あの夏の海へ
その日の有希子は朝から憂鬱だった。
平均睡眠時間三時間。眺めのいい高級マンションに住んではいたが、そこからの景色など見る余裕もなく。いわゆるアイドル女優だから恋もご法度。自由なんてどこにもなかった。そんな日々に疲れていた。
もうすぐ付き人の女の子が迎えに来る時間だ。
起きてすぐにつけたテレビがそのまま流れている。そこに現われた夏の海を見て心が動いた。
「いいなぁ、海…」
日焼けなんてしちゃいけない。休みなんて取れるはずがない。だけど──。
付き人の女の子には悪いけど、有希子は重病で仕事に行けません。…と、そんな嘘を頼んでマンションを出た。
サングラスもかけて、それなりに変装したつもりでも、そういう格好が余計目立つなんてことは考えられなかった有希子は、タクシーの運転手に早速その正体を見破られていた。
「海へ…えっと、あのどこでもいいから、あ、いえ──」
先ほどテレビで聞いたばかりの地名をタクシー運転手に伝え、車は走り出した。
海岸線の国道をタクシーは走る。海がそばまで近づいて嬉しくなってサングラスを取った。
「うわぁ!!」
久しぶりに見る海。浮き足立って心が躍った。
砂浜が広がる海岸沿いで車を降りて、一人海へ向かった。
家族連れや恋人同士が海水浴を楽しんでいる。はしゃぐ姿、笑い合う姿、…自分にはなんて遠いトコロ。
「はぁ…」
すでにため息が出てくる。
「つまんないなぁ…」
そう。一人きりなんてつまらない。笑い合う相手がいないことがつまらない。
そして自分の日常を思う。恋人はおろか好きな人もいないなんて。仕事場とマンションの往復がすべてなんて。
「ああ、つまんないっ!!どっかに素敵な人、転がってないかなぁ!!」
大きく伸びをして、ついそう叫んでいた。言ってからハッとした。
振り返る人たちがひそひそと耳打ち合う姿を見てしまったからだ。
しまった!!と思ったが遅かった。有希子はそそくさとその海岸を退散する。人がいない場所を探してさまよいながら。
ちょうどそこへ、行き過ぎる自転車の青年の姿を見つけた。有希子を見てもさほど興味も示さず行ってしまう。インテリジェンスな顔立ちにドキッとしていた。
しばらく海の近くの公園の木陰でうたた寝をした。ずっと読みたいと思って持ってきた本は、読めなくても持っているだけでしあわせを感じる。ひととき、自由をのんびり楽しんでいた。──だが、それもひとときのことだと知った。
「有希ちゃんっ!!」
その声はプロダクションの社長だった。
「えっ?」
驚いて振り返ると、その後ろに続くのは芸能リポーターたち?カメラが目について、有希子は一目散に逃げ出した。
「もう、今日は一日自由にしてよ〜。わたしは重病人なのよぅ」
ついた嘘が通らなかったことに落胆しながら、自分勝手を棚に上げて腹が立ってきた。
…と言ってどこに逃げる?
わからないけど、とにかく走るだけよっ。
しばらく走ると息が上がった。その場に座り込みたくなるくらい。
そこへ──。先ほど見かけた自転車の青年が通りかかり、更に通り過ぎた。
「あっ、ちょ…」
呼びかけようと声を上げた瞬間止まって振り返ったから息が止まるかと思った。
「どうかした?」
「追われてるの。…助けて」
それはちょっとオーバーな台詞だった。
「ふうん」
青年は顎に指を当て考える仕草。
「後ろでよければどうぞ」
自転車の後ろを指差した。
「ありがとう」
有希子はこれ幸いと後ろに座った。
青年は特別笑みを洩らすでもなく、相変わらず有希子には興味のない様子だったから、有希子は不思議に思った。…わたしのこと知らないんだ。テレビなんて見ない人なのね、きっと。それはそれで好都合。
自転車走った。長い坂道を転がるようにジェットコースターのような速さで。仕方がないので青年にしがみついて、そうすると胸が高鳴る。
急カーブを曲がりきったところで自転車は止まった。
「ここで自転車を降りよう」
木の陰に自転車を隠して、そこから海へ続く岩場へ入った。遠くに波の音が聞こえる。
手を差し出され、有希子は一旦怯んだものの、すぐにその手を取った。はじめて会ったその青年を危険だと思わなかった。
「この先にとっておきの場所があるんだけど、行ってみる?」
そう聞かれて目を輝かせた。
「あのぅ…、わたし有希子って言います。藤峰有希子。あなたは?」
「僕?僕は工藤優作と言います」
「優作さん…?あの、この辺に住んでらっしゃるんですか?」
「あ、いえ。実はイギリスに留学中でね、久しぶりに帰国してこっちの別荘に来てるんです」
「別荘ですか?」
「ええ、あの丘の上の…。ここから少しだけ見えますよ。あの風見鶏のある…」
「まぁ、素敵っ」
「そこで今推理小説を書いてるんです」
「小説家志望なんですか?」
「志望って言うか、時々こっちの雑誌にも書いてますよ」
「あら、ごめんなさい。知らなかったわ」
そういうあなたもわたしを知らないんでしょうけど……喉元まで出そうになった言葉を止めた。このまま女優じゃないわたしを好きになってくれないかしら、と少女のように思う有希子だった。
歩きはじめてそろそろ一時間。行けども行けども海はない。波音は確かに聞こえるのに。
「あのぅ…、まだですか?」
「ちょっと遠いんですよ。だから、誰も来ない取って置きの場所なんですけどね」
「そんな大事な場所にどうして会ったばかりのわたしを連れて行ってくれるの?」
そう聞くとはたと優作は足を止めた。
「…そういえば、なんでだろう?」
考えつつまた歩き出した。
「多分…」
それは唐突だった。
「君が綺麗な人だったから、かな」
「はぁ?」
「綺麗だけど、どこかさびしそうで。声をかけずにはいられなくなった」
頬が熱くなってドキドキがとまらない。
「あ、でもこれってただのナンパですね。失礼」
あくまで紳士のように振る舞う優作にどんどん惹かれていく自分を感じていた。
そしてようやく、目的地。
「出来ればそこで目を閉じて」
そう言われて戸惑った。
「大丈夫です、何にもしませんから」
それを信じるわたしもどうかしてるけど、と思いながらも言うとおりに目を閉じた。
すると、ふわりと体が宙に浮かんだ、と思ったのはもちろん気のせいで、優作に抱き上げられていたのだ。
「な、何するの?」
バタバタとつい暴れてしまう。と、間もなく岩場に降ろされ目の前の光景と出会った。
海──。
眩い海。心地よい風。高い空。
やさしく包まれ抱きしめられている気がして。
「どう?」
と聞かれてもすぐに答えが見つからなかった。
「うん。すごく綺麗」
やっと言えた言葉は気持ちを表すには陳腐すぎて。
「ありがとう。来てよかったわ」
いつのまにか涙がこぼれていた。さりげなくハンカチを差し出されて優作を見た。
「いいだろ?ここ。…いつか恋人が出来たら連れて来たいと思ってたんだ」
それはあまりにもさりげなく。
「…そうよね、そんな場所よね。わたしもきっと好きな人と来たいと思うもの」
「好きな人、いるの?」
不意にそう聞いたわけを知りたいと思った。
「ううん」と首を横に振ってから「いなかったけど…好きになれそうな人なら」
言葉を一度切って優作を見た。
「好きになれそうな人なら見つけたところ…あなたは?」
「…いるよ、今、目の前にね」
「……初対面なのに」と笑う。
「こっちに戻って最初に君の笑顔を見た時──」
「え?それって…」
「テレビ」
「え?え?それじゃぁ…あなた知ってたのぉ!?」
「多分その時恋をした」
……そんな出会いを信じられるだろうか。奇跡とも言えるそんな出会い。
その日からずっと、今も隣にあなたがいる。あなたそっくりの生意気なガキまでね。
たまにはあの海へ帰りましょう。あの頃の気持ちのままのわたしとあなたで──。