ゆ
夢でも嘘でもかまわない
しんと静まり返った夜の闇。
寝つかれなくて布団から這い出た。隣にいるはずのおっちゃんはまだ帰っていない。飲みに行ったきり。時折こっそり朝帰りするのを俺は知っていた。まだ夜も明けきらぬうちにこそこそと帰り、布団に潜り込む。まぁ、詮索はしないでおこう。蘭にも、…別に報告するほどのことでもないかと思う。
喉に渇きを覚え、リビングを抜けてキッチンに向かった。冷蔵庫にあった天然水をコップについで一気にあおった。ことのほか冷たくて、身震いしてしまう。
寒いとか冷たいとか、そういう感覚がどうして「寂しさ」と繋がるのかわからない。「心細さ」に繋がるのかもわからない。「不安」を覚えるのかもわからない。
ただ、どうにも人肌が恋しいってことなんだろうかと、漠然とそんなことを思った。そして手を見る。その小さな手を。
頬に冷え切った部屋の空気が痛い。布団にくるまって温まったはずの体が次第に冷えていく。
「寒ぃ…」
静まり返った部屋に響く自分の声に落胆する。慣れたと思っていたのに。この子どもの声にだって。
一人きりなのに、夜中なのに、布団から這い出たばかりなのに、それでもついメガネをかける癖がついてしまっていた。
「バッカみてぇ…」
自嘲してメガネを外した。
「こうしたところで、コナンはコナンだけどな」
坂道を転がるように、心がどこかに転がっていく気がした。止めなきゃと思うのにブレーキが見当たらない。もういっそ、このままどこまでも転がってもいいかと思うくらいに心許ない。
蘭の部屋を窺う。すでに光はなく音もない。眠っているのだろう。
俺は思い出す。蘭は一度寝たら滅多なことでは起きないということを。そして、今この家には俺と蘭の二人きり。
部屋のドアを開ける。ベッドで寝息を立てている蘭がそこにいる。無防備に。そして安らかに。
眠っている蘭の顔をもっとよく見たくてベッドのそばに寄る。こういうときに暗闇はホッとする。暗闇と言っても、すでに闇に目が慣れているから、案外くっきり蘭の顔が見えた。
「蘭」と危うく口にしそうだった。やめるのが正解。自分の声など聞きたくない。
そこにいるのは高校二年の蘭だ。今の俺はせいぜい小学一年生の姿で、不釣合いもいいところ。
あのトロピカルランドで甘い夢を描いていたことも、いつか必ず本当の姿で本当の声で伝えたいと思っていたことも、今の俺には遠い夢。そんな未来は本当にやってくるのか、もう二度と手に入らないものじゃないのかと、苦しくなる。
この距離。毎日顔を合わせて、時に手を繋いで、話して笑って。そこに「幸せ」を見つけることも出来る。だから、そこで寝息を立てている蘭を見て、その寝顔に微笑んでおしまいにしたっていいくらいなのに。
例えば。コップに水をつぐとしよう。八分目あたりまで。これなら静かに歩けば零れたりしないだろうと俺は思う。だから、このくらいにしたのだと。けれども、時に何かが揺らいで。それは、自分の指先が震えたせいだったり、はたまた何かに蹴つまづいた拍子だったり、もしかしたら地盤のせいだったりするかもしれない。縦に揺れたり横に揺れたり激しく揺れたり。そうすると当然水は零れてしまう。溢れてなくても零れてしまう。
俺の思いは、溢れ出す。きっかけさえおぼろげで頼りないものだけど、そんな自覚だけはあった。恋しくてたまらないのだと。
「蘭」
愛しい名前を呼べば呼ぶほどに、その想いが増すことを知らなかった。つぶやくように二度三度、その名を呼んで辛くなった。
強気な自分に戻れない。弱い自分が言い訳のように。
…もう元には戻れないかもしれない。
ずっとこのままかもしれない。
──そんなのは嫌だ。
だけど。
蘭の髪にそっと触れる。すくい上げると隠れていた白い頬が見えた。閉じた目に長い睫。
姑息だとか卑怯だとか考える余裕もなかった。
惹きこまれるように唇を合わせていた。
どんな意味があるとかないとか、自分でも何もわからずに。
一瞬のキスが叶うと、求める気持ちが止まらなくなるとわかった。
触れたい、抱きしめたい。出来るなら、その唇で俺の名前をなぞってほしいと。夢でも嘘でもかまわないから。
身じろぎをした蘭がうっすら目を開けた。俺の心臓は瞬間飛び上がる。けれど、蘭はまだ夢の中だった。
つぶやく声を聞いた。それは幻だったのかもしれない。俺の願望があまりに強すぎたから見えた幻。でも、それでもいい。
「…新一?」
問いかけたのか確認したのか、本当は最初からそんな言葉じゃなかったのか。蘭が俺を見て言ったから、俺は無意識に頷いて微かに笑った。
たったそれだけで、また蘭は目を閉じた。寝息は規則正しく。
俺は踵を返した。
蘭の部屋をあとにして思う。心の底から帰りたいと。
夢を見てる場合じゃない。嘘にしがみついてる場合じゃない。
歩き出すよりほかないじゃないか?
俺は暗闇でメガネをかける。どんな姿でも俺は俺だからと。強くなるために。おしまい
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