キミと一緒に 〜横浜逃避行〜
夜の横浜の夜景をバックに。蘭の瞳を見ていた。蘭は俺の手を握り締め、そして真直ぐ俺を見た。
「なんでも話してよ…、相談してよ…、嘘とか絶対つかないでよ…」
涙あふれて。
中学生だった二人の、それがささやかな約束だった。
約束だったのに……。
■ □ ■ □ ■
学校の帰りに、蘭が挑戦的な目を向け俺の手を引っ張った。
「お、おいっ。なんだ?蘭」
「いいから、来て!!」
「どこ行こうってんだよ?」
俺は引っ張られるままに蘭に従う。着いたところは駅だった。
「何怒ってんだ?」
蘭の態度はどう見てもおかしい。
「デートしよ、デート!!」
「はぁ?」
わけがわからず蘭を見る。今にも泣きそうな顔で笑ってる。
もしかして、蘭…。
俺には思い当たる節があったのだ。
先日の進路相談の際、俺は日本の大学は受験せず英国留学する旨、担任に伝えていた。英国留学を決めたのは、俺の好奇心以外のなにものでもない。英国のある探偵事務所からの誘いに心が動いた。「より難解な事件に遭遇するチャンス」──俺はいてもたってもいられなかった。
ただ一つの気がかりは蘭だった。「コナン」だった日々、そして元に戻った時、俺は心に決めたはずだ。もう蘭を一人にしないって。蘭から離れないって。
それでも俺は身勝手で、…いや、こんな自分のことくらい、本当のところ、俺はとうに知っていた。好奇心は抑え切れないこと、きっと蘭も知ってるだろう。だから、多分、俺は…………。
決めてからも蘭には言えずにいた。なんて言っていいかわからなかった。
駅に着き、蘭が切符を二枚買ってきた。
「どこ行くんだ?」
「横浜」
「ああ……」
俺は確信した。蘭はもう知ってしまったんだと。そして、俺の「言わない」ことを怒ってるんだと。…いや、悲しんでるのか?
電車から真赤な夕陽が見えた。
「日が…短くなったね。そっか十月だもんね、もう」
何も聞かなくても、蘭はあの日と同じ道を行く。
横浜中華街──。その延平門から入る。薄暗くなった関帝廟にも立ち寄って、狛犬を撫でる。
『その表情、どことなくおめぇに似てるよ』
『そーお?』
あの中学生だった日の二人がすぐそこにいるみたいだ。
そろそろ人が多くなりはじめた中華街を二人で歩きながら、やっぱりその距離があの日──中学の頃──と変わってないことに、俺は自分の不甲斐なさを思った。
人の波に押されて、転びそうになった蘭の手を掴んだ。
「ちゃんと前向いて歩けよっ」
素っ気無い言葉しかかけられない俺は、あの時のまま。つないだ手は、放すきっかけも失っていた。
「腹減ってねーか?」
「新一は? なんか買っていこうか?」
「そうだな」
俺の頭によぎって行くように、蘭の頭にもあの頃の二人がよぎっているんだろうか。……だけど、あの頃の俺たちと今の俺たち、何かが違う。
俺たちは本当に話したいことや聞きたいことを避けながら、別の楽しい話を探して、あれこれ話題を変えていく。
園子の話。
「真さんを追って、アメリカいってホームステイしたでしょ? でさ、帰ってから園子の口から出る話って、そこの家にいた男の子のことばっかりで…」
「園子らしいよな」
「すんごく可愛かったみたいよっ。真さんから乗り換えちゃおっなんて」
「はは、相変わらずだな」
「でね、最後に聞いたの。その男の子っていくつなのって。…そしたらね」
蘭は楽しそうに笑う。
「ふふふふふ。まだ八才なんだって」
「なんだ…、そう言うオチ?」
「それで、コナンくんってこんな感じだったのかなぁって言ってたよ」
「えっ?」
「全然違うのにね…」
痛い。なんか痛かった。それはとても懐かしい痛みでもあって。
蘭の瞳の奥にある、その悲しみの色。忘れない、忘れられない。
あの日と同じ。コナンだった、あの日──。
■ □ ■ □ ■
──昨年の夏のこと。
夏休み直前。蘭は期末試験の最終日の翌日だった。つまり学校は試験休み。
俺はその時小学生で、いつものようにランドセルを背負って「行ってきます」と言って家を出た。
その俺のあとを蘭が追ってきた。
「コナンく──ん!!」
見ると制服姿で。
「あれ? 蘭ねーちゃん試験休みじゃないの?」
「う、うん、ちょっとね」
要領を得ない答えに首を傾げる。
その時、通りの向こうにいつもの少年探偵団の光彦、元太、歩美の姿が見えた。あっと思って声をかけようと手を振り上げようとした時、
「ねぇ、コナンくん、今日つきあって」
その手を蘭に取られた。
「え?」
「ね? いいでしょ? コナンくん」
笑ってるのに悲しそうで寂しそうな顔。蘭、おめぇ、なんでそんな顔してんだ?
蘭は駅に向かっていた。俺は黙ってついて行く。
切符を渡され、電車に揺られる。さすがにランドセルは邪魔になったので、コインロッカーに入れてきた。
「ねぇ、蘭ねーちゃん、どこに………」
聞くまでもなく。
…横浜、だな?
あの日通りに蘭が横浜の街をたどる。
俺は、どんな顔をしていたんだか。
「ねぇ、コナンくんはここ来たことあるの?」
「あ…えーっと、ムカシ…」
「そっか、来たことあるんだ」
山下公園まで歩いて、海を見る。その向こうのベイブリッジ。別方向のみなとみらい地区。目の前の氷川丸。どれもこれもあの日と同じ。ただ、俺が俺じゃないだけのこと。
聞きたいことはあるけれど、それを蘭に聞くのが怖かった。
『なんで横浜なの?』
『これからどうするの?』
『何かあったの?』
そして、『どうして僕なの?』
もしも、蘭があの日の思い出を語りはじめたら、俺はいたたまれなくなる。思い出すまいとしていた言葉を思い出して苦しくなる。
あの日の悲しそうな蘭の瞳が蘇る。……そうだな、蘭が語らずとも、俺はすでにいたたまれない気持ちで。
「なんでも話してよ…、相談してよ…、嘘とか絶対つかないでよ…」
思い出すまいとしていたあの言葉。耳鳴りのように頭に響く。
「お腹空かない? なんか買って食べようよ」
案の定、中華街で買物をして、再び公園へ戻って豚マンなんかをパクついた。蘭は「あの日通り」を貫こうって言うのか?
公園で昼食を済ませたあと、シーバスに乗ってまんまとみなとみらい地区に入ることになった。
蘭は、俺の手を離さない。
「ゆ、遊園地だねっ」
俺の顔は引きつっているだろう。
「観覧車でも乗る?」
「え……、う、うん!!」
乗らない理由なんて思いつかない。
観覧車に向かい合わせに座って、蘭は口を開いた。
「園子がね、昨日アメリカに発ったのよ」
「ふうん」
「真さんに会いにね」
「ふうん」
「待ってるだけじゃ何もはじまらないよって……」
「え?」
「明日…ううん、今日これから…ううん、もっと…例えば、五分後に何があるかなんてわからないじゃない? 事故に遭って大変なことになることだって、事件に首を突っ込んで巻き込まれることだってあるわけだから。だから。大切にしなくちゃって。この一分一秒……」
蘭が言わんとしていることが掴めずじっと様子を見る。
「園子はね、簡単に言うの。『酸素切れ、呼吸困難、もう限界〜!!』って」
思い出してるのか、小さく笑う。
「どう言う意味?」
「ただ会いたいだけなの。ただ……それだけなんだよね」
俺は言葉を失う。そんな俺を見て今度は俺に問い掛ける蘭。
「ねぇ、なんで『どうして?』って聞かないの?」
「え…? な、なにがぁ?」
「わたしに聞きたいこと、なんにもないの?」
「……別に」
「じゃあ……わたしに何か言いたいことは?」
「……ない」
俺の声は小さかった。蘭の耳に届かないほどに。
すると、蘭が立ち上がって俺の隣を陣取る。
「わたしに言いたいこと…何もないのね? コナンくん……」
悲しげに俺を見る。俺を? 蘭は、誰を見てる? コナンじゃなくて、俺なのか?
…………『俺』だって気づいてるのか?
「なんでも話してよ…、相談してよ…、嘘とか絶対つかないでよ…」
蘭は目を逸らし遠くを眺めながら、あの日の言葉を口にした。
幻聴じゃないよな?
意図を知りたくて蘭を見る。
蘭はゆっくりとその視線をこちらに移した。その瞳にコナンが映る。俺じゃないコナン。でも、確かにこの俺だ。
「ごめんっ……」
あっ、俺、何を……。
咄嗟に「ごめん」なんて、考えもなしに口から滑って出た言葉。
音もなく観覧車は回る。もうすぐてっぺん。
「僕がもし、新一兄ちゃんなら『ごめん』って言って、蘭姉ちゃんに謝るよ」
苦しい言い訳。
「僕がもし、新一兄ちゃんなら……蘭姉ちゃんになんでも話して、嘘なんか絶対………」
言葉が続かない。
「僕がもし、新一兄ちゃんなら……こんなに蘭姉ちゃんを…泣かせたり、待たせたり…、きっと…絶対……」
やっぱり言葉を結べない。俺はガキだ。いや、嘘が下手なだけなのか。
こんなぐちゃぐちゃな言葉たちを、蘭はどう捉える?
「コナンくんはやさしいね…。新一みたいに嘘がつけない」
今にも泣きそうな優しい笑顔は、俺をそっと包み込んだ。
耳元で囁いたその声は、きっと俺を困らせようとして出たものじゃない。
呼びたかったのかもしれない。どうしても。今。……その名前を。
「新一っ……」
蘭の瞳から涙が落ちる。頬を伝う。
それを見たら、他に答える術はなかった。俺は呼んだ。……その名前を。
「蘭……」
観覧車が地上に降り立つその時まで、ほんの僅かな時間、俺たちは「新一」と「蘭」に戻った。
しあわせと切なさとうれしさと苦しさと。感情が入り乱れて、とめどなく溢れて………。
■ □ ■ □ ■
「あーあ、もう日が暮れてきたね…」
氷川丸を目の前に、大きく伸びをして蘭が言った。
蘭は、横浜に着いて尚、俺を問い詰めるようなことはしない。触れようとしないから、俺もまた知らないフリを決め込んで。
遠く観覧車がきらびやかに光ってる。そして反対側のベイブリッジもまた。どちらも俺を責めたてている。
ここでまた、蘭は俺を裁きにかけようとしているのか?
「蘭は、このあとどうしたい?」
「え?」
「船で向こうへ行くか?」
観覧車を指す。
「それともあっちか?」
ベイブリッジを指す。
「わたしは………」
俺の言い方が気に障ったのか、蘭は身を翻した。
「もういい!! 帰る!!」
そう言うと、どんどん駅のほうへ向けて歩きはじめた。
「おいっ……なんだよ、蘭っ!!」
意外な行動に俺は慌てた。
「ちょっと待てよっ。何がなんだかわからねーじゃないか?」
蘭は走り出した。勿論、俺は追いかけて必死で追いついて、その手首を掴む。周囲の視線が集まるのを感じて、素早く路地に引っ張り込む。
「言いたいことがあったらちゃんと言えよっ」
「もういいっ。もういいって言ってるでしょ?」
「そんなんじゃわけわかんねーって言ってるだろ?」
「新一のバカ!! わかってるくせに…本当は全部わかってるんでしょ!? だって、ここに来れば…だって」
「だって?なんだよ?」
そう言って引き寄せた拍子に、そのまま蘭がすっぽりと俺の胸の中へ納まった。
「留学の話……か?」
逃さないように俺は蘭を抱きしめた。
「言わなかったこと怒ってんのか? それとも勝手に決めたことを……」
蘭の瞳の中に悲しみや苛立ちが見え。「新一……どうして…」と言いかけてやめる。
…蘭が言いたいことは、それだけじゃないって、俺は気づかぬフリしてたのかもしれない。俺も自分の気持ち、誤魔化していたのかもしれない。
そんな俺たちの前に、言いがかりをつけてくる厄介な連中が現れた。三人組の男たちはアルコールの匂いを漂わせながら。
「にーちゃん、彼女を泣かすんじゃねーぜ?」
「嫌がってんじゃねーか? 離してやれよっ」
俺の手を蘭から引き離そうとしてくる。勿論、そんな力には応じない。
「あれ? こいつどっかで見たこと…あ!! 高校生で探偵やってる…」
「あー!!工藤新一!! こいつ、工藤ってんですよっ」
「ほぉ…そんな有名人がこんなとこで女の子泣かせてるとはおもしれー」
「まずは彼女を助けてやるとしようかな……」
一人の大柄の男が蘭の肩に触れた。瞬間、俺はその手を払って言い放つ。
「蘭に触んじゃねーよっ!!」
蘭を庇うように男の前に立ちはだかる。
「下がってろっ。絶対手出しするんじゃねーぞ?」
蘭に耳打ちする。
「で、でも新一……?」
加勢なんてさせるかよ……。
「ほぅ。やろうってのか?」
相手は三人。無謀かもしれない。さっさと逃げてしまうのも一つの手段だったかもしれない。だけど………。
「つまり俺たちが勝ったら、このねーちゃんはいただきってことだな?」
「なにぃ!!」
俺は頭に血が昇って握り拳に力が入った。
情けない喧嘩だった。強い奴らだった。何度も拳を頬に腹に受け、こっちからのパンチは全く入らない。それでも負けるわけには行かなかった。
口の中を切って血がほとばしる。ダメージは足に来る。
それでも。持ち堪えて立っていること。立っている限り負けではないと思った。意識の遠くで蘭が俺を呼び、叫んでいるのが聞こえる。
もう何がなんだかわからなくなった頃、誰かが通報したらしく警官がそこに現れ、奴らは退散した。
警官に「大丈夫か」と問われ、ややこしいことは面倒だったので「かすり傷ですから」と答える。
再び蘭と二人になって、蘭はまた俺に「バカ!」と言い、そして泣いた。
「なんで? なんで手出しするななんて言ったの?」
「さぁ、なんでかな。俺、カッコつけだから…」
笑って見せる。
「わたしの空手があったら、もっと………」
「バーロー、面子をちゃんと見たか? 見覚えなかったか?おめぇ……。空手の全国大会で見た顔があったぜ?」
「えっ?」
「おめぇだって無敵じゃねーんだ」
「……でも、それじゃ負けるのわかってて……」
「いや……そいつは違うな……………!!」
俺は断固として言った。
「俺は、負けるつもりなんてさらさらなかったぜ?」
ニッと笑うと、蘭もクスリと笑った。
それは絶対虚勢を張ってたわけじゃない。けど。確実に蘭を守る方法としては、逃げる方が妥当だったに違いない。それはわかってる、わかってたのに逃げたくないと強く思った。…なぜ? …多分。俺は『自分』から逃げたくなかったんだ。そして、俺はもう逃げるのはよそうと思った。ちゃんと蘭をまっすぐに見つめたいと。
「大丈夫? ちゃんと歩ける?」
蘭の肩につかまって歩く。
「駅まで、すぐだから大丈夫よね?」と聞くから「駅?」と聞き返した。
「なんだぁ?ここまで来て、もう帰るのかぁ?」
「だって…新一すごい怪我……」
「ダイジョブだって言ってんだろ? ──つっ…」
いや、体中が痛かった。大丈夫と言うのは当然強がりで。それでも。
「行こうぜ?──観覧車!!」
俺は観覧車を指さした。
観覧車を目指して歩きながら、時々、隣の蘭の横顔を盗み見る。肩を貸してもらってるから、いつもにも増して近くで蘭を感じる。その暖かさも伝わってくる。
今でもまだ、中学の頃と同じ距離を保ってる俺たち。コナンから新一に戻って、それなりに気持ちの整理をして、その距離を縮めるチャンスはいくらでもあったはず。…それをしなかったのは俺の、計算、だったのかもしれない。
………俺は再び蘭を泣かすかもしれない。今も探偵。それでも探偵。事件があれば飛び出して行く。止まらない好奇心。それゆえ留学の話も決めてしまうほどに。だから、近づけなかった。幼なじみと言う距離を縮めようとはしなかった。……俺は逃げてたんだと思う。
俺は、蘭に言葉以上に近づくことはしなかった。「新一」に戻って尚、まだそのくちびるに触れることもなく………。
■ □ ■ □ ■
──夕暮れ時だった。コナンから新一へ。蘭との再会の日。
「これから帰る」と電話しながら、すでに足は探偵事務所へ向かっていた。蘭は「今どこ?」と驚きの声を上げる。「もう探偵事務所の前」と告げると、電話を放り出して蘭が現れるまでほんの数秒。
変わらぬ顔でいつものように「よぉ、蘭!! ただいま。随分待たせちまったな?」とかなんとか元気に言い放つはずだったのに。俺の口から滑り落ちたのは。
「サンキュ………」
一言。蘭は涙した。俺はたまらずそんな蘭を引き寄せ抱きしめた。
相変わらず泣き虫な奴だ、しょーがねーな。と思いながら。だけど本当にしょーがねーのは自分の方で。
待っててくれてサンキュ。今、ここにいてくれてサンキュ。ずっと、そばにいてくれてサンキュ。…いくつもの「ありがとう」を込めて。
だけど、もっと言いたい言葉があるんだ。…簡単な一言だ。たった一言でいいのに。
抱きしめるだけで精一杯で、俺は何も言えずに。…今、声を発すれば当然蘭は俺を直視するだろう。……見せたくなかったんだ、男の涙、なんてな。
もうあと数分で闇に紛れることが出来る。日は沈み、夕焼けの赤色も遠のいていく。「別れ」が近づいてきた。俺は俺の家へ。蘭は蘭の家へ。そういう当たり前の日常が、もうすでにはじまっていたのだと気づく。
だけど、切り出せやしない。「またあした」って言えない。肝心な一言も取り残されたまま。
「あ、いけないっ、晩ご飯の支度ーっ!!」
蘭が先に現実に引き戻されていく。
「ねぇ、新一も食べてく?」
こう聞かれても「うん」とは言えなかった。
「いや。俺も家に帰らなくちゃな」
ちょうど一週間前、両親がロスから帰宅した。しばらくこっちに滞在するという。今日は有希子曰く「ご馳走作って待ってる」らしいから。だから。
蘭も少しさびしげに「そっか、そうだよね…」とつぶやくように言った。
「それじゃ、行くね?」
そして、やはり口火を切ったのは蘭。
「ああ」
それでも「またあした」と言えない俺。
「新一?」
「え?」
「手……」
俺はいつのまにか蘭の手をしっかりと握り締めていた。
これ、離すのか………?
「なぁ、蘭……」
「うん?」
「俺………」
切り出そうとするその言葉を待たず、蘭が言う。
「…な、なんかこれって別れを惜しむ恋人同士って感じだよね?」
これは蘭の天然なのか、それともわざとはぐらかしたのか。それでもその嬉しそうな笑顔だけはホンモノだった。
恋人…って言葉が俺を赤面させた。…そうなるのか。ここで一言言えば。にしても、抱きしめておいて今更って気がしないでもない。
「そんなにわたしと別れるのが名残惜しい?」
からかうように蘭が笑う。
惜しい。惜しいに決まってる。
「バーロ、明日から嫌でも毎日学校で顔合わせるんだからよっ。…じゃ、な!!」
俺は心と裏腹な言葉で強がる。スパっと手も離して。
「明日の準備、わかってる?」
「へ? 準備って?」
「学校のよ。…じゃ、後で電話するね?」
「おぅ!」
気づくと、大事な言葉も約束も、何もしないままで二人手を振っていた。
何事もなかったように、再び日常が戻ってきた。単なるあの日──トロピカルランド──の次の日のように。
■ □ ■ □ ■
二人で観覧車を見上げた。そのイルミネーションはまるで花火の大輪のようにキラキラと揺れていた。
「綺麗ね…」
蘭はこういうのが好きだ。
「きっと、上からの夜景も綺麗だろうな?」
言いながらも、先ほど殴られ蹴られた体のあちこちが痛むから、顔が歪む。
「……っ」
「…大丈夫なの?」
心配そうに顔を覗く蘭。
また観覧車。ここは、いわくつきの場所。
はじめて二人で乗った中学生の頃。俺はここで自分の気持ちと向き合った。蘭がとても大切な存在で、ずっとそばにいたいと思った中学生のあの日をよく覚えてる。
そして、コナンとしてここへ来た夏のあの日。あの日のことを………もう一度。………思い出そうとしたら、目眩を感じた。口の中を切ってるから血の味が。それを味わいたくないから、つい咳き込んだ。
「ねぇ、ホントに大丈夫なの?」
「バーロ、俺は不死身だって……」
不敵な笑みは忘れない。
ゴンドラに乗り込む際には蘭の手を引いて。すかさず隣合わせに座る。
すると、なんか急に落ち着いて、なんか急に眠くなって、蘭の肩を借りて目を閉じた。
「わりぃ、ちょっとだけ肩借りる」
「……なんなら膝でもいいわよ?」
「ん…?」
俺の意識は遠のいて。…不思議だ。いつのまに俺、こんなとこに横たわってるんだろう?
そうだ。あの日の続きを思い出そうとしてたんだ。観覧車で過ごした僅かな時間。大切な蘭との思い出。…思い出?
蘭にとってはあれは俺との思い出だったんだろうか。蘭にとってはコナンでしかないんじゃ………?
■ □ ■ □ ■
俺は、「新一」と呼ばれて「蘭」と呼び返した。ゆっくりと眼鏡をはずしてポケットに仕舞った。
ただそれだけで、すべてがわかるほどに、その空間は俺たち二人のものだった。そのまま通りすぎる時間をゆっくりと待っていた。地上までほんの僅か。五分あるかないか。蘭はコナンを抱きしめて、俺は蘭を抱きしめた。
時よ止まれと俺は願った。蘭の気持ちも同じだったと思う。…祈りが届いたのだろうか。観覧車は止まった。
「あ…」
先に気づいたのは蘭。止まった途端に風に吹かれて揺れるゴンドラ。アナウンスは「点検のため、もうしばらくお待ち下さい」と言う。
少し蘭が震える。
「怖い?」
「…うん、だって」
「今日はまたすげー揺れるよな」
吹き付ける風をもろに受けてぐらぐらと音を立てるゴンドラ。
「あの日よりも」と俺が付け加えたことで、俺のコナンのフリは終わっていた。そこまでなら「新一のフリをしたコナン」で済ませたはずなのに。
ヒューッ と大きな風が吹いて、ゴンドラが更に揺れた瞬間。心までも揺れて。互いに見つめあうと、互いに哀しい瞳だったから、互いに切なくなって。
蘭の頬にハラリと涙が伝ったのを見たら、もう止まらなかった。
止まらない俺と、そして、タイミングよく動き出したゴンドラ。揺れに身を任せて、──けど、あれは俺だけの揺れじゃなかったかもしれない。蘭も多分…。引き寄せ、引き寄せられて、くちびるを合わせていた。
そんな数秒の出来事。
記憶の奥に仕舞ったままだった、あのキスの続きは…?
地上に近づき、俺は決心する。
戻ろう、コナンに。もうここから「新一」じゃない。本当の気持ちはまだ言えない。コナンのままじゃ言えない。言っちゃいけない。ポケットに仕舞った眼鏡を出して、俺は「じゃあな」と笑った。
■ □ ■ □ ■
とても長い時間だったようで、それはほんの短い時間だったのかもしれない。気づくとゴンドラは、一番高い場所を通り過ぎるところだった。
「てっぺんだよ」
そんな蘭の呼ぶ声に目覚めた。
「え?」
自分の居場所に驚く。蘭の膝の上にいた俺。
記憶と現状が混在している。ここはどこだ? 俺は誰だ?
「俺は、…誰だ?」
俺の問いかけに蘭はゆっくりと微笑んだ。
俺は手を見た。手の大きさでようやくホッとした。
「バカね……」
蘭が笑う。そんな蘭の存在だけで十分だった。とても落ち着けた。安心出来た。
そばにいてくれ。ずっと俺のそばで笑っててくれ。俺のそばから離れないでくれ。俺を離さないでくれ。………蘭。
「なぁ、蘭」
「なに?」
「結婚しないか?」
「うん」
「俺、イギリス留学しようと思うんだけど、ついてくるか? …それとも」
「ついてくよ」
「俺、これからも探偵だぜ?」
「うん、それでもついてく」
「じゃ、ずっと一緒だな?」
「うん、ずっと一緒だよ」
「……よかった」
「わたしも」
「え?」
「やっとわたしのこと、ちゃんと見てくれたね、新一…」
夢の中にいるような言葉たち。
時よ止まれともう一度願えば、きっとその願いは届くだろう。だけど、俺たちの時間を止める必要なんてもうないよな?
俺は蘭の膝の上。そのまま蘭を仰いで、ゆっくりと目を閉じた。
蘭のくちづけは、あの日止まったままだった時を、取り戻してくれた。
目を開けたら、ホラ、俺は工藤新一だろ? コナンじゃない、もう、コナンじゃないんだ。
ゴンドラは地上を目指していた。そこからようやく一歩がはじまる。
その前にもう一度。もう一度……いいか?蘭。
引き寄せて、キス。熱く甘く抱きしめ合って。二人で時間すら忘れて。すでに降り口が近づき、次に乗ろうとするカップルが後ずさりする。
係員も「あ、あのお客さん………」と声をかけたものの躊躇してしまい、降り口は過ぎて行く。
周囲を気にしない二人に、好奇の視線が集まる。それでも二人の時間は止まらなかった。
観覧車にまた大輪の花火が上がった。
■ □ ■ □ ■
──一年後。
得意になってホームズを語る少年と、空手の強い少女が、仲良く手をつないで歩いている。ロンドンはベーカー街。
変わらぬ笑顔は、今、ここにある。
fin
キミと一緒に
─補足・蘭の想い─
新一を横浜に誘ったのは、ただデートに誘ったんじゃなかった。横浜へ行くと言うことに意味があった。それを新一に気づいて欲しかった。気づいて欲しかったのに。
電車のなかでも着いてからも、そして、横浜の街を歩いていても、新一は逃げてばかりいる。当の本人はそんなつもりはないのかもしれない。それよりも、そんな自分に気づいてさえいないのかもしれない。
あれから──、そう、中学生だったあの頃からわたしたち、何も変わらないまま。ずっと同級生で幼なじみ。…ねぇ、それだけなの? どうしてなんにも言ってくれないの?
新一はコナン君だったんでしょ? なら、わたしの気持ちも知ってるはずなのに。それで言わないのには何か理由があるんじゃないの?
わたしはずっとずっと待ってた。新一は帰ってきたのに。まだ待ってた。どうしていつまで? わたしはいつまで待てばいいの?
そんな折、偶然聞いてしまった。新一が留学を考えてるって話。しかも、見も知らぬ一年生の女の子たちが、多分新一のファンとか名乗ってる子たちなんだろうけど、すでに知っていて噂しているのを聞いた。
…どうして? わたしはなんにも知らなかったよ? 相談もしてくれないのね? なんにも言ってくれないなんて………。そんなの寂しすぎるよ。
ねぇ、新一。わたしって、新一にとってどういう存在なの?
聞きたくて、確かめたくて。
だけど、それを唐突に聞けるほど、わたしは自信がなかった。
中学の時。そして、新一がコナンくんだった時。ここ横浜へ来た。
思い出がいっぱい。街のあちらこちらに、あの頃の二人がわたしには見える。ホラ、そこで笑ってる。ホラ、そこで怒ってる。
新一には、もう見えない? あの頃の気持ちや言葉は、なんの意味も持たないのかな?
わたしはここへ来ただけで、もう胸がいっぱいだよ。気持ちが溢れて、苦しいくらい。それでも待ってるのに。新一の気持ちがあの頃のままなら、ここへ来れば本当のことがわかると思ってた。
ううん。逃げてるのは本当はわたしの方なの?
待ってるだけじゃ駄目だよね。…知ってる。わかってる。
…でも、気づいて欲しい。新一に気づいて欲しい…。
新一は動じない様子で「ただのデート」を続けようとしている。言わない自分が悪いってよくわかってるけど、とてもくやしくてとても悲しくて、わたしは「帰る」と言って走って逃げた。
新一は追ってくるけど、まだわかってないみたいね?
わたしの苛立ちは「そのことを言わなかった」ってことに対してじゃない。
…約束したじゃない。なんでも話してって。相談してって。
──それから。忘れたの? 昨年の夏のあの観覧車。コナン君がくれたあのくちづけは新一のものじゃないの? あれはコナン君だけの思い出なの? …わたしは。わたしは新一だから、……だからあの時あのくちづけを望んだのに。
その時。ガラの悪い三人組に囲まれ、新一はその喧嘩を買った。
だけど、わたしに手出しするなって…どうして? そんな自信はどこから来るの?
だけど、新一は殴られ蹴られて、立ってるのがやっとになって。まるで、自分から自分を痛めつけたかったのかと思うくらいに、それは無謀なことだった。警官が駈け付けて来なければどうなってたかわからない。
それでも平然と笑うのね?「負けるつもりなんてなかった」って。
怪我がひどいから帰るつもりだと思っていたのに、新一は観覧車に乗ろうって言った。
…観覧車。意味してることは何? 覚えてる? わかってる? あの日の続きはあそこからしかはじめられないってことを。
新一に肩を貸して、土や血の匂いを感じ。ここに新一がいることを感じる。胸が高鳴る。隣にいるだけで、こんなに。
観覧車に乗ってすぐに、新一は倒れるように目を閉じた。肩に頭を乗せているのを、そっと膝の上に移動させる。
目を閉じて、何を思ってるの?
思い出してる? コナン君だった頃のはじめてのくちづけを。
ねぇ、あそこで止まった時間、取り戻そうよ。
だから、お願い。わたしを見て。わたしを見て、新一。
そっと新一の髪を撫でた。
ゴンドラが一番高い位置を過ぎ、「てっぺんだよ」と声をかけた。
新一は、目を覚まして「俺は、誰だ?」と突拍子もないことを言うから、つい笑った。
そっか、思い出したのね? 今、あの日のコナン君に戻ってたのね?
「バカね」と笑うと、新一は懐かしそうにわたしを仰いで目を細めた。
やっと見てくれた。わたしのこと。真直ぐに。
ちゃんと言ってくれた。夢のような言葉たち。
わたしも答えたかったんだからね。ずっとずっと。答えを用意してずっと待ってたんだからね。バカ………。
わたしはあの日の続きをはじめる。わたしからくちづけをそっと新一に贈り、新一は受け止める。
二人の時計が動き出した。鼓動が響く。高く高く。
観覧車は回る。二人はどこまでもいつまでもずっと一緒。わたしたちは簡単にそれを信じることが出来た。
約束は誓いにかわり、夢が現実のものとなり。
二人は今日もどこかの街角で微笑合う。手をつなぎ未来をつなぐ。
ずっとムカシから、そして遠い未来まで、キミと一緒に──。
fin
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