その手のあたたかさも知っている・番外編


 式前日。一緒に夕食をと英理はネコのゴロを連れ、蘭はそこで過ごす最後の晩餐のために腕をふるっていた。
 そんな家族水いらずの場所に、当然のように蘭は新一を呼ぶ。小五郎にはそれが面白くない。
「何時に来るんだ?シンイチノヤロウはっ!」
 不機嫌そうに小五郎が声を荒げたのと同時に、蘭の携帯がメロディを奏ではじめた。その電話に出た蘭の表情がたちまち曇った。
「…そう、気をつけてね。あ、でも、こっち来るんだよね?………うん、待ってるからね」
小五郎は「来なくてもいいんだよっ」と心で呟いた。
 …ったく、新一のヤロー、また事件か? 明日じゃなくてよかったものの、あいつのことだ、それが結婚式当日であろうとのこのこ出かけていきかねない。…大事な娘を、よりによってこんな奴にっ…!!
 そんな小五郎の握り拳を、英理とゴロはそっと微笑んで隠れ見ていた。

 新一からの連絡はまだ、ない。時間は9時を回った。夕食は、蘭が「もうちょっと」とうるさいのでついさっきまで待っていたがもうタイムリミットだ。先に食べてしまっていた。
「…ったく連絡の一つもよこさないとはなんてぇ奴だ」
 小五郎はこめかみをピクピク引きつらせた。
 蘭はと言えば、そんな新一を庇うでもなく、ただ苦笑するのみだった。

 一通り片付けも済んで、蘭は部屋に戻った。
 窓の外を眺めていると、こういうときには必ずやってくるあの鳩がやはり今晩も羽根をバタつかせて現われた。
「こんばんは」
 ニコリと笑うと、鳩はそれに答えるようにクーと鳴く。
「また新一、事件だって。先が思いやられるよねー」
 パタパタパタ。「ホントだね」と頷いてるみたいだ。
「鳩さん、わたしね、明日結婚するんだよ」
 そう言うと、鳩は小首をかしげた。意味がわからないのだろう。
 独り言を呟くみたいに、蘭は鳩に話しかける。笑ったり照れたり切なそうな眼差しを浴びせかけたり。鳩は真面目にそれを聞いている。
 しばらくして、不意に鳩が羽根をバタつかせた。まるで「新一が帰ってきたよー」と言ってるみたいに思えて、蘭は窓の外を見た。
「…新一」
 そこに新一がいた。
 いち早く鳩が新一の元に飛んでいった。その間に蘭は階段を駆け下りる。
 階下でようやく会えたと思ったら、
「よぉ!」
相変わらずの気障な笑みを浮かべてはいたが。
「どうしたの!?その傷!」
 頬に鋭いナイフで切られたような傷が見える。手当てもして、傷も塞がっていたようなのに、また傷が開いたらしい。血が流れ落ちていく。
 驚いて蘭は新一の頬に手を添えた。
「これな、…ああ、犯人がさぁ、ちょっと興奮しちまって…」
 笑うけど、それって笑い事じゃない!と蘭は新一をキッと睨んだ。
「ともかく傷の手当てするから。入って」
 探偵事務所に招き入れて、蘭が救急箱を探っているとき、新一の「ギャッ」と言う声が聞こえた。
「何?どうしたの?」
 新一の顔を見ると、心なしか先ほどよりも傷が大きくなっている…みたい?…どうして?
 澄ました顔でゴロが行過ぎるのを横目で見ながら、
「いや…まぁ、なんでもない」
 強がりを言って新一は笑った。
「消毒液が切れてるのよね…上にならあるから、持って来るね、ちょっと待ってて」
 蘭が言い残し、三階に上がったそのすぐあとに、ほろ酔い加減の小五郎が外から帰ってきた。どうやらタバコでも買いにいっていたらしい。
「あ、おっちゃん、こんばんは」
 頭を掻きながら挨拶をすると、小五郎はずかずかと新一に歩み寄った。
「てめーなぁ!」
 それ以上の言葉はなかった。ただ、拳が頬を打った。
 新一の頬の傷は更にひどくなった。
「オマエの傷は蘭の傷だと思えよ。オマエの痛みはそのまんま蘭の痛みなんだからな。言ってる意味わかるか?」
「は…い」
 踵を返して小五郎は事務所を出て行った。階段に登る途中で蘭とすれ違ったらしく会話が聞こえる。
「お父さん、おかえりなさいっ。新一も今戻ったのよ?」
 その声の弾みようが更に小五郎を苛つかせたのか、小五郎は渾身の力を込めて玄関ドアを閉めた。

 なんだかなぁ…。
 みんなに怒られちまった…。
 鳩にネコにおっちゃん…。
 頬が痛いな。

 けど、やっぱ、これもなんだかあったかい気がするのはどうしてなんだろうな。
 苦笑しつつ自分の頬に触れる。
 戻ってきた蘭が、そんな新一の顔を見て、更に驚いた。
「ど、ど、どうしたのぉ!? さっきよりひどくなってない?その傷……」
 新一は気障に笑みを浮かべながら思う。
 コイツだけは敵に回せないな、と。
 コイツだけは泣かせちゃならねぇな、と。

 この頬の熱さは忘れないでいよう。
 グッと痛みを堪えながら、明日を思う新一だった。

***

 そして翌日。
 タキシードを着込んだ新一の元に、どこからともなく大阪弁の気配が近寄ってきた。その気配は次第に近づき、そしてそのドアを開けた。
「よぉ、工藤!来たったで〜」
 それは大阪からの来訪者服部平次だった。
「ああ、遠いトコ、サンキュ」
 そして当然のごとく顔の傷について尋ねた。今朝は会う人ごとに聞かれほとほとそれに答えることに疲れていた。
「昨日な…」
「ああ、事件で犯人がなんや逃走して血迷ったって聞いたけどな」
「なんだ、知ってんなら聞くなよ。その時の傷だ」
「ふ───ん、その時のねぇ」
 平次はまじまじと新一の傷を見る。それこそ舐めるように。探偵の目で。
「それだけやないやろ?ほんまのこと言うてみ」
 新一は、ギクリとしてあらぬ方向を見た。
 結局、コイツには隠し立てできそうもないと諦め、昨晩の顛末を説明した。
「なるほどなぁ。鳩にネコにおっちゃんかぁ…」
「ああ」
「そら、オレも参加せなあかんかな…」
 クッと笑って平次が新一を見た。
「勘弁してくれよ」
 ため息混じりにつぶやいたその隙に。平次の手が新一の頬に触れた。そして撫で上げた。
「お、おいっ」
 今、背中がゾワっとしたぞ。コイツ何しやがるっ!
「やっぱりオレぐらい慰めたらんとなー」
 更に隙をついて、平次は新一の頬に…………………。(ご想像におまかせします(笑):作者)

「これは夢だ、夢に違いない。夢だ───っ!!」
 新一は同じことを何度も何度もつぶやきながら、そうしているうちに式の時間となった。
 放心しながらも、真っ白なドレスに包まれた蘭を見るとすべてが吹き飛んだ。人間、都合よく出来ているものだ。

おしまい