「歩きはじめるとき」 作・ななみん
昨夜の雨でぬれた若葉が、午後の陽射しに照らされて、キラキラと光っている。
ここは、提無津川ほとりに建つ小さな教会。今日は、この教会で一組のカップルが式を挙げることになっている。
「歩美ちゃん、そろそろですよ。」
忙(せわ)しげに控え室の新婦・歩美に声をかけるのは、新郎・光彦。
歩美は、純白のウエディングドレスに身を包み、髪は愛らしいパールをあしらったティアラで飾られている。
光彦もやはり白のタキシードを着込んでいる。アルバイトでモデルをしていただけに、そのスリムな長身は目を引くものがある。
「光彦君、やっぱり見つからなかったの?」
歩美は振り向きざまに問い掛ける。
「残念ながら…。でもしょうがないですよ。あれ以来、音信不通で探しようもないですからね。」
光彦の口調は、結婚する今になっても相変わらずだ。
歩美と光彦。小学1年生のときの出会いから十数年の時を経て、今こうして結ばれようとしている。
その間、ふたりは決して、ずっと同じ時を共にしてきたわけではなかった。それどころか少年探偵団の解散後は、別々の友達と一緒にいることの方が多くなり、高学年にもなると、お互い声を掛け合うことも(ある種の恥ずかしさから)しなくなってしまった。更に、中学は校区が違ったため会うこともなくなり、高校時代にはそれぞれ別の恋に夢中になったりしていた。
そして、大学に進み、お互い遠い日のことを思い出すこともしなくなったとき。そんなふたりが、ひょんなことから再会した。よくあることと言ってしまえばそれまでだが、大学のサークルの合コンでのことだ。
すでにその頃、光彦は高校時代からはじめていたモデル稼業のせいで、周囲の女の子の憧れの的となっていた。しかし、なぜかそういうことに疎い歩美。しばらくは光彦の存在に全く気づかなかった。声をかけたのは光彦の方だ。
「歩美ちゃん? …やっぱりそうだ。歩美ちゃんじゃないですか!ボクですよ、ボク。光彦。思い出してくださいよ。」
軽口の光彦の言葉の端々に聞き覚えのあるしゃべりぐせ。歩美はそれが光彦だと気づくのに数秒を要した。
「光彦君? えー? あの光彦君なの?」
そこから先は、すっかりふたり、思い出話に花が咲き、合コンということも忘れて少年探偵団の頃を懐かしんだ。
そして、不意に光彦がこんなことを言い出した。
「歩美ちゃんは、ボクの初恋の人だったんですよ。今だから言いますけどね…。」
お酒が入っているせいか、さらりと言ってのける。
「えー?だって光彦君、そんなこと全然…。」
歩美が口を挟もうとしたが光彦は話しつづけた。
「あの頃、元太君とボクと、それからコナン君。ボクたちにとって、歩美ちゃんはマドンナ的存在だったんですよ。」
そこに「コナン」という名前が出て、歩美ははっとした。その様子に気づいた光彦は、
「わかってますよ。歩美ちゃんがあの頃、誰のことを見てたかってことは。」
そう言うと、一呼吸おいてテーブルの上のグラスを取り、ジンライムを一気に飲み干した。
「コナン君、今ごろどうしてますかね…。」
16年前のある日、突然コナンがいなくなった。忽然と姿を消したのである。ただ、少年探偵団の3人には、それぞれ電話で別れの挨拶だけはあった。父母の暮らすアメリカへ行くこと、もう日本へは戻らないこと。それだけを伝えるためだけに。連絡先すらわからない3人は、さすがに毛利探偵事務所や阿笠博士に詰め寄った。
ようやくアメリカの現住所まではつきとめたが、ほんの1年ほどで、その居所すらわからなくなってしまった。歩美もはじめは何度となく手紙を送ったりしていたが、返事が来ないものだから遂にあきらめてしまった。
そして、少しづつ少しづつ、忘れていったのである。
ほどなく歩美と光彦は交際をはじめた。歩美にしてみればそれは意外な展開というほかはない。
しかし、光彦の変わらぬ「少年」のままの心に触れ、次第に光彦にひかれていった。
「今、阿笠博士のところでちょっとした手伝いをしてるんですよ。」
モデルをしているというから、少し色眼鏡で見ていた。最初は歩美も警戒していたが、「夢」を語る「少年」の 目の輝きは嘘をつかない。
やたら専門用語が飛び交って、歩美にはさっぱりわからない話を目をキラキラさせて語る光彦。そんな光彦を見つめる歩美。
勿論、喧嘩もし、それこそ別れの危機すらあったが それも乗り越え、ふたりは結婚を決めた。
そして、挙式の日取りが決まった段で歩美は、
「コナン君、呼んじゃだめ?」
と光彦に聞いた。神妙な顔つきに変わる光彦。
「ボクもコナン君に会ってみたいし、いいんじゃないですか…。」
そう答え、早速探し出す手はずを整えた。駆け込んだところは毛利探偵事務所である。
挙式まであまり時間はないが探し出して、探し出して…? それでどうするんだろう、わたし。歩美は考えた。
わたし、今更コナン君にどうしてこんなに会いたいんだろう。わたしは光彦君を愛している。それは確かなのに。初恋だったから? それを告白したい? いや、そうじゃない。どうしてもわからない。ただ、会いたい、会っておきたいと願っている。
歩美がなぜコナンにこだわるのか、不可解なのは光彦も同じだ。いや、歩美以上に複雑な思いでいる。
(いまさら会ってどうしようっていうんだ?)
信じてはいるが多少の不安は振り払えない。
しかし、やはりコナンの居場所はわからぬまま。もう時間だ。
「歩美ちゃん、コナン君の代わりにって来てくれてますよ。ほら。」
光彦はそう言って控え室から出ていった。その客人に会釈することをもちろん忘れない。
控え室の入り口でにっこり笑顔を見せているのは、蘭だった。
「蘭さん!」
コナンがいなくなって以来、歩美は蘭を姉のように慕い探偵事務所に入り浸っていた。中学、高校の頃には恋の悩みを打ち明けるほど、蘭は歩美にとってよき相談相手でもあったのだ。
「歩美ちゃん、おめでとう! とってもきれい!」
蘭が歩美に駆け寄って言った。
「やだぁ。でも蘭さんには叶わないですけどね。蘭さんのウエディング姿、とっても素敵だったんだもん。」
照れ隠しにちゃかす歩美。
「もう、何年前のこと言ってるのよ〜」
そう、蘭はもう7年も前に結婚していた。今は仕事を続けながら2人の子どもを育てるたくましい母となっている。
誰と結婚したかって? はい、それはもちろん彼。
彼…工藤新一。
「今日、新一さんは?」
歩美は入り口付近に目をやった。だれもいない。
「ああ、アイツだったら、あ・そ・こ!」
と、蘭は窓の外を指さした。
小さな男の子2人とサッカーをしているタキシード姿の新一がいた。歩美はその光景にはっとして窓のそばに駆け寄った。
新一とそして2人の男の子。6歳くらいだろうか。2人とも蝶ネクタイに青いブレザー、半ズボン、というスタイル。見ていてサッカーするにはとても動きずらそうだ。
歩美がはっとしたわけは、その2人の姿があまりにもコナンに似ていたことにほかならない。
「どしたの?歩美ちゃん。」
不思議に思って歩美の顔を覗きこむ蘭。
「蘭さん、コナン君 覚えてますよね。」
「え…う、うん。もちろんよ。」
「なんか、コナン君みたい…。」
窓の外を見つめながら誰に話しかけるでもなく、歩美はつぶやいた。蘭も同じように窓の外を見つめた。
提無津川のキラキラした水面。逆光になって顔こそよく見えないが、楽しそうにはしゃぐ3人の姿。
歩美は見つめつづける。蘭はそんな歩美と窓の外の3人を交互に見るが、歩美の気持ちを計りかねていた。あの頃、コナンに恋していた歩美を知っているだけに、複雑な思いだ。
「歩美ちゃん、そろそろ時間よ。行かなくちゃ…。」
蘭の言葉にようやく歩美はにっこりと笑った。
「そうですね。」そう言ってから少し考えて、
「蘭さん、お願いがあるんですけど…。」
歩美が蘭の耳元でささやいた。
そして、いよいよ式がはじまる。
オルガンの音と共に入場してくる、歩美とエスコートする歩美の父。一歩ずつバージンロードを進む。
真白で長いベールが目をひく。もちろん眩いばかりの歩美に参列者からため息がもれる。
参列者のなかには阿笠博士の姿も見られた。阿笠の目には、幼い頃の歩美の姿がよみがえり、コナンへの可愛い恋心を抱いていた少女の歩美をなつかしく思い返していた。
そしてもちろん元太の姿も。つい先ほどまで、さすがに悔しさを隠しきれなかった元太だが、今の元太の目に映るものは、阿笠同様幼かった頃の歩美の笑顔だった。
そして、ふと見ると、歩美の真白で長いベールのその先に2人の男の子の姿があらわれた。ベールを持って入場だ。
先に歩美が蘭にした頼みはこのことだったのだ。
一歩一歩バージンロードを進みながら、歩美は考えていた。
どうしてコナン君に会いたかったんだろう。
やはり打ち明けることのないままだった少女の頃の気持ちを伝えたかった?
いま、ベールを持つ2人の男の子を見たとき、とても懐かしいものを感じた。ただ懐かしくて。
あの頃の自分が、その気持ちが懐かしくて、懐かしくて…涙があふれた。
そして。・・・今、それがわかった。
あの頃、わたしはコナン君のためにとうとう泣かなかった。泣く機会をなくしたままだった。コナン君への恋は放ったらかしのまま、宙に浮いたままだったんだ。そう、だから、今。涙があふれる。この涙はコナン君のもの。
ふと見上げると、歩美を見つめる光彦の姿があった。歩美も今度はしっかりと光彦を見つめる。
(わたしはこの人と生きていく)
強い意思を持って、今。
(だから、わたしはもう泣かない。コナン君、さよなら…。)
その時、後ろで男の子2人がそろってなにかにつまずいて転んだ。その姿は愛らしく参列者の笑いを誘う。そして、顔を見合わせて「やっちゃった」とでもいうように苦笑する蘭と新一の姿が見えた。
式が終わった。教会の扉が開く。なかから歩美と光彦があらわれた。
ライスシャワー。
「おめでとう」の祝福の声。
歩美はおもむろにブーケを投げる。大空に向かって。歓声があがった。
ブーケの行方は…!
果たして、それは阿笠博士の手の中に収まった。「いやはや」頭をかきながらもまんざらでもない様子だ。
そして、その時。歩美は提無津川のほとりで幸せそうにたたずむ家族を見つけた。それは、どうやらじっとしていない男の子2人に手を焼いて、教会からちょっと離れた場所を選んで遊ばせている蘭と新一の家族の姿だった。
今、さわやかな風が吹き抜けていった。
歩美はその時、光彦の手をギュッと強くにぎりしめた。そして笑顔を見せた。
少女の頃の「恋」は、いま「思い出」という名の「宝物」へと変わった。
Fin