いつか見たあの青空のように


 ここのところの忙しさにさすがの英理も疲労の色が隠しきれない。
 久しぶりのオフなのに、起き上がる気にもなれず。もう陽は高い。
 ベッドからカーテンをちらと開けて、垣間見えた空に驚いた。それはどこまでも青くて高い、初夏の空。
 大きく伸びをしたあとで、窓を開けてみる。心地いい風が部屋に入ってくる。
「気持ちいい…」
 思わず口に出して言っていた。
 こんな日にじっと家にこもってるなんて勿体ない。そう思わせるようなそんな日和。
 そういえばそもそもこんなふうに空を見上げることなんてここのところなかった。空の青って癒される。
 せっかく起き上がったのに、英理はまた再びベッドに仰向けになって、そうしてそこからの空を見上げた。
 次第にぽろぽろと思い出が零れ落ちていく。

***

 あの日──。

 高校生の頃。
 家の階段で足を踏み外して軽く捻挫したのを聞きつけたあの人が、朝から家の前で待っていた。傍らには自転車。
「乗せてってやるよ」
 とあらぬ方向を眺めながら言う。
 喧嘩ばかりしてた幼なじみのそういう姿に慣れてないわたしは少しばかり動揺して、頬が少し赤かったかもしれない。
 それでも素直になれなくて。
「大丈夫なの? 転ばないでよね」
 などと可愛くないことを言った覚えがある。
「チェッ、イヤなら別にいーんだぜ? オレは…」
 と、結局いつものように喧嘩がはじまって、二人そろってハッとしたときには遅刻寸前と顔を青くすることになっていた。
「とにかく早く乗れよっ」
 慌てて自転車二人乗りで学校へ向かう。
 腕時計を見ると、遅刻寸前と言うよりも、すでにもう遅刻確定。
「あーん、もう、遅れちゃうじゃないっ!!」
 後ろに乗っていてでも、やっぱり文句つけてしまってる自分を英理は少し嫌悪してしまう。
 …どうしていつもこうなんだろう。
 素直になれない。

 その間も自転車は疾走する。
 めくるめく街の風景に目が回るくらいだ。
「ちょ…ちょっと、気をつけてよね。危ないわよ…」
 と背中を叩く。
「んなこと言ったって時間ねーだろ?」
 またしてもここでも喧嘩勃発。
 ちょうど提向津川の河川敷に差し掛かったとき、
「文句ばっかり言うんだったら降りろよっ」
 と、けしかけられて、
「わかったわよっ」
 売り言葉に買い言葉で降りようと試みたのがまずかった。
 自転車ごと揺らめいて、たちまち絶好の芝滑りの土手を転がるように落っこちた。
 キャーとか、うわっとか悲鳴を上げたような気もするけれど、何も言ってる暇もなかったような気もする。回る非日常にただ驚いていた。
 土手の下で止まって、すぐにその状況にドキリとする。
 抱きとめられた手を見て、ああ、庇ってもらってたんだと知る。
「大丈夫か?」
 と聞かれても頷くことしかできない。
 ふっと手が離れ、その顔が遠くなる。
 ──その時、目の前にパーッと青空が広がった。寝転がったまま、その空を見る。
 青くて高くて、吸い込まれそうな空。白い雲がゆっくりと流れている。
 状況を思い返すと、そんな光景に浸ってなどいられないことはわかっているけれど、なぜか、もうどうでもよくなる。
 そんなわたしを見透かすように、あの人は言った。
「たまにはさぼるか…」
「ええっ!?」
 とんでもないとわたしは思う。このわたしがさぼるなんて。
「おめぇ、ちっとは休憩もしないとぶっ倒れるぞ?」
 言わんとしていることはよくわかった。ここのところ受験勉強に必死で睡眠時間がとても少ない。
「オレは寝るぞ?」
 先にそう言って、あっと言う間に寝入ってしまう。
 半ば呆れ、だけど気に掛けてくれてることがとても嬉しい。
 そして空を見ているとホッとする。焦ることなんて何もないと思える。
 そうね、たまには休憩しないとね…。
 瞼がおりる。眠りに落ちる…。

***

 そんなことを思い出しながら、いつのまにか二度寝していたようだ。
 英理はハッとして目覚め、今度こそはと起き上がった。
 大人になって、空を見上げることが少なくなった。きっとあの人も、空が青いことなんて忘れてるんじゃないかしら。あの日のことも──。

 いつか見たあの青空のように今日の空もわたしを癒してくれる。
 ほんの少し素直になれそうな気がして、受話器を上げた。

 

 

おしまい


>>お題