ロマンスをもう一度〜四つ目の選択肢〜

「あなたの選択肢は三つ…。一つ目は、このまま彼女に何も話さず冷酷に接し続ける、二つ目は組織に正体がバレるわけがないと高を括って彼女に真相を話す……そして三つ目は………」

 灰原が突き付けた三つの選択肢。
 俺は頭でわかっていても納得できずに、ただ四つ目の選択肢を考えつづける。一晩中、考えつづける。
 蘭を傷つけず、悲しませず、そして危険な目に遇わせない、その方法を──。


 帝丹高校の学園祭が幕を開けた。
 B組の劇も中盤、これから見せ場が待っている。
 俺は幕間の僅かな時間を待って、舞台脇に控えていた。俺がここにいることをまだ誰も気づいていない。工藤新一がここにいることを、誰も。
 舞台から聞こえる蘭の声。聞いてるこっちが恥ずかしくなるくらいのラブロマンスのヒロイン役の台詞。誰が自らそんな劇に出たいと申し出るものか。
 そこへ、最初に俺の姿に気づき近づいたのは、蘭の相手役を演じている新出先生だった。
「君は……?」
 問われ、名前を名乗ったものか迷った。が、結局挨拶を交す。
「…そうか、君が工藤くん…」
 おそらく蘭や園子から聞いていたのだろう。新出先生は頷きながら俺の顔をじっと見た。
「それは、しょうがないね。……急いで着替えて」
「はぁ?」
「ここからは君がやるといい。黒騎士役は君がイメージらしいし、蘭さんもきっと……」
「えっ?」
「ともかく。君の出番だ!!」

 思いもよらぬ展開に、戸惑う暇もなく。俺は舞台へと背中を押された。
「ホラ、先生!」
 園子が手招きし、俺を見た。当然、鳩が豆鉄砲な顔を見せた。
 俺はすでに黒騎士姿で、照れながら「よっ!」と手を上げた。
「やだっ、新一くん!!それ似合うじゃないっ。馬子にも衣装って感じよね」
 園子は茶化す。
「……って和んでる場合じゃないって!!ホラ、行った行った!!」
 またしても背中を押される。
「おい、台詞は?」
 振り返り肝心のことを聞く。本当のことを言うと、少しばかりは展開や台詞はアタマに入っていた。蘭の劇の練習をどれだけ見てきたことか・・・。
 すると、園子は企み顔で言った。
「いーい?黒衣の騎士は、いきなり姫を抱き締めてチューよっ」
「え゛!?」
 ちょっと待て!!そんなシーンは知らねーぞ?
「わかったら、さっさと行く!!」
 強く背中を叩かれて、俺は舞台へ上がった。
 先ほどの園子の言葉に動揺している。すっかり頭が真白だ。一体ここに何をしに来たのかさえ忘れるくらいに……
 蘭の台詞も空回りする。思考回路ゼロ。
 抱き締めてチュー…抱き締めて、抱き締めて、抱き締めて、抱き締めて……。同じ言葉が頭を巡る。
 俺はわけもわからぬまま、言われた通りに蘭を抱き締めた。そう、言われた通りのことをしたまでだった……。芝居のはずだったのに。

 ふわりと香る蘭の髪に、最初にやられた。
 蘭だ…。ただ、蘭だと思うだけで、こうして手を回すことすら出来なかったコナンの日々を思い、切なくなった。そして、この時が束の間のものだと言う悲しみが襲う。
 時よ止まれと願っても祈っても…。

「蘭……」
 その耳元でそっと囁いた。
 ビクリとして、蘭は目を見開く。
「貴方はもしやスペイド… 昔、我が父に眉間を切られ、庭から追い
出された貴方が…トランプ王国の王子だったとは…。ああ、幼き日のあの約束をまだお忘れでなければ…どうかわたしの唇に…その証を…」
 蘭の演技は演技と思えるはずもなく。
 観客席はシーンと静まりかえって、そのままなら我を忘れて俺は蘭のくちびるに触れていたかもしれない。けれど気づいてしまった。息を呑む観客の目。
 これは芝居。演技でいいんだ。フリでいいんだ。──蘭のために。
 すぐにやって来る別れを知っているから、今はまだ幼なじみを続けていた方がきっと……蘭のために。

 幕が降りる。
 静まりかえった観客席も、期待を裏切られたようなため息でいっぱいだった。そして、蘭もまた。
 だけど、蘭がそのことを突きつめることはない。そう、俺と蘭はただの幼なじみなんだから。

「ホントに新一なの?」
 目を丸くして聞く。
「バーロ、寝ぼけたこと言ってんじゃねーよ」
 相変わらずな憎まれ口に、ホッとした表情を見せる蘭。
「どうして新一がここにいるのよっ!!だって、新一は………」
 舞台脇から観客席を見下ろして、そこにコナンの姿を確認しながら。
 困惑した蘭の顔は「まだまだ聞きたいことがあるのよ」と言っている。だけど、
「おいっ、そろそろ出番なんじゃねーの?」
 およその流れを把握している俺は、蘭に出番を知らせ、そばにあった台本を手にする。……このシーンでラストか。
「蘭!!」
 ギリギリで呼び止めて早口でまくしたてた。
「終ったら話があるから……」と。

 素顔を舞台でさらけ出すのはどうかとも思った。だけど、ほんのワンシーンだ。たかだか高校の文化祭。俺は最後のシーンまで黒騎士を演じ切ってしまった。もちろん台詞はバッチリだった。
 これはコナンを演じていたからついた演技力なのか、それとも女優の息子と言う天性のものなのか。台本通りに演じることになんのためらいも生まれなかった。最後の台詞となった「・・ハート姫!ここにいる全員が証人になってくれましょう。我が愛をどうか受けて、妻になってください。」──これを蘭に向けて、しかも直視して言うことが出来るくらいなのだから。…そう、それを聞いた蘭の戸惑いすら気づかないで。

 幕が降り、カーテンコールの後、舞台にクラスメートたちが歓声を上げて飛び込んできた。蘭と俺は揉みくちゃになりながら、それでも笑顔で顔を見合わせたりした。
 しかし。この盛り上がりに付き合っていたら、蘭と二人の時間なんて持てるはずもないな……。それにクスリだって、いつ切れるかわからない。
 一番言いたいことをまだ言ってない。ここに何をしにきたんだか…。
 このままだと、クラスでの打ち上げに行く羽目に陥って………。
 待ったところでチャンスがやってこないことが見え見えならば、作るしかないな、チャンスを!!
「蘭!!」
 今にも俺が胴上げの的になりそうだったその時。
 俺は蘭の手を取ると、強く引き寄せた。そして耳元で告げる。
「逃げるぞ?」
「えっ!?」
 そんな俺たちに気づいたのは幸運にも園子で、「今度は今回一番お世話になった新出先生の胴上げよっ!!」とみんなの注目を逸らせてくれて。「サンキュ」とウインクするとウインクが返ってきた。
 蘭は驚きながらも俺についてくる。
 そして、舞台脇から出ようとしたところを、ようやくクラスメートに見つかり「工藤が逃げたぞ!!」と大声で叫ぶ輩がいたり。「毛利が攫われたぞーっ」と大騒ぎする男子生徒がいたり。
 けれど、もう、俺たちはただ走り切り、クラスメートたちをまくことに成功した。


 そして、ここは提向津川の河川敷。
 俺は黒騎士、蘭はハート姫のまま、今ここにいる。
 走り抜いたのでさすがに息が上がってしまった。それでも無事逃げ出せたことを二人意味もなく大笑いして喜びあった。
「おっかしかったよねー」
「でも、上手くいったよな?」
 そして、笑い疲れた頃にようやく肝心なことに蘭は気づいた。
「それで、話って?」
「へ?」
 ここまで来て頬を染めることもないだろうに、と俺は自嘲した。心臓が高鳴って、少し頬が熱い。
 芝居ならあんな台詞も軽く言えたのに……。
「す、座るか……?」
 俺は騎士のマントを広げてそこを指さした。なんとも妙な光景だけど、ま、いた仕方ないと言うことで。
 蘭はクスッと笑って、そこへ座った。
「変なの…」
 そう言うと、しばらく笑いが止まらないようで。目に涙まで浮かべて笑う。
「そんな可笑しい?」
「うん、すっごく滑稽…」
「滑稽……だろうな」
 俺も苦笑した。騎士と姫が河川で日向ぼっこ…。そりゃ滑稽以外の何者でもないだろう。
「けど、それ……」
「ん?なに?」
「そのドレス」
「ドレスが何?」
「結構イケてるよ」
「……」
 蘭が硬直している。
 それを見て俺もハッとした。なんて俺らしくない!!また心臓が高鳴るから。
「馬子にも衣装って感じで」と付け加えた。舞台脇で俺が園子に言われたのと同じ台詞。
 すると、蘭もいつもの調子で「何よそれ、褒めてるの?」とふくれた。

 それを見て思った。
 いいよな、この感じが。…この空気、この距離、以前までの俺たちと同じ。
 やっぱりこのまま、幼なじみのままがいい。心穏やかにいられる。

「それで?」
「へ?」
「もーう!!話って何よっ!!」
 また蘭が話を元に戻した。
「あ…だから、それは…」
 言いかけた言葉を蘭に遮られる。
「男だったら男らしくはっきりと言いなさいよね」
 な…なんだぁ?蘭にはお見通しなのかぁ?
「休学中のノート見せてくれって」
 …っておいおいっ。
「あれ?違うの?」
 蘭は相変わらずだな…。ま、こういう奴だってわかっちゃいたけど。


 俺は今日、こうして工藤新一に戻ったことの意味を考えている。
 そして、それは一晩中考えつづけていたこと。
 蘭に、待ってて欲しいと言いたい。絶対帰るから、待ってて欲しいと。
 だけど──。いいのか?それを言って。約束して。蘭が更にさびしい思いをするのがわかっていて。


「俺……また行かなくちゃならねーんだ。まだ、ここへは戻れない」
 重い沈黙を感じる。


「何も……話してくれないのね…?いなかった昨日までのこと、そしていなくなる明日からのこと…何も…」
 蘭がその重い沈黙を破って言った言葉だった。
「うん…今はまだ言えない…けど」──と言えば蘭はきっと黙って頷く、なんて俺は思っていた。そんな蘭に甘えたかったのかもしれない。頼む、聞かないでくれ、と。
 けれど。その時。俺の懐に、蘭はためらうこともなく侵入してきた。
 俺の記憶は、舞台上での抱擁を追っていた。
 あの瞬間の切なさ、悲しさが体中を駈け抜けた。

 このまま蘭を奪って逃げたい。連れ去りたい。
 離したくない。離したくない。このまま、離したくない……。

 そして、迷わず俺は蘭を強く抱きしめた。
「蘭……」
「全部話して、もう何も隠さないで、全て…知りたい。知っていたい…」
 俺の胸元が蘭の涙で濡れている。今、蘭の本当の声が聞こえた気がした。
 ずっとずっと待ってたんだもんな。そんな蘭に、まだこれからも、それがいつまでとも言えないってのに、待っててくれなんて……言えるはずねーよな。

「俺はおめぇの一番近くで、いつでもおめぇのこと守っていくから…」
「え?」蘭は顔を上げる。
 更に俺は続けた。
「今まで、そうしてきたように……、これからも」
「それって…」
 蘭が言いかけた言葉を遮る。
「姿を変えても、声が違っても、名前すら違っても、俺は俺だから。今までもこれからも。俺はそばにいるから…」
 俺はバカみたいに蘭にたくさんのヒントを与えて。
「本当のことは言っちゃいけないって思ってる。けど……、俺、本当のことを蘭に知ってて欲しいとも願ってる………ったく我侭だよな」
 もう蘭は何も言えないままだった。
「ごめん……。言えなくて、ごめん」
 もう一度俺の胸に顔を埋めて、蘭はまた泣いた。
 そして落ち着きを取り戻した時、
「もう一度、今、新一に言ってもいい…?」
 それは誰への問いかけなのか…?
 蘭は俺の頬にそっと触れた。
 蘭の言おうとしていることがわからなかった。触れる指先が震えているのしか。
「今、ここにちゃんといるんだね、新一が…」
 そう言うと柔かに微笑んで言葉を繋げた。
「お願いだから………」
 川からの風が蘭の髪をなびかせ、頬を撫でながら通り過ぎる。
「一人にしないで……」
 通りすぎる風の行方を知ることなんて出来ない。明日のことなどわからない。だけど、もう、俺は止まらない。誰にも止められやしない。
 傷つくことも傷つけることも、……全ての覚悟を決めてやる!

「待っててくれるか?」
「うん」
「いつか必ず……」
 もうそれ以上言葉にならなくて。

 目を閉じて。
 幼なじみから恋人同士へ。今、俺の思いを伝えよう。俺の声で、言えずにいた気持ちを打ち明けよう。
 ──今。誓いのくちづけを。そして囁く、熱い思いを。

 

 唇を合わせた瞬間、胸に激痛が走った。

 もう時間なのか?
 帰らなくちゃダメか?
 またモトに戻っちゃうんだな、…コナンに。

 あり得ない四つ目の選択肢を選んだ俺。それを決して後悔しない。
 今、蘭を残して立ち去ることも、再びコナンとして現れることも、ただ受け入れる以外にないから。

「家に帰るよ…」
 無理して笑って見せた。二人で立ち上がって。俺はマントを払った。
 そして、先に歩き出した。後ろから蘭が呼ぶ。
「約束だからね……」
 最初は小さな声だった。
「約束だからね…」
 二度目は少し大きな声だった。
「約束だからね―――っ!!」
 三度目は叫び声だった。
 俺は右手を振り上げた。だけど、もう振り返ることは出来なかった。

 益々痛みが激しくなる胸。掴みながら、もがきながら、それでも歩いていく。倒れちゃいけない。進まなくては。

 蘭を一人にしない。決して。
 約束は守る。
 だから、俺は負けられねーんだ。絶対。負けちゃなんねーんだ。
 何度も何度も心で叫びながら。

 意識を失う手前。もう一度俺は蘭の名前を呼んだ。
 蘭に勇気をもらうために。負けないために──。


fin