夕陽の中の尋問




 たまご1パック50円に釣られて、蘭は、いつもよりも少し遠いスーパーまで出かけていた。その帰り道。
 提向津川が夕陽を浴びてキラキラと輝いている。
「あ、綺麗…」
 しばし足を止めて見入ってしまった。
 ふと、その河川に見覚えのある人影を見つけた。あれは…。
「哀ちゃん!」
 先日の海で、はじめて笑顔を見せてくれた哀に、少しばかりの親近感を持って声をかけた。哀は振り返り、少し驚いた風に蘭を見た。
「こ…んにちは」
 人に笑顔を見せるのは慣れないらしい。どことなく無理して微笑むのが蘭には痛々しく思えた。
「何してるの?」
「え?」
「夕陽が綺麗だもんね。ここ特等席だぁ」
「あ、夕陽…。ホント綺麗」
「なんだ、気づいてなかったんだ」
「前を見なくちゃ綺麗な風景も、ただ通りすぎるだけね…」
「何?考え事してた?」
「……」
「ごめん、言いたくないならいいんだけどね。うん、気にしないで」
「蘭…さんは?」
「あ、わたし?今買い物の帰り。ちょっとたまごが安かったから遠くのスーパーまで遠征ね。…やだ、所帯じみてるぅ」
 ようやく哀は、くすっと笑った。
「それで、今日のお献立は?」
「今日はね、コナンくんの大好物のハンバーグよ。変わり映えしないメニューよねぇ」
「ハンバーグ…」
「哀ちゃんも好き?」
「ふふ・・・」
 思い出し笑いでもするように哀が声に出して笑った。
「なに?」
「え?ううん。あの江戸川くんがハンバーグ好きだなんて…なんだかね」
「可笑しい?」
「だって…」
(あの平成のシャーロックホームズと言われる工藤新一がハンバーグが好物なんて笑わせるわよね…)とは、勿論蘭の前で言えないことを哀は知っていた。
「哀ちゃんって、不思議な子だね。大人びてるって言うか…」
「ただの変わり者…。それだけよ」
「御両親とは離れて暮らしてるんだよね?どうして?」
「両親はとうに亡くなったの、お姉ちゃんも。いわゆる天蓋孤独ね」
「……そうなんだ」
「同情なんて……」
(やめてよね)と強く言おうとしたのに声にならなかった。その包みこむような蘭の笑顔に哀は癒されていた。
「わたしには博士がいるから。とっても頼りにしてるし、ホントに感謝してるの」
「うん」
「それに…」
「ん?」
「少年探偵団や工藤くんが……」
 言いかけてハッとした。今、『江戸川』でなく『工藤』と口走ったこと、蘭はどう思っているのか?
 その顔は表情一つ変わっていない。気づかなかった?…嘘。だって、その名前に誰より敏感に反応するはずのこの人がなぜ?
「新一が…なに?」
 落ちついた面持ちで哀を見据える蘭。
「わたし何間違えてるのかしらね。江戸川くんって言おうと…」
 どう見繕っても変な言い訳にしか聞こえない。
 ポーカーフェイスなら得意だった。いつでも表情一つ変えず、動揺することだってなかった。なのに、何故この人の前ではこんなふうになるのか。
「哀ちゃん、わたしね、一つ気づいてることがあるの。この前の海で確信したこと。わたし、あなたの手を知ってる。つないで歩いたことあるって思った。それから、その瞳…それも知ってる。…ここまで言えばもうわかるわよね?」
 それは、そう、新一が元に戻っていたあの二日間の「コナン」のことを言ってるのだと、哀はすぐに悟った。
「ねぇ、哀ちゃん。あなたのことを教えて」
 蘭の真っ直ぐな眼差しを哀は直視できなかった。
「わたしの…こと?」
 哀は不思議でならなかった。工藤新一のことではなくわたしのことを何故?ホントに聞きたいのは、そんなことじゃないはずなのに…。
「新一のことは、新一の口からちゃんと聞きたい…。それをあなたから聞き出そうとは思わないの。ただ、あなたのこと…もっとよく知りたいと思うの。ダメかな?」
「それはどう言う…。興味本意なら…」
「友達になれる気がしたから…かな」
「そ、そんな!だってわたしは小学1年の…子供で…」
「ホントに…そう?」
「な!?何を…」
 蘭の悲しげな目を哀は見てしまった。欺きとおされることの辛さ、ひとりぼっちで置いてきぼりの悔しさ…それがわかるから。
(工藤くん…あなた、よくこの人を欺きとおせたわね・・・。ずっといっしょにいて、辛かったでしょうね。今、わたしもようやくその気持ちがわかった。でも……それ以上にこの人の切なさがわかってしまった…だから)
「わたしの名前は宮野志保。今まで組織に…組織って今工藤くんが追ってる組織なんだけど…そこにいて。両親も姉も失って………」
 哀は、言葉をたびたび詰まらせながら自分のことを語った。恐らく新一にも博士にすらここまで話したことはなかったかもしれない。
「わたしの薬のせいでたくさんの人が犠牲になった。わたしは…毒薬を作っていた…。知らなかったとはいえ、その薬でたくさん人が殺されたことは事実。工藤くんもその犠牲者ね…」
「でも新一は死んでなんてない…」
「そう…だけど、犠牲者には変わりない。でしょ?」
 ただ哀の話に耳を傾け頷く蘭。




 そして、時は過ぎて行く。
「そっか……」
 哀のことを聞けば自ずと新一のこともわかる。すべて知ってしまったことと同じ。
「ね。わたしにも何か出来ないのかな?…それとも、やっぱりわたしは足手まといになるだけ……?」
 夕陽は落ち、水面さえ見えなくなった。
 堪え切れない涙が蘭の瞳から溢れ、手の甲を濡らした。
 そっと、哀がその手を握る。
「あなたの存在が彼を動かしてる。あなたがいるから、彼は……」
「え?」
 哀のぬくもりとその言葉に蘭はハッとした。
「だから。・・せめて気づかないフリ続けてあげて」
「気づかない…フリ?」
「あなたがいつも笑顔で彼と接していれば、…それが彼にとっての支えになるから」
 蘭は涙を拭った。
「やだ、哀ちゃん。あなたがそんな顔しなくていいんだってば」
 笑顔を見せて、蘭は、哀を抱きしめた。
「え?」
 哀は驚き、それでもその抱擁にあたたかいものを感じた。
(ありがとう…)
 哀は蘭に。蘭は哀に…。

 すでに辺りは真っ暗で、二人はその場を立ちあがった。
「行こうか?」
「ええ」
「暗いから送って行くわね」
「大丈夫。だって、ホラ」
 指差す方向に遅くて心配して迎えに来た博士が手を振っている。
「あ、こっちも」
 フッと笑って逆方向を見ると、やはり心配していたらしい小五郎の姿があった。
「じゃ、ここでね」
 蘭が手を振ると、そっと小さく哀も手を振る。

 夕陽が少し自分を素直にしてくれた、と哀は思っている。
 夕陽がわたしを慰めてくれた、と蘭は思っている。
 だけど二人は、もう一つの真実にも気づいていた。
 お互いの存在が今、とても大切になったこと。そしてとても癒されたこと。
 夕陽のせいじゃない、すべて、あなたのおかげだってこと…。



 そんな夕陽の中の出来事を工藤新一は知らない──。

fin