「夜の東都タワー」
〜阿笠の思い出〜
「コンサート、良かったな」
「そうね。最高だったわ」
そんな新一と蘭のやりとりを遠目に見ながら、昔を懐かしむ影があった。阿笠博士、その人である。
「あの二人も、色んなことがあったが、こうしてデートを楽しむ姿は、ただの高校生カップルじゃな。」などと微笑ましく思いながら、その姿を見送るつもりだった。
「なぁ蘭、まだ時間もあるし、今からあそこに登らねーか」
新一のそんな台詞が、もちろん阿笠に届くわけはなかったが、その指差す方向を見て、二人が東都タワーに立ち寄ることを悟っていた。
ちょっとした悪戯心も手伝って、二人の後を追った。「タワーのてっぺんで、冷やかしてやるかな」などとほくそえみながら。
たった一人でタワーの展望台に降り立った。目の前に米花町の夜景がある。視界全てにネオンが広がっている。平日の夜のせいか、展望台にいる人もまばらだ。
ふと、この美しい夜景が、若き日のあの日の自分を呼び起こした。しばし、物思いにふける阿笠。
夜景をバックに一組のカップルの影が一つになるのを見て、思わず涙した。
「時が慰めてくれたはずじゃったのに…。」
はっと我に返ったときには、例の二人の姿はどこにもなかった。
「わしも帰るか…。」
博士は一人家路についた。
なんとも感傷的な夜を一人で迎えるのは辛い。酒屋でワインを求めて、一人酔いしれようかと思ったが、悪酔いしそうだ。
そこへ、先に帰ったはずの新一の姿を見つけた。
「どうせまた、蘭くんを送って別れを惜しんでいたんじゃろうな。若いってのは羨ましいことじゃ、まったく。」
そんなことを考えていると、ふと、そのしあわせをやっかみたくもなってきた。
「よう、新一。今帰りか?」
「あ、博士。」
なにやら照れくさそうにしている新一。
「蘭くんとのデートは楽しかったかな。」
「な、なんでそれを…。」
焦る新一を横目に、ほっほっほっと笑って肩をたたく。新一はというと、すべてを見られたような気分になって、顔を赤らめている。
「こりゃ、眠れん夜になりそうじゃのう…。」
意味ありげにそう言ったあと、「うちへ遊びに来んか?ホレ、こいつで乾杯じゃ。」と腕をつかんで、家へ招き入れた。
そして、二人で乾杯をした。
「まさに青春の時じゃのう…。」
阿笠は2杯目のワインですでに顔を真赤に染めていた。
「博士…オレ、そろそろ家で寝るから…。明日もあるし。」
そう言った新一の腕をつかんで離そうとしない阿笠。
「まぁ、そう言わんと、もうちょっと付き合え。」
いつになく絡むその姿に、一人暮しのさびしさを少し感じ、思わず聞いた。
「博士はなんで結婚しねーんだ?今からでも遅くねーだろ?」
少しの沈黙のあと、
「聞いてくれるか?新一…。」
そう言って話しはじめた。(しまった!)そう思ったがもう遅かった。年寄りの長話は、はじまってしまっていた。
「あれは、まだニューヨークでエンパイア・ステート・ビルが一番高かった頃じゃ。」
阿笠は、20才かそこらの頃の恋話を切々と語り出す。
学生だった阿笠は、学会に出るためにアメリカを訪れていた。ニューヨークは、その最初についでだからと観光で立ち寄った。そして、自由の女神の前で、その女性と出会った。ひたすらキャンバスに絵を描いている彼女を見つけ、その熱心な表情に一目で恋に落ちていた。
怪しまれずに声をかける術を考えて考えて、ようやく言った言葉は
「エンパイア・ステート・ビルはどこですか?」
だった。
彼女は、特に気に留めるふうもなく、絵を描きつづけている。
「エンパイア・ステート・ビルに連れて行ってもらえませんか?」
もう一度、言うと、今度は返事ひとつしないで歩きはじめた。振り返って「こっちよ。」とはじめて笑って見せた。
そして、ビルに到着し、彼女とともに展望台からニューヨークを見下ろした。
「ありがとう。」
と言う彼女。なんのことだろう?と思っていると、一度ここに来てみたかったのだと言う。ビンボーしてるから、ここに登るのさえ、贅沢なんだと。「タダで登れてラッキー。」と舌を出す。
そして、ここでもスケッチブックを広げる。いつか絵で食べて行くのが夢だと語る。
その日、ビルが閉まるまで、そこで彼女と過ごした。お互いに夢について大いに語って、意気投合していた。
が、明日はもう、ニューヨークを出なければならない。
予定では、学会での帰り、1日だけニューヨークに立ち寄れそうだった。
彼女にあてのない約束を取りつけた。その日にここで待つから、と。
そして、約束の日。駆けつけた時には、もうすでに日が暮れかかっていた。
展望台に着き、彼女を探したが、いない。ふと、先日いっしょにいた場所の手すりに、丸めた画用紙を見つけた。広げると、ニューヨークが緻密なまでにデッサンされてあり、「To.AGASA」という文字。彼女がこの場所に来ていた証拠がそこに…。
もう二度と会えないのか、と落胆しながら阿笠は日本へ帰っていった。
「その絵って今でも残ってるのか?」
「ああ、あれじゃよ。」
指差したその先に、額縁に収められたニューヨークのデッサンがあった。それは、ずっと昔からそこにあったのを新一も知っている。
「これが、その…。」
「そうじゃよ。」
「じゃ、博士はまだその女性を…?」
「それがな、この話にはまだ続きがあってな。」
ここで途切れたかのように思えた阿笠の恋話。
が、その数年後、阿笠は彼女の消息を知ることになる。
彼女は本当に画家として名をあげていた。新聞で彼女の記事を目にして、阿笠は懐かしさでいっぱいになっていた。更に、その彼女が来日するという。
「会いたい…。」
そう思ったが、すでに彼女は結婚している。プロデュースしている画廊のオーナーでもある夫もいっしょに来日するらしい。
「それでも会ってみたい。」
その気持ちを抑えきれずに、彼女の個展に出かけた。
華やかなドレスをまとった彼女は、あの頃の彼女とは違った。同時に、その瞳のさびしさを見て取っていた。
声をかけた。すでに一ファンでしかないと諦めてもいた。すると、「覚えている」と彼女は感激している。そして、ぜひ話がしたいと誘われ、ホテルのロビーで待ち合わせをした。
ただ、懐かしさだけで駆けつけ、ホテルのラウンジに上がり、二人ワインで乾杯する。そして、あの頃語った「夢」の話をした。
「君は夢を叶えてしまったね。そのパワーに感服するよ。」
「わたしは夢と引き換えに、大事なものを失ってしまった…。」
楽しいはずの再会なのに、彼女はそう言って涙を見せた。「夢のために夫を利用した、これがわたしの罰だから。」と愛のない結婚生活を語る。ここから逃げ出したいとさえも言う。
阿笠は、「やり直すことは簡単だ。」と笑って答えた。
若い二人が恋に落ちるのは、容易いことだった…。
そして、彼女の個展が終り、帰国の日が迫った。阿笠の覚悟は決まっていた。
「一緒に住もう。」と彼女に電話した。
待ち合わせをした。東都タワーに夜の9時。だけど、彼女は時間になってもこない。絶望していた。
その時、タワーの近くを救急車の音がこだましていた。
不慮の事故。彼女は一命を取りとめたが、手足の神経の麻痺が後遺症として一生ついてまわることとなった。
夢だった絵も、失うことに──。
そんな彼女を、彼女の夫は、かいがいしくずっと看護しつづけていると聞く。
夢を失い、愛を得た、とでもいうのか。皮肉なものだ。
「それでも、彼女が今、しあわせなら、それでいいんじゃ…。」
阿笠は涙をこぼした。
「博士…。まさか、ずっと彼女を…?」
「ははは、わしはロマンチストじゃからな。」
そう言うと、阿笠はワインの最後の1滴を飲み干した。
新一は、そのままそのソファに横になり朝を迎えていた。新聞配達のバイクの音に目を覚まし、郵便受けから新聞を取り出す。何気に目を通し、そこに見つけたのは…。
「博士!」
急いで、そこに寝ている阿笠を起こし、それを見せた。
「こ、これは!」
その壁にかかっているデッサンと同じ図柄の絵。緻密なまでのニューヨークの絵がそこに掲載されていた。
「彼女、描いてたんだよ。夢も捨ててなかったんだ。ホラ。この記事見てみろよ。」
不自由な体で、その手に筆をくくりつけて、絵を描く彼女の写真が載っている。
阿笠はボロボロと涙を流していた。
「そうか、そうか…。」
何かを納得するように、頷きながら。
新一は考えていた。
阿笠はきっと罪を感じていたのかもしれない。彼女と恋に落ちたこと、そのせいで彼女の夢を奪ったことに。そして、彼女の方も、そんな阿笠のことをずっと気にしていたのだ。だから、この絵を…。しあわせの証しに。
阿笠博士の東都タワーの夜は、今、ようやく明けたのかもしれない。
窓辺から射しこむ眩しすぎる朝日のなか、暖かいコーヒーで二人は乾杯した。
Fin