そばにいるから
蘭にとって、それは不意打ちだった。
探偵事務所で片づけをしている最中、携帯が蘭を呼んだ。
「よぉ、蘭っ」
懐かしい声。新一だ。やっと帰ってきたと、ずっと待ちわびていた言葉が耳に入った。
予感ならあった。数日前、アメリカの両親の元に帰ると言ったコナンの瞳に「もうすぐ会えるから」と言う新一の伝言を聞いた気がしたから。
蘭は返事も出来ずにただ流れる涙を拭っていた。
「それで今どこなの?」
「窓の外を見てみろよっ」
「えっ!!…まさか」
窓から見下ろしたその先に「よっ」と手を上げ照れたように笑う新一の姿を見つけた。次第に鼓動が早くなる。たまらず駆け出した。
「し…新一っ!!」
本当に新一だ。確かめて何度も名前を呼んだ。ほかには言葉にならなくて、溢れる涙を止められなかった。
「ただいま…」
新一はニッと笑ってそう言ったあと、
「もうどこにも行きゃしねーよ。いつでもそばにいるから、なんてな」
本気なのか冗談なのかとても曖昧にそんなふうに言いながら蘭の頭を撫でた。まるで子供をあやすような仕草で、まるで幼い頃の新一と蘭に戻ったみたいに──。
一
そして二ヵ月後──。
朝。パジャマ姿の蘭は、起き抜けに朝刊を取りだし、その中ほどのスポーツ欄に目を通した。
『高校女子空手道選手権・都大会 毛利蘭(帝丹高三年)二連覇達成!』
見出しの文字。優勝を決めた足技を放つ蘭の姿が小さいながらも写真入りで掲載されていた。その視線は鋭い。…なぜなら、最後の一撃の心の叫びは「新一のバカっ!!」だったのだから。…それを思い起こしてひとつため息。
「絶対見に来てね」──前日にも新一には念押しした。だけどアイツの姿はなくて。
うれしいはずの優勝がなんだか逆にさびしい。
どうして電話の一本もくれないの?…きっと、また事件に翻弄されていたに違いないとはわかっていても、それでもやっぱりさびしくてならない。
アイツ…工藤新一は高校生探偵として巷で大活躍している。どうやら謎めいた事件を前にすると蘭の存在すらきれいさっぱり忘れ去ることができるらしい。
事件さえなければ、誰よりもやさしく頼りになって、何よりもいつもそばにいてくれる新一だった。そう、事件さえなければ。…事件なんてなければいい。探偵なんてやめてしまえばいいのに…。探偵じゃない新一が新一であるはずがないのに、それでもそんなふうに思ってしまう自分が浅ましく思える。
蘭は無性にさびしかった。そばにいないからさびしいんじゃない。こんな自分の気持ちに気づかないアイツがあまりにも遠くに感じて、だからさびしい。
憂鬱な月曜の朝だ。それでも制服に着替え学校へ行く準備を整える。さすがに食欲はなく何も口にすることができなかった。
小五郎は徹夜麻雀のせいでまだ夢の中。だけど静かすぎるのはそのせいだけではきっとない。こんな日にふと思い出す、やさしかった眼鏡の少年。もう二度と会えない少年に思いを馳せながら、そっと窓から外を見た。
*****
「必ず応援しにいくからよっ」…そう言ったのは嘘じゃなかった。現に新一はその朝、蘭が試合を行う体育館の目の前まで来ていたのだから。新一を呼び止めたのはやはり目暮警部からの電話だった。事件は待ってはくれない。
それでも、早く終わらせてまたすぐに蘭の元へ戻るつもりでいた。まさか夜中に至るなどとは考えていなかったのだ。…ここのところの単純明快な事件続きだったから甘く見てしまっていたのがいけなかった。
ようやく自宅へたどりついたのが夜中の一時。せめて電話をと思いつつも次第に薄れていく意識をどうすることも出来なかった。
そして朝を迎えていた。眩しい朝日を見て、新一は焦った。
「やばっ」
慌てて学校へ行く準備をする。トーストを口に頬張ったまま、足は毛利探偵事務所へと向かっていた。
そこはほんの数ヶ月前まで生活していた場所だった。毛利探偵事務所。少し前までそこで蘭を見ていた。
腕時計を見る。ちょうど今の時間ならいっしょに朝ご飯を食べていた頃。コナンだった日々が懐かしい。だけど、あの頃の胸の苦しさならまだこの胸に残っていた。多分一生忘れることなんて出来ないだろう。
今はいないコナンを思いつつ、蘭のいるであろう部屋の窓を見上げた。
*****
二人の視線はごく自然にぶつかった。互いにさびしそうな顔をしている。同時にそれに気づいて二人して苦笑した。
蘭は鞄を片手に事務所に階段を急いで駆け下りた。
「よっ」
軽く手を上げる新一に目を丸くした。
「新一ぃ?どうして?」
新一は照れたように頭を掻いた。
「な、なんだよっ、学校いっしょに行くくらい珍しくもねーだろ!」
つっけんどうに言い放ち先を歩きはじめた。それが照れ隠しだと、今の蘭には考えが及ばず。
「ちょっとぉ!新一ったら…」
後ろを歩きながら「ほかに何か言うことあるでしょ!」なんて台詞を言おうかやめようかと迷っていた。
と、その時、新一がピタリと立ち止まった。
「昨日は悪かったな…、行けなくて」
振り返りもせずにボソリ。だけど確かにその声は蘭に届いた。
たった一言なのに昨晩からのモヤモヤが少しずつ晴れていく。単純な自分に笑ってしまう。
「ねぇ、新一。約束破ったらただじゃ置かないって言ったわよね…?」
ニヤリと笑うと、新一が「へ?」と振り返った。──その新一の鼻すれすれに、シュッ!!…蘭の鋭い足技が新一を脅威した。
新一は冷や汗を流しながら、「…そ、それって昨日の決め技だよな?」と家を出る際持参した新聞をひょいと蘭の前に広げた。
「優勝、おめでとう…」
「じゃあさ、優勝のお祝いにどっか連れてってよ。次の土曜は?」
「土曜か…。了解。空けとく…」
「絶対だからねっ」──とそのあとに「事件の依頼なら断ってよね」とは言えないのが蘭である。
どこへ行こうか二人で思案中、新一の表情に緊張が走った。そして素早く後ろを振り返る。何者かがささっと物陰に隠れる気配があった。
「なに?新一…」
「つけられてるみたいだ。…おい、走るぞっ」
耳元で囁かれ突然手を取られた。蘭は困惑しながらも、二人で風を切る心地よさに微笑をこぼしていた。
それにしても、つけられてる?新一の事件がらみ?探偵稼業なんてどこの誰に恨まれているかなんてわからない。いくつかの悪い予感が頭をよぎる。
「ねぇ、新一…。帰りも一緒に帰ろうよ…」
不安を言葉にする。
…怪しげな人影が二人の姿を見送っていた。
二
その日の昼。
学校では携帯電話は通常電源をオフにしなければならない決まりがあった。けれど新一は、どうも朝の尾行が気になって、最近かかわった事件を阿笠博士に頼んで当たっていた。博士から連絡を待っているとき、クラスメートが声をかけてきた。
「工藤、女が待ってるぜ。いいねぇ、モテる奴はっ」
そう茶化しながら教室の入り口を目で指した。
オレはいつものように蘭が来たのだと信じて疑わなかった。
*****
一方、蘭は尾行のことなどもうすっかり記憶の彼方だった。
午前の授業中も今朝の新一を思い出しては顔をほころばせている始末。
気にかけてもらえることが嬉しくてならない。相変わらず幼なじみの関係から進展の見られない二人ではあったが、やっぱり自分は特別なのかもと期待してしまう。
そして今度の土曜日、どこへ行こう?
季節はずれの海なんていいかも。…波打ち際を走る二人、きっと夕焼けが綺麗で二人は夕日に照らされ、それからそこで……。うわ、わたし、なんてことをと顔を真っ赤にする。
あ、でも。のんびり新一の家で過ごすのもいいかも。洒落たフランス料理でも勉強して作っちゃおうか。きっと新一「これ全部蘭が作ったのか?」ってびっくりして「これから毎日おめーの作る料理が食べたい」なんて展開もありかもね。はっ!!…これってプロポーズ?…ああ、わたし考えすぎよと自分の頬を両手で叩く。
でも新一の家で二人きりになったりしたら…これって危険?ヤバイ?あ、でもシャイなアイツのことだから、そんなぁ。…だけどもしもよ、もしも新一が……………。きゃぁ〜っ。何考えてるの?わたしったら!!と赤面。
蘭はしあわせ妄想を続けていた。
お昼になって新一のクラスに向かった。
いつもは「ひとり暮らしは栄養が偏るから!!」と手作り弁当を届けているが、今日は朝からの憂鬱のせいで作っていない。それでも一緒に学食へ行こうと、弁当のないおわびも兼ねて誘おうと思っていた。
何気なく遠目で新一の教室を見ると、一年生と思しき女子生徒が弁当箱を持って顔を赤らめているシーンを目の当たりにした。なるほど、好きな男の子にお弁当の差し入れに来たというシチュエーションのようだ。何とも初々しい光景に微笑んだ。暢気に微笑んでいた…。
「あっ」
よくよく見ると、その女子生徒の目の前にいるのは…誰でもない新一だったのだ。満更でもなさそうな顔でにこやかに話している。(ように蘭には見えた。)なぜか見てはいけないものを見てしまった気がして、あわてて身をひるがえした。
そのお弁当を受け取るかどうか気にはなる。だけど、もし…。ううん。…そんなことない。そんなこと絶対ないよね?受け取ってるわけないよね?新一なら断る、断っているに違いない、そう思いなおして振り返ってみた。
*****
てっきり蘭かと思った。いつもなら頼みもしないのに弁当を作って持ってきてくれてる。
が、行ってみると見たこともない下級生の女の子がいた。「ファンです」と名乗るその女の子は言いたいことだけ言って持参してきていた弁当箱を手渡して走って行ってしまった。
「あ、おい…!」
と、その時蘭の姿が目に入った。
この重い空間はなんだ?その蘭の視線の先にあるのはオレの手元にあるこの弁当。次第に悲しみの表情に変わる…。
こ、これは違う!!誤解だって!!…心で叫んだが蘭は身をひるがえして走り去ってしまった。
「蘭っ!!待てって!!おいっ!!」
呼んでもその声は蘭に届かない。更に無情にもその時、携帯電話が新一を呼んだ。
蘭はどこに行ってしまったのか、もう視界にはいなかった。
電話は目暮警部からの事件の依頼だった。急を要すると、離島へ渡るからと、船の時間までそんなにないからと電話が切れた。
*****
誰のせいでもない。全てはタイミング。
校庭の人目につかないベンチに蘭はたたずんでいた。
脳裏には新一の手にあるパステルカラーのかわいいナフキンに包まれた弁当箱が映っている。たったこれだけ。たったこれだけなのに、この悲しい気持ちはなに?逃げるように走り出して来たのに追っても来てくれない新一にさびしさを感じる。涙が溢れて止まらなかった。
*****
新一は早退するべく学校に事情を説明した。だけど、勿論帰る約束をしていた蘭に伝言くらいはしていきたい。先ほどのことも気になっている。すぐさま追いかけていかなかったことが後ろめたい。
たまたま廊下にいた園子を捕まえ事情を話した。
「事件が入って先帰るって伝えておいてくれないか?あとで電話するからって…」
早口でまくし立てたあと、思い出して手にある弁当箱を園子に託した。
「悪い!これ一年のササキって子に返しといてくれっ」
園子は快く了解してくれた。そしてもちろん正確にそれを伝えるつもりだった。…つもり、だった。
三
午後から蘭のクラスは体育の授業だった。
いつもの園子なら、まっ先に蘭のそばに駆け寄り、先ほどの新一からの伝言を伝えているはずだった。が、この日は当番で、体育の準備に忙しく走り回っていた。蘭に声をかけることもつい二の次にしてしまっていた。
そうこうしているうちに授業開始。
準備体操のあと軽くランニング。強い日差しを浴びながら生徒たちはグラウンドを走りはじめた。…とそのとき、蘭がフラフラとその場に崩れ落ちた。
「蘭!!大丈夫!?」
もちろん、親友である園子が真っ先に駆けつけていた。
「ごめん…なんか急に気分悪くなっちゃって…」
かぼそい声で蘭が答えた。そして、その目を閉じた。
保健室。午後の授業がすべて終わって、ようやく蘭は目を覚ました。
すぐさま、そばにいる園子に気づく。
「園子?」
「蘭っ!よかったぁ!!気がついた?」
そうだ、気分悪くて倒れちゃったんだと記憶を遡る。とするとここは保健室。確かめるように周囲を眺めた。
園子の声に保健の先生が顔を出した。最近赴任した若い女性の先生だ。
「やっとお目覚めね」
にこりと微笑み、
「ちゃんと食べてちゃんと寝る!これ基本的なことよ。色々あるんだろうけど、倒れちゃしょうがないわね」
とウインクした。その眼差しは「すべてお見通し」とでも言いたげだ。
そういえば朝からなにも食べていなかった。それに昨晩は新一からの電話を待ってほとんど寝ていない。バカだな、わたし。
「鈴木さん、毛利さんを家まで送ってあげてね。まだ顔色悪いし…。気をつけて帰るのよ」
「はーい。じゃ、車呼ぶわっ。家に電話するからね!蘭、ちょっと待ってて。そうだ、カバンも取ってこなくちゃ!!」
園子は例の伝言のことをコロッと忘れたまま保健室を飛び出して行った。
そっか、授業終わったんだ…。腕時計を見てため息をついた。
そういえばアイツは?いっしょに帰ろうって約束したのに…どうして?
残された蘭は茫然自失なまま、一人身支度を整え保健室を出ていった。保健の先生が引き止めている声も耳に入らず──。
蘭の頭の中は、今、新一への不信感でいっぱいになっている。今朝、家の前で待ち伏せていた新一のことなど今は思い出せない。それよりも電話をくれなかった昨晩のことをあらためて蒸し返してみたり、以前に何度か事件のせいで待ちぼうけを食わされた思い出ばかりが頭を巡る。
更に。パステルカラーのナフキンに包まれたお弁当。新一、食べたのかな?いっしょに帰る約束、忘れちゃったのかな?わたしが気分を悪くして保健室にいたこと、知らないのかな?様子……見に来てくれないんだ。わたしのことなんてどうでもいいんだね?
よくない考えばかりが頭をぐるぐるする。
お弁当を渡していた一年生の女の子と仲良くいっしょに帰っていく新一のうしろ姿が頭をよぎった。
その頃、急いで戻った園子は蘭がいないことに驚いていた。蘭のカバンなら自分が持ってきている。蘭はどこへ?それより新一くんの伝言、伝えそこなったよぅ!!今度はそれに気づいて園子の顔は青くなった。慌てて携帯に電話してみたものの電源はオフ。
蘭───っ!!
学校の正門前で、蘭は見知らぬ男に声をかけられた。見たところ三十歳代半ばといったところか。
「毛利蘭さんですね。わたしはこういう者ですが…」
セールスマン風の口調で名刺を差し出す。態度はいたって低姿勢だ。名刺には大手芸能プロダクションの社名が記載されていた。その男はマネージャー兼スカウト担当の青山という名前らしい。
蘭はと言えば、あまりにも突然、しかも頭は新一のことでいっぱいいっぱいだから、相手の早口にまずついていけなかった。
「…というようなわけで、是非お願いしたいと…」
蘭には何のことやらさっぱりだ。
「あのぉ…わたしに何か用でしょうか?」
蘭のとんちんかんな返答にがっくりと肩を落とした青山は、立ち話ではなんですからと駅前の喫茶店に蘭を連れ出した。
いつもの蘭ならそんなわけのわからない男についていったりもしないのだが、今日は投げやりだった。なんとなく真っ直ぐ家に帰ることが疎ましかったからかもしれない。
喫茶店で蘭は再び青山の話を聞いた。青山はどうやら昨日の試合の蘭を目にしたらしい。話しはそこからはじまった。朝からその姿を見ていたということ。その素質をわたしは見抜いたんだと。是非一緒に頑張ってみないか?夢を追いかけてみないか?是非、是非、是非。ずっと話しつづけていた。
「聞いてます?」
相槌を打つだけの蘭に大きくため息をついて、青山は最後には要点だけをわかりやすく説明した。「毛利さんにオーディションを受けて欲しいんです!!」と。さすがの蘭にもその意味だけはわかった。芸能プロダクションの人にスカウトされてるんだ!!
「わ、わたし?ですか?」
自分を指差し引きつりながら笑った。
「先ほどからそう言ってるじゃないですか!」
青山は半ば呆れながらもスカウトを続けた。
「今週の土曜日です。急なことで驚かれるのは無理ないですけど昨日の試合を見て、僕はあなたしかいないと直感したんです!」
「はぁ」
蘭には全く興味のない話だった。芸能界?そんなもの自分とはかけ離れた世界だ。ズブの素人である自分がいきなりオーディションなんて受けてもまず通るわけなんてない。
「あのぉ…ところで何のオーディションなんですか?」
「映画ですよ。ラブコメありアクションあり、主演はね、………」
話は映画の概要に入った。ますます自分には遠い世界だとわかる話が続いた。
去年の文化祭で確かに主役をやったりもしたけれど──しかもあの劇・シャッフル・ロマンスは途中で中止になったんだよね。せっかく新一との共演だったのに…って仮面を被ってる時は気づいてなかったけどさ。ハート姫にスペード王子だったのになぁ…──話になんてならない。思わず笑ってしまった。それを察した青山は話を続けた。
「土曜に何か予定でも?もし何もないようでしたら受けるだけでいいんです。受けてみるだけ。なにごとも経験、経験!」
土曜日…。新一と約束したっけ。そう言ってもアイツ、事件が入ったらわたしなんて二の次…悔しいなぁ…。待っているのはいつもわたし。今日だってそう。…いつだって待ってるだけのわたしだと思わないでよね、新一。わたしだって…。
蘭のなかで何かが動いた。
「シャレで受けてみてもいいかな…」
四
夜、蘭は園子からの電話でようやく新一の伝言を聞いた。
「あとで電話するって言ってたよ。…ったく相変わらず仲がおよろしいことで」
蘭の胸のうちを知らない園子は悠長に二人のことを茶化した。蘭はただ苦笑する。
「でもね、園子。わたし、もう待ってばかりってやめようと思うの。待ってるだけはもう嫌なの」
いつもより強い口調の蘭に、園子は呆気にとられた。
「どうかした?」
聞かれて放課後の話しを説明した。
「オーディション?」
園子の反応は思った通りだ。
「それってスゴイじゃん!!しかもそこ、大手のプロダクションでしょ?スゴイ、スゴーイ!今度の土曜ね。よっし、この園子様がわれらが蘭ちゃんの付き人買って出てあげるわよっ!!まかせなさーい!!」とまぁ、明るい。
「ありがと…」
「でも、アレよ。新一君にはちゃんと言わなきゃダメだよ。アヤツは嫉妬深いからねぇ。反対されるかもよ?」
「もう、園子ったら…」
なんだかんだ言っても園子の言葉の中のやさしさが身にしみる。
園子にしても長らく京極真と長距離恋愛中なのだ。本人は「全然、平気」とあっけらかんと笑っているが蘭にはわかっていた。園子の一途な部分。いつ、どこにいても携帯電話ばかり気にしている。その呼び出し音を心待ちにしていること。
そんな園子に逆にエールを送ってもらっている自分。しかもこんなに心が捻じ曲がっている自分。
ありがとうね、園子。──心で呟いた。
待たないと決めても「待っている」夜。園子からの伝言通り「あとで電話する」という言葉を信じてみたい。
それにオーディションのこともやっぱり話しておきたかった。
新一がもし大反対するようなら…(でもそれもちょっとうれしい。)…そう考えてかぶりを振った。それでも、やっぱりオーディションを受けよう。
いつでも頭の中が「新一、新一、新一…」なんて、そんなふうになるのはイヤ。そんなのきっと新一にとっても重荷なだけ。自分に何か可能性があるなら試してみたい。夢中になれるものがあるなら没頭してみたい。
きっと、これは焦りなんだろう。新一は探偵。すでにあんなに活躍していて、それは小さい頃からの夢だったわけで。どんどん前を歩いていく新一に追いつきたい。そして隣を歩きたいのになんだか遠くて。
だから──。うん、出来るかどうかなんてわからないけどやってみよう!!
*****
新一が島に着いた時には、すでにどっぷりと日が暮れていた。夕食もそこそこに現場に駆けつける。
蘭には早めに連絡しなくちゃな…。結局、一緒に帰るという約束さえも守れなかった。──頭の片隅でそんなことを考えつつも、現場へ着くと事件に集中した。事件のこととなると見境がなくなる。蘭のことも後回しにしてしまう。
そんな時、携帯電話が新一を呼んだ。
*****
夜の十時を過ぎた頃、まだ鳴らない電話を前にして蘭は開き直った。気になるなら自分から電話すればいいんだよね。待ってるより、ずっといい。
新一の携帯の番号を押した。七回目のコールのあとに新一の声が耳に入った。
「はい」
声を潜めているのがわかる。
「あ、わたしだけど…」
いけないところに電話してしまったと気づいた。少し後悔しつつ自分から電話を切ろうとした。が、それを遮るように早口で新一が言った。
「蘭?悪いけど今マズイんだ。あとでかけなおすから」
こちらの返事も聞かないまま。
そんな台詞は聞きたくなかった。せめてこちらから「今まずいのね、ごめんね」そう言って電話を切りたかった。事件のことで頭がいっぱいなのはわかる。間の悪い電話だったのかもしれない。だけど今の蘭にはただ新一が冷たい奴にしか思えない。理解したい。理解したい。…なのに。
もう新一のことだけで頭をいっぱいにするのはやめよう。新一の行動ひとつひとつに一喜一憂し、惑わされるなんて辛いだけ。もう、こんなのやめよう。──そう考えながら蘭は携帯電話の電源をオフにした。
明日の朝はちゃんと朝食を摂ろう。お弁当も作ろう。そして今日はしっかり寝るんだ。とても基本的なことを心に誓っていた。
だけどやっぱり眠れない夜…………。
*****
蘭の電話に戸惑ってしまう。集中力が鈍る。だから、ことさら冷たく電話を切ってしまった。ごめん……事件の時だけは、蘭の存在を心の中から消してしまわなければ…。(いや、実際消えるわけはないんだけど…)
その後、もうひとつの現場に向かい検証をした。そこは島の裏側になり携帯も圏外で使えず、公衆電話を見つけては蘭の携帯にコールしてみるが電源をオフにしているようで遂に話せないまま夜が明けた。
怒ってるんだろうな…。当たり前だよな。じたばたしてもここは離島。すぐに会いに行けるわけもなく。今度の土曜日の約束。せめてこれだけは守りたいと思う。
そしてまた事件に向かう新一だった。
五
翌日、新一は学校に来ていなかった。
蘭は気になりながらも、昨日の誓い通りに出来るだけ何事もなかったかのように一日を過ごそうと思った。
「昨日、新一君から電話はあった?」
開口一番、園子が聞く。蘭は首を横に振る。
「ええっ!?なかったのぉ?嘘!!……あ、あのさ。昨日職員室でたまたま聞いたんだけど、なんとかって離島へ渡ってて事件解いてるらしいよ…」
「離島?ふうん…そうなんだ」
「ふうんって…何そんなに暢気にしてるの?…ったく、電話くらいしたらどうなのよっ。新一君ったら!!」
「違うの」
「へ?違う?って何が?」
「わたしが携帯の電源切っちゃってたの…」
「え?なんで?電話するって新一君言ってたのに…。どうしちゃったのよぅ!!」
園子が半分涙目になっている。それを見てはっとした。
「新一君を待つのをやめるっていうの、それってそういう意味だったの?」
「園子…」
「そりゃ、事件があるとすぐいなくなっちゃって蘭のことほったらかしにして…。だけど学校に来れば会えるじゃない?あんなに仲良くしてたじゃない?」
園子は自分のことのように蘭を心配している。そして、きっと自分と京極真のことをダブらせているに違いない。
「ごめん、園子」
ほかに言葉が見つからなくてただ謝った。
「ぜいたくだよ、蘭は。いつもそばにいるじゃない?新一君、蘭のことすごく大事にしてるじゃない!!…わたしいつも羨ましかったんだから!!もっと素直になりなさいよ。言いたいこと言っちゃえばいいのよ。なんでいつもいつも我慢ばかりしてるの?行かないでって、泣いてでも止めたら…止めたらいいのよっ」
園子がめずらしく激しく怒った。その怒りは蘭へのもの?いや、きっと半分は自分自身に向けたもの。今まで胸のうちに秘めていたことを蘭を通して自分に叫んでいるのだ。
「園子、わかってる。わかってるよ…」
うつむいて黙り込んでしまう園子だった。そして、顔を上げたとき、
「うん、わたしもわかってる。わたしも言えないもん」
そう言って少し笑った。そんな園子を見て蘭も同じように笑った。涙を浮かべながら。
金曜日の夜。探偵事務所に電話があった。新一だった。夜の十一時を過ぎての電話を取ったのは運悪く小五郎で。
「なんだ?こんな時間に。蘭になんか用か?…ッたく」
不機嫌そうに応対している。そのやりとりはすぐ蘭の耳に入り電話を切られるのでは、とやきもきさせた。おそらく色々と事情を説明しているらしい新一。
しばらくして「ほらよっ」と受話器を渡された。すかさず受け取る。
「よぅ、蘭。やっと事件が片付いたんで明日の早朝の船でこっち出るから昼には戻るよ」
「新一…」
また「ほかになにか言うことはないの?」なんて台詞を言おうかどうしようか迷っていた。それよりも明日のオーディションの話しをしなくちゃ。
「この前約束してただろ?土曜日って…」
覚えててくれたのが嬉しかった。だけど明日は…。
「蘭?どうした?あ、そうか。この前は悪かったな。オレ、謝ってねーよな」
「ねぇ、それ何のこと謝ってるの?」
素朴な疑問だった。
新一が一番気になっていたこと、それはあのとき──手に持った弁当箱を見て身をひるがえした蘭を追いかけなかったことだった。
「いや、先に黙って帰っただろ、あの日…」
一番伝えたいことをなぜ言えないのか。新一は自分でもよくわからない。
その時、公衆電話の時間切れを知らせるピーという音が耳に入った。
「あ、ここ圏外でさ、携帯じゃないんだ。話す時間もうないな…」
コインを探してポケットや財布を探っていたら受話器が手から離れた。もう一度受話器を持ちなおすと蘭との電話は不通になっていた。
「新一、ごめん。明日わたし予定あってダメなの。実は新一にも言っておきたかったんだけど映画のオーディションをね…」
途絶えてしまった電話。受話器を片手に蘭は途方に暮れた。
話せなかった…。それだけなのにこんなにも不安が募る。
会いたい。明日、新一に会いたい。──自分の気持ち、自分の行動、この矛盾した現状を蘭はどうすることも出来ないでいた。
六
昨晩、どうやら小五郎に新一とのやり取りを聞かれていたらしい。
朝一番、「オーディションってなんだ?」と小五郎が怪訝そうに蘭に詰め寄った。
「あれ?言ったじゃなーい。(確かに言った。ぐでんぐでんに酔っ払った小五郎に…)そしたらお父さん、なんだか陽気に喜んでたよぉ、忘れちゃったの?」
「なんだそりゃ?…おい、オレのことかついでねーか?」
「何言ってるのよぉ!!…ま、わたしなんてそんなオーディション受かるわけないから安心してよ。ちょっと社会勉強に行くだけよっ」
それを聞いて小五郎の方も「確かに芸能界なんて早々入れるものでもないわな」と納得したようだ。それに園子がずっと付き添うと言っている。
「じゃ、そろそろ行ってくるわね」
言いながらふと昨夜の新一との電話を思い出し不安な面持ちになった。小五郎はそれを見過ごさなかった。
「気ぃ進まないのか?イヤなら止めとけよっ」
「そんなんじゃないわよっ!……行って来ます!」
気になるのは新一のこと。事前にオーディションのこと伝えられなかったこと。ひょっとしてコレがなかったら新一と午後からいっしょに過ごせていたってこと。またすれ違い。そしてその原因を作ったのは自分の方。
オーディション終わったらすぐに電話しよう。ただ新一に会いたいと思っていた。この気持ちに今素直にならなくちゃ。
オーディション会場は、とあるテレビ局の小さな会議室だった。
豪華キャスト揃い踏みという触れ込みの映画だったから、もっと大々的なオーディションを想像していた蘭と園子は少し拍子抜けしていた。しかも来ている応募者も少なすぎる。もうすでに始まる五分前というのに集まっているのは蘭を合わせて五人だけだった。
「オーディションってこんなもんなのかしら?」
「少ないのね…」
声を潜める二人に、一番近くにいた女の子が眉をひそめて口を挟んだ。
「あなた?ひょっとして書類審査も一次審査も受けずにシードされた人って」
そう言うと蘭を上から下までまじまじと眺めた。
「書類?一次審査?」
とぼけた顔でその女の子に問い掛ける。
「あら?本人は知らなかったのね。…ま、そんなことどうだっていいんだけど。大手はコネがあるからトクだなぁって思ってね。じゃ、失礼」
すまし顔でその女の子は席をはずした。
「な〜に?イヤな感じぃ〜」
園子が眉をひそめる。
「あ、でも今の子ってホラ、CMなんかで見たことある子だよね?」
「そうだっけ?でも性格悪そう。それに蘭の方が絶対可愛いって!!」
「んもう、園子ったらっ」
つい声が大きくなって周囲の視線が突き刺さった。
…雰囲気が重い。
「ってことはこれひょっとして最終選考?」
ようやく二人とも気づいた。そして蘭の顔がいきなりこわばった。
「なんか急に緊張してきちゃったよ。どうしよう、園子…」
「大丈夫、大丈夫。最初から洒落のつもりだったんでしょ。軽くいこ。ね!」
園子がパンと背中を叩いた。
オーディションは簡単なものだった。台本を渡され、そのなかの指定された台詞を朗読する。とはいえ蘭にははじめてのこと。ほかの候補の女の子たちの上手なことといったら。やっぱりそれなりのレッスンを受けてたって感じ。わたしだけなんか場違いだと、蘭の心は後ろ向きになる。
そして蘭の順番になった。審査の目が光る。更に同じ候補者の女の子の視線も怖い。蘭はうわずった声で台詞を読みはじめた。
ある女の子が自分の夢のために好きな男の子から離れて遠くに旅立つというストーリー。その旅立ちを決心するシーンの長台詞が蘭には用意されていた。
「──どうしても行きたいの。チャンスなのよ。今行かなかったらきっと後悔すると思うの。…………──だけど本当は、ずっとずっとそばにいたい」
台本の台詞が台詞じゃなくなっていく。
「あなたのそばを離れたくなんてない!!」
蘭の目に一筋の涙が流れ落ちた。
「どんな時もたとえ離れていても、あなたのことずっと思ってる。心は寄り添ってるって信じたいの。…勝手だよね。わかってる。それでもわたしは行くって決めてるんだもの。あなたがどんなに止めても…」
ここまで読んでストップがかかった。蘭は動けなくなっていた。この紙に書いただけの台詞が自分の声を通して「気持ち」に変わっていく。心が通じていれば何も言わなくても伝わるなんて、漠然とそんなふうに思っていた。新一も自分も「幼なじみ」というオブラートに包んでごまかしていただけかもしれない。
新一の気持ちはどうなんだろう。新一の気持ちが知りたい…。
審査員の一人に席に戻るように言われ我に返って着席した。
オーディションは続いている。
園子の言葉を思い出す。
『ぜいたくだよ、蘭は。いつもそばにいるじゃない?新一君、蘭のことすごく大事にしてるじゃない!!…わたしいつも羨ましかったんだから!!もっと素直になりなさいよ。言いたいこと言っちゃえばいいのよ。なんでいつもいつも我慢ばかりしてるの?行かないでって、泣いてでも止めたら…止めたらいいのよっ』
そして二ヶ月前の約束を今ごろ思い出す。蘭の前に数ヶ月ぶりに戻って来た新一。何も言えずにただ涙があふれたあの日。
『もうどこにも行きゃしねーよ。いつもそばにいるから、なんてな』
照れたように笑って新一は蘭の頭を撫でた。
あの時のあの言葉を深く考えたことはなかった。それ以上の意味に捉えたこともなかった。でも、もしあの言葉が……、そう、シャイなアイツのことだからあれ以上の「真実」はないのかもしれない。あれがアイツの気持ちなのかもしれない。そんなことにどうして今まで気づかなかったのだろう。
わたしが鈍感すぎた?…ううん、アイツ、ちゃんと言ってくれないんだもん。言葉にしてもらってないんだもん。
とにかく今すぐ新一の元へ走りたかった。ここに座っているのももどかしい。
しかし蘭は更にマネージャーとして付き添ってきていた青山に、事務所の見学や撮影所の下見などに引っ張りまわされることになり、家路についたのは夜の七時を過ぎていた。
オーディションの結果──それは後日電話で知らされるということだ。
「手ごたえはありましたね。いい感じですよ」
青山は満足そうに言った。だけど蘭の耳には入ってこない。
新一に会いたい。蘭の心はただただ新一に向かっていた。
*****
一方。新一は予定通りの船に乗り昼には東京に着き、その足で蘭の家へと走った。
そして探偵事務所の扉をおそるおそるあける。扉が半開きのままそっと顔だけ部屋の中を覗いてみる。
──誰もいない。小五郎さえも。
「あれ?」
目を丸くしていると、後ろからどこからか帰って来た小五郎に小突かれた。
「なんだ?新一じゃねーか。こそ泥みたいに覗きやがって!」
「はははっ、こんにちは!」
頭を掻きながら挨拶をする。
「蘭ならいねーよっ」
「え?」
「おーでしょんだってよ」
「オーディション?」
「なんだ聞いてねーのか?」
驚いた。不在の間に蘭にいったい何があったんだ?
「で、行き先は?」
「いやぁ。聞いてねーな」
「聞いてねーって、おっちゃん、蘭が心配じゃねーのかよっ!!そんなわけのわかんねーオーディションなんてよぉ!!」
暢気にしている小五郎の態度に頭に来ていた。
「心配だと?テメーの方こそちゃんと心配してやれよ。言いたかないが蘭はテメーが事件に関わるたびに心配ばっかしてやがる。それこそ夜も眠れずにな!!」
小五郎の反撃に返す言葉がなかった。
「アイツはな、蘭は今日の朝も不安そうにしてたんだ。テメー、いったいどういうつもりなんだ?なんでその不安を取り除いてやらねーんだ?いい加減にしろよっ!」
不安?不安を取り除く?なんだ、不安って。わけがわからなかった。
「それで何時に帰るかも聞いてない……んですか?」
なんとなくあらたまってしまう。
「さぁな」
小五郎はあえて「鈴木園子もいっしょだから心配ない」とは言わなかった。父親としては蘭を振りまわすこの探偵ヤローが気に食わない。そしてこれも報復と思うのだった。
探偵事務所をあとにして新一は自宅に帰っていた。ベットに仰向けになりながら蘭のことを考えていた。
蘭の不安っていったいなんだ?名探偵と呼ばれる工藤新一も女心だけは推理できないでいた。
知っているだけの蘭を思い出す。頭の中を蘭でいっぱいにする。
小さい頃の蘭。泣き虫だった蘭。いつも連れまわしては泥だらけで遊んでいたあの頃。そばにいることが当たり前でお互いを意識することもなく。
小学校の高学年にもなると周りのヤジが気にかかってほんの少し距離を置いてみたりした。すこしずついっしょにいる時間も少なくなってどことなくさびしい。いつのまにか「幼なじみ」に恋をしていたのかもしれないあの頃。
中学になって「幼なじみ」がとても大切な人に変わっていった。だけどそれを口に出すとすべてを失いそうな気がして言えないでいた。
友達でも幼なじみでも呼び名なんてなんでもよかった。そばにいることができたらそれでよかったんだ。──そんな日もあった。
高校に入って周囲からカップル扱いされるたびに「幼なじみ」だと否定してきた。それはただ照れくさかったから。相変わらず、いつも変わらずそこにいる「幼なじみ」の存在に安心しきっていたのかもしれない。
そして、長い別れ。はじめて「幼なじみ」の気持ちを知ったとき、それに答えることができずもどかしかった。ただ見守るしか出来なくて、そしてそれが唯一出来ることでもあった。辛い思いをさせた。心配もさせた。そんな「幼なじみ」を見るたびに手を差し伸べたくて、でもできなくて。再会したら、きっと言いたいと思った言葉。「これからはずっとそばにいる」って。
そう、あの日、確かにそれを伝えたはずだった。あの日。数ヶ月ぶりに蘭と再会したあの日。泣き崩れた蘭がそこにいた。
『もうどこにも行きゃしねーよ。いつもそばにいるから、なんてな』
照れながら蘭の頭を撫でた。あれが精一杯の自分の気持ちだった。ただ、あんな言い方をしてそれを蘭がどんなふうに取ったか、……わからない。ちゃんと伝わっていなかった、ということはそれは「伝えてなかった」ことと同じ。
今、どうしても伝えなくちゃいけない。そう思った。
蘭の不安、取り除いてやれるなら。「きっと蘭ならわかってくれてる」なんて甘えなんだと思う。
時計を見た。夕方六時。もうそろそろ戻ってもいい頃かもしれない。新一はベッドから起きあがった。
「蘭に会いたい」……これが答えだった。
七
園子とはオーディションのあとの撮影所の下見見学を終えてからすぐに別れた。普段は見ることの出来ない現場を目の前にして園子は興奮気味だった。そして
「オーディションの結果、わかったらすぐ教えるのよ」と念を押した。
「受かってるわけないって」
「そんなことないよぉ。蘭、いい線いってたと思うな。きゃー、そうなると蘭もいよいよスターの仲間入りってわけね」
勝手にスターにまでのしあげてしまう園子だった。
それよりも。新一に一刻も早く会いたい。
気ばかり焦っていた。会ってなんて言ったらいいのかそんなことは全然考えていない。いつもいつも心にあったこの霧のような不安を取り除けたら…。
いつのまにか早足から駆け足になり、たどり着いたのは新一の家の前。だけど灯りが見えない。
新一、帰ってない?──不安がよぎる。
ともかくと呼び鈴を押すが応答はない。いない…。どうして会いたい時に新一はいないの?…知らずに涙が零れ落ちた。
*****
探偵事務所の前、街灯の下。新一は蘭を待っていた。そういえば月曜の朝にもここで同じように。あの時もただ蘭に会いたくてここに来たのだった。
夜は更けていく。蘭は帰ってこない。いつ帰るかわからない人を待つのは不安だ。心配だ。蘭はいつもこんな思いを…。
持ってきていた文庫本を開いて活字をたどるがちっとも頭に入ってこない。おなじみの推理小説を読んでも推理などできない。
時間は夜の十時半を過ぎた。……遅い。
心配でたまらないから、それを打ち消そうと本をまた開く。やはり頭に入ってこない。そんなことを繰り返しながら時間は過ぎていった。
*****
新一の家の前。蘭が新一を待って数時間経過した。まだ新一は帰ってこない。
どこ行っちゃったの?どうして帰ってこないの?焦りと憤り。結果、涙がこぼれるからそれを拭う。
その時、ふとあの日の新一を思い出した。またしても遅すぎるくらい遅いかもしれない。あの日…月曜日のことだ。蘭の家の前で新一は待っていた。…あの日と同じように、今日も待っててくれてる?もしかして、今、この時も?
待っていて欲しいと願った。願いつつ蘭は走り出した。
ちょうど探偵事務所の前にある街灯の下、新一はいた。なにやら文庫本を読みふけっている。
「新一っ!!」
振り向いた新一はホッとしたように微笑んだ。
「こんなとこでいったい?」
…そんなこと言いたいんじゃないのに、もっと伝えたいことは他にあるのに。
「蘭、おせーじゃねーか。どこほっつき歩いてんだよっ」
新一は言葉とは裏腹に笑みを浮かべていた。久し振りに会えたことを素直に喜んでいる顔をしている。
「おっちゃんに聞いたけどオーディションだって?蘭がねー」
憎まれ口を叩かれてもなぜか新一の声が心地よかった。
「新一の…新一の家の前でずっと待ってた、わたし。まさかここにいるなんて思わなくて、それで、今日はどうしても会いたかったから、だから、だからね、急いで走ってきて……」
まとまらない台詞が涙とともに流れ出る。本当は言葉なんて何もなしでその胸に飛び込みたかった。突然の涙に戸惑っているだろう新一は、ほんの少しの間を置いて言った。
「泣くなよ…蘭。きっとオレがいけないんだろ?事件となると見境なくなって」
「違うのっ。新一、そうじゃないの」
新一の言葉を遮った。
「わたしが不安なのは事件のせいなんかじゃないの。新一がそばにいないからじゃないの。…新一が、この不安を取り除いてくれないから…だから…だからね…」
蘭はその場に泣き崩れていた。新一の前でこんなに率直に自分を表したのははじめてかもしれない。
「蘭、前言撤回。泣いていい。我慢しないでオレの前で泣け。ひとりでなんか泣くなよ。ホラ、ここで…。な?」
不意に新一に抱きしめられ、その胸で泣いた。そこはとても安心できる場所だった。
「ごめんな、蘭」
ずっとこのままでいられるのなら一生泣いていたいとさえ思った。
「まだ、これでも不安か?」
首を横に振る。
「うそつきだな、蘭は。顔に不安がいっぱいだって書いてある」
「え?嘘よっ」
蘭は自分の顔に手を当ててみる。
「バーカ」
そう言って新一は蘭の手をそっと除けてその唇に軽くキスをした。またも不意打ちを食らって蘭の胸は高鳴った。
「こ、これって…どういう意味なの?」
真っ赤になりながらも一番欲しい言葉をねだっていた。新一もはじめてのキスに顔を赤らめているに違いない。新一の心臓の鼓動が伝わってくる。
「バーロ、何聞いてんだよ。オレはオメーが好きだからキスしたんだよ。よーく覚えとけよっ」
「え?な、なに言ってるの?新一…」
新一がこんな言葉を口にするなんて。いつだって憎まれ口ばかりだった新一なのに。…蘭は動揺していた。
「蘭が好きだって言ってんだよっ。これはそのシ・ル・シ」
二度目のキス。再び強く抱きしめられて。
「新一…、ごめん。言葉なんてなくてもわかってるはずだったのに。その気持ちだけで十分だって思ってたのに。だけど言葉なしの新一を信じることが出来なくなって不安になって……。新一のこと、ちゃんと見てなかったんだって思う。……でも、でもね。言葉ってやっぱり大事だよね。伝えることって大事よね?今、気づいたの」
「オレもきっと言わなくてもわかってくれるって蘭に甘えてたんだな。で、なにかあるたび蘭を不安にさせてた。オレも今わかった気がするよ…」
二人で微笑みあっていた。
「なら、蘭も言えよ」
にやりと笑う新一。
「もう、意地悪なんだから…」
うつむいてまた顔を赤らめた。心臓が張り裂けそうだ。
「わたしの気持ちは、気持ちは……」
「ちょっと待った!」
言えと言いながら言葉を遮る新一。
「オレは探偵だぜ。蘭の気持ちくらい聞かなくてもわかってるって」
この一言が蘭の緊張の糸をほどいた。
「新一ぃ…ずっと新一が好きだった。小さい頃からずっと。きっとこれからも…ずっとずっと…」
それでもあふれる涙。だけどこの涙は悲しい涙じゃない。
「ずっとそばにいて」
今なら素直に言える。
「蘭、もう悲しい涙は流すな。オレがずっとそばにいる。……そばにいるから、な?」
手をのばせば届きそうな夜空の星が二人を見守っている。
二人の約束は星空への誓い。永遠に輝きつづけることを夢見て…。
数日後、毛利探偵事務所に蘭の[オーディションの合格]を告げる電話が入った。
fin