わがままな夜

 我侭が下手な蘭が、「いつもそばにいたい」と言えない蘭が、その気持ちを抑えきれなくなると、ただ無口になる。
 機嫌が悪いわけではない。もちろんいいわけでもないけど。ただ静かに同じ部屋に佇んで、その存在をなくそうとしていた。
 陽が落ちて、そろそろおっちゃんの夕飯の支度が気になりはじめる頃だろうに、気づかないフリで、そっと距離を置いて本を読みはじめたり。
「なぁ、時間いいのか?」
 そう聞くのは意地悪なんだろうな。
「うん…もうちょっと」
 まるでその本に夢中なフリして。…けど、さっきからページが全然進んでないことなんてお見通し。
 リビングの長いソファに落ちついているから、俺は何気ないフリでその隣に座った。
「何読んでるんだ?」
「あ…別に…」
 隠そうとするから、その本を取り上げた。
 …ホームズ?…蘭がホームズ?
「いいじゃない、たまには」
 照れたように頬を染めて蘭はソッポを向いた。
 その仕草がたまらなく可愛いから、俺はぎゅっとその肩を抱きしめてしまう。
「あ、ちょっと…」
 蘭はじたばたする。どうしていいかわからないと言うふうに固くなっている。けれど、しばらくすると俺の胸の中に納まり身を任せた。
 その時、電話のベルが鳴りはじめる。蘭はピクリと体を震わせた。またきっと事件なんだと落胆するのがその表情から見て取れた。
 だけど、俺は動じなかった。そのまま蘭を抱きしめて。
「いいの?」
 聞くから「うん、事件は警察にだって片付けられるはずさ」と笑う。
 そしてベルは途切れた。
 と同時に携帯が俺を呼んだ。二人でクスリと笑ってその電源を切る。
 続けて、柱時計がボーンと一度大きな音を立てた。…七時三十分を告げる。
「おっちゃん、腹空かしてるんだろうな」
「そうだね………でも」
「諦めて飲みにでも行くんじゃねー?」
 蘭はクスクスと笑った。
「新一にはなんでもわかっちゃうんだね」
「…だてに幼なじみはしてねーよっ」
「そっか…」
「おめー、もっと我侭になってもいいんだぜ?」
「…え?」
 蘭は黙り込んだ。さてどんな我侭を考えているのだろう。

「冷えてきたな…、コーヒーでも入れてくるか?」
 立ち上がろうとした俺の腕を離さない蘭がいた。
「おい、コーヒー入れるって言ってんだろ?」
 ますます掴む手に力が入った。
 蘭が静かに口を開いた。
「我侭……聞いてくれるんだったら、ここにいて」
 …これが蘭の我侭?
「ここにいるだけでいいから」
 そんなんでいいのか?
 俺は再び蘭を懐に入れると、そうっと髪を撫でた。蘭の髪の香りが、俺のヨコシマな気持ちを誘うけど。
「うん、ここにいる。だから安心しろ?」
「別に不安なわけじゃないのよ…。全くって言ったら嘘になるけど」
 ハハ、そりゃそうだろう。あれだけ待たせてあれだけ心配させたんだからな。
「新一がわたしに嘘をついた。一度でも嘘がつけた。…そのことがずっと心のわだかまりになってるの。…今でも、だから」
 あのコナンだった日々を言っているのか。
「もしもまた、何か事件に巻き込まれたら、きっと……………また平気でわたしに嘘をつくんだろうね」
「…平気じゃないさ。平気なんかじゃ…。でも俺は!」
「うん、わかってる、わかってるんだけどね。わたしのためだって言うんでしょ?わたしを危険な目に合わせたくないからって」
 確かに、それを言ったら、探偵なんてやってる限り蘭と一緒にいられなくなる。本当に危険に曝さないように蘭を守りたければ、蘭と一緒にいないほうがいいに決まってる。
「………ごめん」
 考えの浅い自分に腹が立つ。
 何一つ覚悟を決めていない自分に憤りを感じる。

「ね、覚えてる?中学の時、新一、時々おじさまが事件に関わる度についていったでしょ?それで、面白そうだからわたしもつれてってって言ったら『女は足手まといになるから連れて行かない」って言われて、ちょっとショックだったんだ」
「ああ、そんなこともあったっけ?…けどアレだって」
「わかってる。危険な目に合わせたくないからそんな言い方したんだって。…でも、あの頃のわたしはただ悔しくてね…だから空手はじめたんだよ?」
「えっ?」
「自分の身は自分で守れるようになりたいって…。それから。ずっと新一と………」
 蘭は言葉を止める。
 俺は蘭の顔を至近距離で見つめた。思い詰めた蘭の目がたくさんの想いを物語る。
『ずっと新一といたかったから…』
 言葉にしなくても届いてしまうその想いに、俺はどうして答えられなかったんだろう。
 そして、今ならどうだ?答えられるのか?
「蘭………やっぱり俺はおめーを危険な目に合わせるのだけはイヤだっ。俺のこの手で守りてー。たとえおめーが空手なんて強くなくても、俺が全力で守りてーんだ」
 勢いに任せて想いをぶつける。
「…いや、俺が守る。守るから………俺と一緒にいてくれよ。な?」

 そうか。気持ちを押し殺してたのは俺の方なのか…。
 それは蘭への気遣いでも遠慮でもなかった。ただ俺が自分に自信を持てなかったんだ。
「嘘はヤだからね……」
 少し微笑んで、蘭は涙を落とした。

 どのくらいの時間が経ったのだろう。
 いつの間にか柱時計は八時、九時と時を知らせていた。
 俺は、泣き出した蘭をなだめるために他愛ない話で蘭を笑わせようとしたのに、いつしか得意のホームズの話に熱中してしまい、気づくと蘭は眠りの中だった。
 その髪を撫でながら、時計の音だけ聞きながら、心地よい時間の中に俺はいた。

 明日、おっちゃんのところへ挨拶に行こうか……。うん、そうしよう。

 あ、でもその前に。この天然な蘭が、今の言葉をそういう風に取ってくれてるとは思えなかった。まずはこいつへのキメの言葉が先だな。
 えーっと…なんだ?こういう時はなんて言うんだ?なんて言えばいいんだ?
 …さっきので勘弁してくれないかな。…いや、こういうことはちゃんと伝えないとマズイし。

『ずっとこの家で暮らさないか?
 ってこいつのことだから、単に炊事洗濯してほしいって意味だと思ったりしてな。
 毎朝おめーの作る味噌汁が飲みたいなぁ。
 って、俺朝はパンだったしな、じゃあ…
 おめーの淹れるコーヒーを毎朝飲みたい…。
 って喫茶店みたいだな。
 くすり指のサイズ教えてくれないか?
 ってまだ高校生の分際でそれはないよな。
 黙って俺についてこいっ、
 って…俺のキャラじゃねーって。

 け、結婚しよう。
 結婚しないか?

 結婚するとき、
 結婚すれば、

 ……結婚してください。

 …いやぁ、言えねーって』

 新一の独り言にこっそり耳を傾ける蘭が、その言葉を聞くのは、あと数分後のことだった。
 窓の外は冬の嵐。嵐を理由にずっとこのまま──。