飛び込みたいくらいの青空



 はじめてスケートに行ったのは小学校低学年の頃。一年生だったかなぁ。…あれはお母さんが出て行った年の冬のことだった。
 わたしにはオトナの事情なんてわからない。ただ、お母さんがいないという毎日があっただけ。だから、
「蘭っ。スケートに行きましょう」
 何の前触れもなくお母さんがやってきた時には驚いた。なんでも久しぶりの休みらしくて、笑顔でそこに立っていた。
 わたしはそんなお母さんを目の前にしてどうしても素直になれないでいた。恨み言しか浮かばないけど、どうしてだかお母さんを傷つけることは出来ないとも思っていた。……上手く笑えない。
 だから、わたしは聞いた。
「新一も誘っていいよね?」
 誰かがいてくれたら大丈夫な気がした。少なくとも突然怒りをぶちまけたり泣いたりしなくて済むと思ったからだ。
 そうしてお母さんの車で、スケートリンクのあるトロピカルランドへ向かった。
 その間もわたしは黙ったまま。新一も変だと気づいていたはずだ。
 それでも、こうして出かけることには心が躍るからイヤになる。はじめてのスケートにドキドキする。滑れるんだろうか、転ばないだろうか…。不安になっていると、隣で新一がニッと笑って言った。
「おめぇ、もしかしてスケートはじめてか?」
「そうだけど…。もしかして新一って滑れるの?」
「当然だろっ? カナダで親父に教わったから」
「カナダ?」
「昨年行ったんだ」
「ふうん…」
 新一はご両親の事情であちらこちらに旅行に行く。ハワイにも別荘があるって言っていた。
「ねぇ、…大丈夫かな? 滑れるかな、わたし」
「大丈夫大丈夫」
「…新一、一緒に行ってくれる?」
「ったりめぇだろっ」
 新一の自信たっぷりの笑顔を見るとなぜかとてもホッとした。
 トロピカルランドのスケートリンクに着いてすぐ、休みのはずのお母さんに連絡が入った。その頃はまだ携帯もなくてポケベルを愛用していたっけ。そして、連絡を取ったお母さんは困った顔をして戻ってきた。
「ごめんね、蘭」
 …まただ。こればっかり。お母さんは「ごめんね」と言って何度約束を破っただろう。
「お母さん、行かなくちゃならなくなって…」
 そして、新一に手招きして、
「新一くん、蘭のことお願いね。夕方、ちゃんと迎えに来るように言ってあるから」
 迎えにって…誰が?
「蘭、お父さんに連絡してあるから」
 そっか帰りはお父さんと一緒かぁ…。
「それじゃ、ほんとごめんね。この埋め合わせはいつか必ず!!」
 お母さんはわたしを拝むようにしてから手を振った。
 埋め合わせ…、もう出来ないくらいわたしの心、空洞かもしれないよ、お母さん…。
 わたしはそれでも無意識のうちに無理して笑って手を振っていた。ホントは悔しくて腹立たしくてさびしいくせに。だからかな、新一がわたしを見て言った。
「おめぇ、素直じゃねぇよな」
「何よ、それ」
「我慢ばっかしてシンドクねぇか?」
「……」
「我慢すんなよな。見てらんねぇ…」
「……」
「今度おばさんに会ったら、言いたいこと全部言えよ。そのほうがすっきりするし、きっとおばさんもそれ待ってると思う。だから、…な? 無理すんなっ」
 新一にそんなふうに言われて、しらぬ間に頬に涙が伝っていた。
 わたしはしゃがみこんで泣き出した。新一は、ただそばでわたしを見守っていてくれた。
 そうして随分して泣き疲れて、ようやくわたしは顔を上げた。涙を流しただけなのに、気持ちが晴れているのが不思議だった。
「ありがとう…」
 つい口から出た言葉。新一は顔を赤くしていたっけ…。
「滑ろうか?」
 あらぬ方向を見ながら新一が言った。
「うん!!」
 わたしは元気にそれに答えた。もう大丈夫。自然に笑えるよ。
 リンクを振り返るとその真上に飛びこみたいくらいの青空が広がっていた。俯いてばかりじゃダメだ。上を向いて歩こう。
「よしっ!!」
 わたしは気合を入れてリンクに降り立った。
 そして何一つ考えずに一歩を踏み出していた。
「きゃぁぁぁぁ」
 早速しりもちをついて、新一が大笑いする。だけど、差し出してくれたその手があたたかい。
 そして、よく見たら、ホラ、氷上に青空が映ってまるでここが青空みたいだよ。
 よし、とわたしはまた気合を入れなおした。
 今、青空の中に飛びこもう。
 ねぇ、新一。わたし、この青空をきっとずっと覚えている。大人になってもきっとずっとね。

 そうして数年が過ぎて、確かにわたしはその頃のわたしを覚えている。だけど、新一は? 新一は今どこでこの青空を見てるのかな?


おしまい
 


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