サヨナラの時間
これで蘭に会うのは最後だと思うと──いや、正確にはコナンとして、という意味で──心が締め付けられるように痛むのはどうしてだろう?
再び会えるじゃないか。新一に戻りさえすればいつだって蘭に会えるはずだ。そうして、今までのようにもう嘘をつかないでもすむ。
本当の気持ちを伝えたら、上手く行けば今までの幼なじみという関係からもう少し親密になれるかもしれない──無論蘭の気持ちが変わっていなければの話だが。
別れの挨拶の台詞は昨晩から考えに考えて。それこそ眠れないくらいに考えて。
──両親と暮らすことにしたんだ。──うん、アメリカ。──あ、母さんが駅で、そう駅で待ってるからって。──すぐ行かなくちゃ。──うん、大丈夫。一人で行けるよ。──見送りなんていいってば。──大丈夫。──僕は大丈夫だから。
…だけど、蘭。おめぇこそ大丈夫か?
聞けない言葉を飲み込んだ。
これからほんの数日になるか数ヶ月になるかはわからないけれど、俺は蘭のそばから離れなければならない。組織をこの手でぶっ潰すために。
灰原の例のクスリが完成したのが三日前。もういつでも戻れると知って、コナンのままでいるのはいつも以上に辛かった。だけど、新一に戻るためには組織を破ってからでないとダメだ。もしくは──ぶっ潰すために新一に戻る。そして新一に戻るならば蘭から離れる必要があった。
蘭を危険に曝したくない。今までついた嘘は、すべてここからはじまったのだから。
万一──…そんなことがないとは言えない。この心の痛さはそこから来るのか?
いや、違う…、違うな。
蘭の目だ。その瞳だ。
蘭はすでに何かを察している。俺は俺のこと、もしくは組織のことに夢中でそんな蘭の態度に気づかなかった。だけど、その悲しげな瞳は「コナンとの別れ」を察してのことなんだろう。だから心が痛むんだ。
「蘭…ねーちゃん?」
声をかけると返事もなく視線だけコナンを見る。
「じ…実はね…」
だから言わなくちゃいけない。別れの言葉を。その理由を。昨日一晩考えたじゃないか。模範解答ならすでに頭に入ってるはずだ。何を躊躇している?
「…行っちゃうの?」
蘭がさらりと図星を指す。俺はただ頷く。それだけでもう何も言えなかった。
「帰ってくる?」
蘭の言う意味がわからない。コナンは行くんだと言ってるのに「帰ってくる?」って問いかけはなんだ?
「それとももう戻らない?」
答えようがなくて。
「……それって新一にーちゃんのこと?」
余計な詮索に蘭の顔が更に翳ってしまう。
「コナン君がいなくなれば新一が戻ってくるのかな…。それとも新一が帰ってくるためにはコナン君は行かなくちゃならないの?」
それはまるでコナンが新一だと言っているように聞こえた。
蘭の問いには答えず
「母さんが…、駅に迎えに…、だからアメリカに…」
そんな嘘に次ぐ嘘を、俺は吐き出すことが辛くなる。思うように話せない。心、重い。
…俺はただ俺の我侭で「もう嘘をつきたくない」と思った。蘭のためじゃない。今、俺は蘭の気持ちよりも自分が楽になることしか考えられなくなっている。
だから、ごめん。こんなの卑怯だ。わかってる。
こんなふうに白状するなんて、俺が俺自身を許せない。だけど──。
もう言うなら今しかないんだ。今、言わないと俺、一生後悔しそうだ。
「蘭…」
ここから俺は工藤新一に戻った。体はもちろんコナンのまま。だけど心を隠すのをやめた。
「コナンは、俺…」
昨晩考えた台詞にこんな文句はなかった。
「コナンは、工藤新一なんだ」
ゆっくりと眼鏡を外して、蘭を見つめた。
蘭はふっと小さく微笑んで、俺を見る。驚いてはいなかった。やっぱり蘭の奴…。
騙されてたのはどうやら俺の方だったらしい。
「新一?」
呟くように俺の名前を呼ぶから俺は頷いて、ようやく笑った。
「知ってた…?」
そう聞くと瞳に涙が浮かんだ。
「帰ってくるよね?」
「うん」
「新一はちゃんと帰ってくるよね?」
「…うん。死んでもってのはナシ。ちゃんと帰ってくるさ」
「本当?」
「うん、ほんと」
「約束、出来る?」
「する──約束」
「だけど──コナン君にはサヨナラ言わなくちゃいけないんだよね?」
「…そうだな、もうコナンでいるのは今日限りだ」
「サヨナラ…コナン君…」
蘭のまなざしがコナンに向けるやさしいものに変わった。
俺もまたほんのひとときコナンに戻って。
「サヨナラ…。今まで楽しかったよ」
ひっくるめると俺の感想はそうだった。蘭のそばにいれたことはただ楽しかった。そばにいるからこそ切ない時もあったけれど、俺は──しあわせだったと思う。
蘭が俺ではなく「コナン」を抱きしめた。確かに俺だけど、やっぱりそれは俺ではなかったんだと思う。抱きしめながら「ありがとう」と言った。…蘭は、コナンに別れを告げた。
「じゃ、俺、行くから…。もうそんなには待たせないから。だから、…待っててくれるか?」
蘭なら「待ってる」と言ってくれると信じてた。なのに、
「ヤダ」
非情な返事に俺は呆然とした。
そりゃ、ないだろ?
「もう待たない。待ってるだけなんてイヤっ!!」
「…え?それ一体どういう…?」
「…一緒に行くよ」
蘭の挑戦的な瞳に圧倒された。本気で言ってる。
「一人でなんでも背負いこまないでよ…。わたしだけいつでも置いてきぼりにしないでよっ」
多分はじめて蘭が自分の気持ちに正直になった。
「新一がこれから行くところ、どんなに危険でもそれでもどこへでもついて行く。足手まといになんてならないから。自分の身くらい自分で守れるもの。だから!!一人でなんて絶対行かせないっ!!」
それでも蘭は泣き虫で溢れる涙は止まらなかった。
俺は、だけど嬉しかったんだ。本当に嬉しくて、蘭と行くのもいいなと思った。
だいたい立ち向かう勇気をくれるのはいつだって蘭の存在だったんだから。
「あんまり泣いてばっかいると、連れてかねーぞ?」
それが俺の答えだった。
また灰原に呆れられるだろうな。いや、激怒するかもしれねぇ。
一段と声を上げて泣き出した蘭をなだめるのは大変だった。だけど、泣き止んだあとのその笑顔ときたら……。思わず赤面するほどに、俺はあらためて思ったんだ。蘭が好きだと──。
早速準備してくるね、と蘭は部屋に入った。俺はリビングで待つこと数分。
「お待たせ♪」
うん?早いんじゃねーか?
「ふふふ。実はね、昨夜準備してたんだ。なんとなくそろそろって気がしてたの」
蘭は勝ち誇ったように笑う。
ったく。…俺、探偵としての自信なくすぜ。
「ほ〜ら、ちゃんとパスポートもこの通り」
と、パスポートを自慢げに見せたから、俺はあっと思った。
「…おい、蘭。どこ行くつもりだ?」
「え?どこってアメリカでしょ?」
「はぁ?」
「あれ以来よね、ほら高一の時のロスとニューヨーク……」
懐かしそうな顔になって宙を見る蘭に、俺は現実を突きつけた。
「……なんか変に期待してるみてーだけど、俺がこれから行くのは、とりあえず博士んちだからな?」
蘭の目が点になった。明らかに肩が落ちてるのもわかった。
だけど──。
やっと隣を歩いてる。
蘭と同じ歩調で、同じリズムで。
闘いの最中だと言うのに、思わず笑みがこぼれてしまう。
不謹慎だと自分に突っ込みを入れながら、それでも胸のときめきを抑えられない。
そうか……俺、今、恋してるんだ。
ふと隣を歩く蘭を盗み見た。澄んだ青空と白い雲。風になびいた黒髪。まぶしくてまぶしくてまぶしくて。ほんの少し涙ぐんだ。
「さぁ、行くよっ!!」
そう叫んで蘭が先に走り出した。俺は、いつになくセンチメンタルな自分からハッと我に返った
数時間後、本当の体を取り戻したら、俺は蘭になんて言おう。
本当の気持ちをホンモノの声で伝えると誓ったあの日を忘れない。俺は小さく「よしっ」と気合を入れ走り出す。明日に向かって──