君の名を呼ぶ

 恋をしたのはいつなんだろう?
 君が俺の前に現れて、俺が君の色で染められていく。ある意味、それは君の罪。自分勝手な言い分だけど、少しはその罪を償ってくれないか?


 + + + + +

 桜が落ちる頃、俺はその桜の木の下で彼女と出会った。
 俺は彼女を知っている。だけど、彼女はどうだろう?キッドならまだしも、快斗を知っている理由はなかった。
 俺が彼女に声をかけたのは、桜の花びらと共に落ちる彼女の涙が見えたから。いや、それは気のせいで、本当に桜の花びらだったのかもしれない。けれど彼女の心がさびしげなのはその瞳が物語っていた。
 ずっと昔からの知人のようにごく自然に現れて、俺は彼女に微笑んだ。
「花見?」
 彼女が自分の記憶を辿っているのがわかる。
「…ごめんなさい、思い出せなくて…。えっと…あなたは?」
「俺?……快斗。はじめまして!!」
「え?…でも、どっかで会ったような…。気のせい?ホントに今はじめて?」
「…それって逆ナンパ?」
 クククと笑うと彼女も少し笑った。
「…泣いてるみたいに見えたから、ちょっと気になったんだ」
「え?わたしが?」
「やっぱ俺の気のせい?」
「泣いてないよ、そう、……気のせい」
 そう言って笑うけど、それはとてもさびしげで。
「花見デートしよっか?」
 思いついて彼女の手を取った………と思ったが瞬間逃げられた。
「…わたし、ここにいるから。…ごめんなさい」
「待ち合わせ?」
「うん…待ち人は来ないけどね」
「じゃ、やっぱデートしよっ」
「強引ね…」
「うん、だって、花見なら一人より二人のが楽しいって」
「そだね、一人はヤだよね」
「だろ?じゃ…ホラ」
 もう一度彼女の手を……。意外にも今度は簡単に捕まえられた。
「……はじめて会ったのに不思議ね。全然そんな気がしない」
 微笑んだ彼女が、その表情が……そっか、その時なのか、彼女が俺を捉えたのは。
「俺は、君、知ってるよ。ずっと前から…」
「え?」
 彼女は少し怯む。
「探偵君は、………また事件?」
 彼女がさびしげにしている理由なんて聞かなくても想像できた。彼はどうせ約束をすっぽかして事件に夢中なんだろう。彼女はまたしても待ちぼうけを食らわされてるんだろう。
 彼女は立ち止まり俺を見た、俺をじっと見た。そして気づいた。
「………怪盗キッド?」
 思ったよりも早くそれに気づくから、俺は嬉しいような困ったような複雑な心境となる。
「やっぱ女性は侮れない。っつーか君はスゴイねっ。でも、キッドはあいにくもういないんだ。ここにいるのはただの快斗」
「そっか、あなたがキッドだったんだ…」

 桜の木の下を歩く。花びらが彼女を飾る。
 きっとここを一緒に歩くだけでよかったんだ、彼女は。彼と二人、手をつないで歩けたらそれだけでよかったんだろう。

「ねぇ、どうしてあなた怪盗なんてしてたの?」
「……家庭の事情」
「なにそれ?秘密主義?」
「ハハ、俺は怪盗やってますって宣言する奴はいねーって」
「それもそうね」
「なんで俺がキッドってわかった?」
「…なんでかなぁ。何度か会ってるから空気でわかっちゃうのかな?」
「空気?変装には自信あんだけどな」
「うん、変装には騙された。声色までそっくりなんだもん」
「だろ?俺、なんにでもなれるぜ?なんなら君の大事な探偵君にでもなってやろうか?」
「えー?新一に?……フフフ、いいよ。新一になることないよ。でもなんにでもってホント?」
「うん、大抵はね。なんかリクあるの?」
「じゃあね、コナン君は?」
「へ?ガキの探偵君かぁ…さすがに変装術は役に立たないけど」
「なんだぁ、なんにでもなれるって言ったのにぃ」
「…なれるさ。おう、なってやろうじゃねーか」
「無理しちゃって…子供みたい」
 笑う彼女を「シッ」と制して。
「目を閉じて」
「えっ?」
「だから、会わせてやるから目を閉じてみて」
「本気なの?」
 彼女は目を閉じ、それでいて空を桜を仰ぐようにしてみせた。
 子供のフリなんてやめにして、その唇を奪って逃げるのもいいかもしれないとふと悪戯心が宿る。だけど俺は彼女との時間の方が大切だった。
『蘭ねーちゃん』
 だけど、なんで今コナンなんだ?だって、コナンだったのは当の探偵君のはずなのに。
「コナン君?……ホントにコナン君がいるみたいだ」
『なんで僕に会いたいの?僕は、だって工藤新一なんだよ?』
「だって…新一のいないときにずっとそばにいてくれたのはコナン君だったもの。だから……。新一が事件に連れて行かれて、一緒に桜の木の下を歩こうって約束…うん、約束したのに。もう桜は散ろうとしてる…」
『さびしいときは僕に会いたくなるんだ』
「うん、会いたい」
『僕は新一なのに』
「うん、コナン君は新一だから。だからね、会いたいの」
『ふうん……』
 俺は言葉を失くす。
 あのコナンってガキの姿を思い出してみる。生意気な挑戦的な目で俺を何度も脅(おびや)かした。…俺はガキにも勝てないってことか?
「愛されてるんだ、探偵君は……」
 素に戻ってしまった。彼女も夢から覚めたみたいにハッとして目を開く。
 儚げに見えたのは桜のせいなのか。恋しさと切なさはいつも隣りあわせなのか。
 俺は、走り出した叶わぬ恋心に身を任せて、ただこうして桜を見ていることがしあわせだと思えた。君の隣で──。

 ぽつりと彼女がこぼした。
「六月に式を挙げるの」と。


 + + + + +


 青葉が芽吹きはじめた桜の木の下で、彼女を想う。
 会いたくて。会いたくて。
 恋に落ちるというのはこういうことなのか。自嘲しながら彼女を待つ。来るはずのない彼女を待つ。
 川べりの桜並木をあの日と同じ速さで歩いた。彼女の手のあたたかさならまだこの手のひらが覚えている。

『快斗君、カッコいいから彼女いるでしょ?』
『…いねーよ』
『嘘…、だって一度見たんだ。女の子と歩いてるとこ』
『え?俺を見たの?…キッドじゃなくて?…いつ?』
『今思い出したんだ。わたし最初新一と見間違えたのよ…。あれが快斗君だったんだね……。もうずーっと前よ。ホラ、あのセリザベス号の……』
『ああ、そんな前?…そっか、あいつに似てるのか、俺』
『ごめん…似てるなんて言われたくないよね』
『似てるんだからあいつに成り代わるなんてことも朝飯前だぜ?』
『成り代わるだなんて…。新一は新一だし、快斗君は快斗君だよ?』
 つまり探偵君は彼女の特別。俺はそうじゃないってこと。
 捕まえようとしても彼女はするりとすり抜けていく。あいつの名前を呼ぶたびに彼女が頬を染める。そんな彼女の恋心すら愛しいと思えたあの日が今も目の前に──。


 光る水面に目を奪われて、俺はその時まで気づかなかった。対岸に二人の姿をようやく見つけた。彼女と彼と。彼に向けられた彼女の笑顔を見て心がちくりと痛んだ。
 待つことだけで満たされていた想いが崩れ落ちてゆく。激しく心をかき乱される。俺は足元の石ころを拾って川に放り投げた。同心円に弧を描くその水面が大きく広がって、波となって打ち上げられる。
 行き場のない想いに俺は苦しみはじめていた。こんなこと、はじめてだった。


 + + + + +


 通り雨が来て桜の木の下に避難した。雨は激しくなるばかり。
 俺は偶然なんて信じていなかった。いや、今だって信じてなんていない。偶然なんかじゃない。それは多分必然。
 駆けてくる彼女が真っ直ぐこの木を目指したのはどうして?
「あ、偶然!!」
 目を丸くして笑顔を見せた。雨に濡れても、今日の彼女は泣いているようには見えなかった。明るくて、そこだけが俺の太陽だった。
「どうしてここに?」
「うん、雨宿り。急に降ってくるんだもん」
 やっぱり偶然なのか?…でも俺はそんなの絶対信じない。
「今日は待ち合わせじゃなさそうだよね?」
「うん」
「なんかシアワセそうだ……」
 そう言うと彼女は頬を染めた。
「この前は、ちょっとね…」
「ちょっと…なに?」
「事件事件って新一が……何度も事件に新一連れて行かれて…でもそんなの探偵なんだからしょうがないって…我侭言っちゃいけないって……色々考えてたらどんどん暗くなっちゃって」
「ふーん」
 彼女がそのことに関して、きっとまだ納得してないのはよくわかった。言えない我侭が彼女のストレスにならなきゃいいけど。
「言えばいいじゃん。我侭」
「だって…。新一困らせるだけでしょ?」
「困らせればいいと思うけど?」
「え…?なんで?」
「男って結構単純で身勝手だから、たまには我侭も言われてみたいかも」
「そうなの?」
「女は違うの?」
「……どうかな?」
 うーんと唸りはじめる。
「俺なら君の我侭思いっきり聞いてやりてーけどな」
 かなり本気なのに笑う彼女。
「快斗くんってひょっとしてレディキラー?」
「ちぇっ。俺って結構純情くんだけど?」
「嘘ーっ!!」
 大げさに驚くからからかってみたくなるんだ。
「君はどっちが好み?」
「どっちって…」
「純情くんとレディキラー」
「……え?」
 そしてまたうーんと唸りはじめた。
「もしかして探偵君以外眼中にないとか?」
 …図星だったのか彼女は頬を染める。なんかくやしい。

 しばらくして空が晴れてきた。遠くにうっすらと虹が見えた。
「綺麗ね…」
 風が彼女の髪を揺らして、少しシャンプーの香りが漂う。
 君が綺麗なのは恋してるから?
 肩を抱き寄せたいと思いながら、それを彼女が望んでないことがわかっているから手が出せない。…俺じゃない、彼女が求めるのは。最初から知ってたじゃないか…。なのに今、彼女を振り向かせたくて焦りすら覚えて。
 雨は次第に小降りになり、もう間もなく晴れるだろう。
 …待ってくれ、やまないでくれ、もう少し俺に時間をくれないか?
 彼女を抱き寄せる偶然を必然に変えてくれ……。

 明るくなった空が、俺の願いを受けとめてくれたのか再び暗く黒い雲に覆われてゆく。
「変な天気だね、でも今小雨だし、今のうち走っちゃおうか?」
 彼女は今にも走り出しそうだった。
「いや、もうちょっと。…まだ降るかもしれねーし」
 そう言い終わるや否や、激しい雷の音、雷雲、光……地面が揺れた気がした。
「キャッ」
 彼女は小さく叫んで、とっさに俺にしがみついた。
「あ、ごめんね…雷苦手なのよ…」
 潤んだ目で見つめられると、俺だって少しはたじろぐ。だけど、俺から離れようとする彼女を逃がすなんて出来ない相談だった。
「鳴り止むまでこうしてていいから…」
 懐に納まった彼女のぬくもり。感じているだけで心臓が高鳴る。
「…ダメよ、やっぱり……ね?」
 またしても離れようとするから、ぐっと引き寄せるしかない。
「ちょ…快斗くん、どういうつもり?」
 頬を膨らませ睨む仕草は、まだ俺を甘く見てる。
「やだ、雨がやむまで離さないっ!!」
「え?」
 目を丸くする彼女は、弟を見るような目で俺を見る。しょうがない駄々っ子とでも思っているみたいに。
 だけど雨はすぐにやんだ。雷もどこかに行ってしまって。
 …そっか、ここまでなんだ。彼女はもう帰ってしまう、彼女の帰る場所へ。
 俺はカッコつけて「探偵くんにヨロシク」と手を振ろうと考えていた。それが男ってもんだと。クールに行こうぜ。…って。
 だけど。
「じゃ、行くね」
 そう言って先に駆け出した彼女の後ろ姿を見つめていたら、どうしても呼びたくなったんだ、…君の名前を。声に出したい。叫びたい。それが出来たら……。
 蘭、蘭、蘭……!!
 心で叫んでも彼女に届くはずなんてない。そう思ってたのに……彼女は立ち止まり振り返った。
 不思議そうに俺を見つめる。口元が「な、に?」と動く。
 俺はそっとつぶやいた。遠くにいる君に聞こえるはずなんてないんだ。

「君のこと好きなんだ」
 俺の想いは風に持って行かれた。


 + + + + +


 六月。
 桜の木も青々とした葉を携えて光を受けている。雨上がりは空気も澄んでいて、更にきらきらと川の水面が美しい。
 対岸にある教会が朝から騒がしい。
 俺は、人づてに今日がその日だと聞いていた。遠くから君を見送るよ、潔くね。──そう思ってたのは本当なんだ。
 風に持って行かれた俺の想い……最後の最後に届けたいなんて思いはじめたのはどうしてなんだろう。…そうか、この初夏の薫りがあの日の彼女の髪の香りにとても似ていたから。だからかもしれない。
 俺は彼女がバージンロードを歩く前に、彼女に会おうと決めた。

 俺は彼女の元へ走った。走っても彼女は俺のものにはならないってわかってるのに。…どうしてなんだろう?意味なんてあるんだろうか?

 教会の控え室に入るのは容易い。友達のフリでポーカーフェイスを貫くだけ。決して挙動不審になっちゃいけない。
 俺はゆっくりと新婦の控え室をノックした。「はい」と彼女の声。ドアはギィと音を立てた。
 俺を見ると、彼女はとても驚いた表情になる。
 俺はというと、実は純白のドレスをまとった彼女に見惚れて声も出なかった。…すごく綺麗だった。
「快斗くん…?どうして?」
 どうしてここに来たのか?それとも、どうして今日だって知ってたか?それとも、どうしてここだってわかったか?……何を聞きたい?でも、それをすべて説明してるほど時間はないだろ?
「よかったね、いい天気で」
 俺はなぜか天気の話で誤魔化している。
「そうね……」
 控え室の窓から、あの対岸の桜の木が見えた。
 ほんのちょっぴりの二人の思い出。…ここから見るのは胸が痛かった。
「バルコニーに出る?」
 彼女が声をかけた。その控え室にはバルコニーがついていた。しかも川が眺められるロケーション。
 俺は頷いて彼女とバルコニーに出た。
 光を浴びて、更に彼女は輝いて見えるから、目のやり場に困った。

 トントン。…控え室にノックの音が響いた。「時間です」と誰かが告げている。
 時間だ。もう時間だ。彼女は彼のものになる。
「行かなくちゃ……」
 彼女は、俺とは別の緊張から手が震えていた。思わずその手を握る。
「あ…、震えてるの、わかっちゃった?」
 苦し紛れに笑ってる。俺の気持ちなど微塵も気づいていないらしい。
 そのままその手を引き寄せて、そう、俺はその唇を奪ってやるんだ。花嫁の唇を奪うなんて……しかも不意打ちなんて、卑怯だってわかってるさ。だけど、俺はそうしたい、そうしたかった…。

 彼女を抱きしめた。花の香りが俺を酔わせる。
 耳元で囁いた、「蘭…」と。はじめてその名を呼んで想いが弾けた。
「快斗…くん?」
 後ずさろうとする彼女を逃がさない。受け止めてくれなんて言わないから。決して言わないから。
 その唇を盗んだのは一瞬。
「好きなんだ、俺…」
 一方的な告白に、彼女がゆっくりと微笑んだのは揺るがない気持ちがあるからに違いない。自分のバッグから白いハンカチを取り出し俺に差し出した。
「口紅……ついちゃったよ」
 俺はハッとしながらそのハンカチで口を覆った。

 彼女の動じないうしろ姿眺めながら、俺はただ白いハンカチを握り締めていた。迷いもなく真っ直ぐに一途に思い続ける彼女だからこそ俺は惹かれたんだと思う。決して届かない想いだと思えば思うほどに──。


 + + + + +


 赤、白、黄色、緑、青、ピンク……。用意した風船は色とりどり。
 教会の対岸で、君が最高の笑顔を見せる瞬間を俺は待っていた。それを見たいのか、見たくないのか。自分でもわからない。
 俺の想いは今、風船になる。真っ青な空に飛ばす。舞い上がる風船は君の元へは届かない。だけど、きっと君にも見えるだろ?
 俺はここにいる。君がそっと空を見上げてくれたら、俺はそれだけでしあわせなんだ。

「蘭、…君が好きだ」

 水面に輝く太陽──きらきらと美しく目の前にあるのに、どうしても掴めない君。……それでも俺は君の名を呼ぶ。

fin