまだ、世間さまに必要とされておるのは、気分がいいのう」

と僕にだけ言います。

志保さんに一度同じことを言って、冷たくあしらわれたらしいのです。

志保さんは博士のことを本当の父親のように慕っていて

とても大切に考えていますから

冷たくあしらったという彼女の態度に

少々の引っ掛かりを覚えましたが

なにか出来るわけでもないので

あまり気にしないようにしていました。

僕はまだ彼女のことを全然分かっていなかったのです。

 

仕事の入っていない週末は博士の家か、僕の家で過ごしました。

僕たちの愛はさらに深まっていくように感じました。

僕は完全に志保さんに惑溺していました。

そんな僕の激しい愛情を、志保さんは正面から受け止めてくれました。

とても懐の深い人です。僕は志保さんに甘えきっていました。

志保さんもまた、僕を甘えさせてくれる愛情に隠された密やかな情熱のすべてを

僕にだけ、みせてくれました。

僕だけの知っている彼女の表情、声、動き、そのすべてが愛しく思えました。

一緒にいるときは、どこでも寄り添い、博士や僕の母に言わせると

家族の前でテレもせずにキスを交わすのは珍しいのだそうで。

僕たちは、これが普通だと思っているのですけど。みんな違うんですか。

そうです。新一さんと蘭さんだってそうじゃないですか。

今度、聞いてみなくては。

 

ある夜、志保さんのすすり泣きで目が覚めました。

「…志保さん?…どうしたんですか」

「ごめんなさい。おこしちゃったのね。ちょっと嫌な夢をみたものだから」

「大丈夫ですよ。ここは志保さんの部屋ですからね」

「ええ…」

志保さんは考え込むように黙りこくってしまいました。

この時志保さんがまさか、僕との結婚を完全にあきらめる決心をしていたことなど

僕は全く知りませんでした。

この日を境に、志保さんは将来の話をいやがるようになりました。

はっきりと嫌であるという意志表示が、あった訳ではありませんが

明らかにその話題を避けるようになっていきました。

僕は志保さんと早く一緒に暮らせるようになりたいとばかり考えていましたから

二人の会話は自ずとギクシャクするようになりました。

一触即発の僕らは、ついにお互いの感情を、ぶつけ合うことになりました。

 

最初は、ほんの些細な言い争いでした。

休みを取る日がすれ違ったとかそんなことでした。

でも、お互いにほとばしる感情を抑えることは出来ませんでした。

そして、悲しいほど相手を思いやった結果の問題であることが判明するのに

それほどの時間はかかりませんでした。

僕は志保さんが上司から僕との付き合いについて

意見されていたのを知っていました。

プライベートのことですから、その上司がどう言おうと

セクシャルハラスメントにあたる筈です。

でも、10歳年上の上司である志保さんと僕との付き合いの世間が見る目は

悲しいことに、この志保さんの上司の話に集約されるのも事実です。

ですから、僕はあせっていました。早く志保さんと結婚しなくてはと。

僕のせいで志保さんの評判を落とすわけにはいきません。

そんなことに耐えられません。

 

一方、志保さんは改めて世間の目というものを認識して

僕と結婚することは僕にマイナスになると考えて

当面は恋人のままで、いずれ別れようと考えていたのです。

志保さんの決心は堅いものでした。

先のこともいろいろと考えていたようです。

けっして譲らず

「光彦くんからはもう一生分の愛情をもらったわ。

これ以上あなたを私に縛り付けておくことは出来ない。

私は大丈夫、一人で生きて行けるわ」と言い放ちました。

そして、それを言い終えた直後、志保さんの額に汗が滲んだかと思うと

突然、志保さんの顔から血の気が引き

腰掛けていた椅子の背にもたれかかるように倒れました。

 

近所の医者に往診を頼むと極度の緊張からくる貧血だと言い

安静にして栄養を取るようにいって帰りました。

この医者の診断がヤブだったので

僕はあとで少しだけあせることに、なったのですけどね。

 

体調の悪い志保さん相手に議論をふっかけるわけにもゆかず

看病に専念することにしました。原因は僕にあるわけですから。

体調がすぐれない志保さんは、強がりも言わずに僕の素直な患者となりました。

2日ほど経つと顔色もよくなりました。

まだ食欲はわかないようでしたが

少し元気になって僕と話してくれるようになりました。

僕はまた、志保さんが消えてしまうような気がして

気持ちが焦っていました。

こんな時に相応しくないかもしれないと思いつつ

言わずにはいられませんでした。

もう二度と、志保さんを失うようなことはしたくありません。

 

「志保さん、結婚してください」

 

「残念ながら答えはノーよ」

僕が勇気を振り絞って明確にした言葉は

いとも簡単に否定されてしまいました。

「私はあなたと結婚する気はないし

それを求められるのであれば、恋人としてもいられないわ。

もう、あなたとは会わないようにするわ。

どこか海外で暮らしてみるのもいいわね。

いろいろな研究施設や大学からのオファーが来ているの。

いい機会かもしれないと思うのよ」

 

志保さんの口調はいつもと変わらないものでしたが

どこか唐突な将来設計に志保さんらしさがなく、僕は不審に思いました。

僕は思いついたあることを言葉にしてみました。

「志保さん、今回倒れた理由、正直に答えてください。

おなかの中には僕の子供がいるんではないですか。

まさか身を隠して、出産しようと思っていたんじゃぁ…」

そう言った僕を見る志保さんの目が、僕の考えの正しさを裏付けました。

……ああ、やっぱり……。

 

「志保さんは僕の子供がいるから、一人でも大丈夫だといっているのですか。

志保さんと僕の子供をこの腕に抱けるという素晴らしい未来があるのに

なぜ僕たちが別れる必要があるのですか。

僕はほとんど失いかけていたあなたに会うことが出来ました。

だからこそ、あなたを失う意味がよく分かっています。

もうあなたを失いたくないのです。

僕ひとりで、あなたのすべてを守りきれるなんて甘いことは考えていません。

でも二人でならば乗り越えてゆく力が大きくなると思いませんか。

逃げないで僕と向き合ってください。

もう一度言います。志保さん結婚してください」

 

「いいえ、決心は変わらないわ。誰にも変えられない。でも…ありがとう、光彦君…」

「20年近く、あなたとめぐり逢えることを信じていた僕を侮らないで下さい。

いくら、志保さんが逃げても、どこまでも追っていきますよ」

「20年……そう、20年近く、私は待っていたのね…。

そして、その間、ずっとあなたの成長を見守ってきたんだわ。

あなたは私が考えていたよりも、ずっと素敵な男性になってしまった。

まさか、私が恋に落ちるなんて…。

その先のことは、なにも考えられないほど夢中になったわ。そうだったんだわ…」

志保さんの表情が明らかに変わってきました。

「でも、いつも、いつも、びくびくしていた…。

光彦君の愛情に包まれていても

それは、いつか消えてしまうもののような気がして

必死にしがみついていたの。

私に対する周りの厳しい目も、よくわかっていたから

ずっと一緒にいるのは不可能だとも感じてきていたわ。

だから、その刹那の記憶を、どうしても私の手のうちに欲しかった。

せめて、あなたの子供を…

…あなたの子供に愛情を注ぐことだけでも許して欲しかった」

 

志保さんの顔から、ようやく僕だけに向けてくれていた

あの美しく優しい表情を読み取ることが出来ました。

いいんですね…僕は自分の心にそう念じると

志保さんの答えを聞く前に言ってしまいました。

「どうして、僕のことも手に入れようと考えないのですか。

僕と志保さんは、これからもずっと一緒です。

なにも失う必要なんてないんです」

僕は志保さんの顔が見えませんでした。

僕の目には涙があふれていたからです。

 

 

 

僕は娘の寝顔を見ながら、いろいろなことを思い出していました。

結局、あのとき、志保さんの答えは聞かずじまいだったことも。

その思考は鳴り出した電話で途切れました。出張中の志保さんからの電話です。

「もしもし、今日はやっぱり休んでしまったの?

愛も、もう4月から小学校に通っているのよ。ジジ(博士)ひとりで大丈夫よ」

「そうですけど、こんな口実がなければ

休みを取って愛とゆっくり過ごすこともできませんからね。

だって、今の愛は僕にとっては特別なんです。他の皆にとってもそうですよ。

『哀ちゃんにそっくり〜』と言われて、愛は目を白黒させているじゃないですか。」

「そうだったわね。やっぱり哀に似ているのかしらね。

何だか妬けちゃうわ。予定を早めて帰ろうかしら」

「だめですよ。ちゃんと仕事をしてください。こちらのことは心配しないで」

「うふふ、冗談よ。でも、あなたに早く会いたい。愛しているわ。

私の心はいつもあなたのそばにあるわ。起きて電話を待っていてくれて、ありがとう」

「志保さん、僕も愛しています」

僕は受話器を置き、窓の外の星空を見上げて、もう一度その言葉をかみしめました。

 

僕の心は志保さんの瞳の中にあります。

志保さんの美しい瞳が輝くとき、僕の心に命の息吹が芽生えます。

志保さん、愛しています。

 

おしまい

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