明日の君へ
彼女はよく風邪を引く。
「灰原さんは?」
「哀ちゃん、また風邪だって」
歩美ちゃんだけが許された「哀ちゃん」という呼び方、歩美ちゃんは知ってか知らずか自慢げにそこを強調した。
「ふうん、また…」
「気になるの?」
「え?ああ、だって彼女よく風邪で休みますよね。体弱いのかなぁって…」
「じゃあ、帰りにお見舞いに行ってみる?」
「お見舞い…ですか?」
「哀ちゃんの好きなものでも買ってさ…」
「…彼女の好きなものって?」
「え?…それは色々ホラ、あるじゃない?」
「色々って、例えば?」
「例えば…………?えとー、哀ちゃんの好きなもの好きなもの好きなもの…」
歩美ちゃんは考え込みはじめ、僕は取り残される。
「だいたい行っても無駄ですよね。いつだって風邪の時は会えないって博士に門前払いされるだけだし」
僕はちょっと怒っているのだろうか。つい歩美ちゃんに向かってキッとして言ってしまった。
「…そ、そうね、でもしょうがないよ、ホントに具合悪くて。ホラ、そういう時の顔って見られたくないものじゃない?女の子なんだし」
なんて歩美ちゃんは、焦った風に言って行ってしまった。
あーあ、歩美ちゃんに気を使わせるなんて、僕って僕って…。
それでも帰りに一人、博士の家の前に僕はいた。
やっぱり気になるものはなる。
どういうわけか、歩美ちゃんが「そういう時の顔って見られたくないものじゃない?」と言ったのが耳に残っていて、だから余計そういうときの顔が見たくてたまらなくなった。
いつでも灰原さんは、何かを内に秘めて、全く僕たちには本音でモノを言わない。時折コナンくんとだけ、何かわかりあったような態度が気に入らなかった。悲しい表情はしても、決して辛い表情を、ましてや涙なんか僕たちに──いや、僕に──見せたことなんてなかった。それが、気に食わないんだ。腹が立つんだ。…どうしてなんだろう?この苛立ちは一体?
博士の家の前で、僕はインターホンを押せずにいた。灰原さんの寝ている部屋はあれだろうかと、二階の窓を見上げるだけ。だけど、そこはベージュの厚手のカーテンが引かれたままになっていた。
顔を見せてください、灰原さん。
その窓から。
僕がここにいるのに気づいてください、灰原さん。
そして、笑った顔じゃなくていいから、
泣いててもいいから、本当の素顔を見せてください。
…これは僕の我侭ですか?
グッと拳を握った。と同時に冬の冷たい風が頬を掠めて行った。
こんなに寒くちゃ肌に感覚がなくなっていく。ああ、鼻水がたれているかもしれない。ああ、涙が出てきそうだ。
北風は実は僕の代わりにその窓のガラスを叩いてくれた。いや、だけど、「北風と太陽」って話でもあるように、そんな時わざわざ窓を開ける人なんていない。いないに決まってる。そんなあまのじゃく…………。
諦めて背を向けて行こうとしたとき。
ガチャ……。窓の開く音が聞こえた。
僕はアッと思って振り返った。
その窓に、あきらかに僕以上に驚いている灰原さんがいて、僕を見下ろしている。口元が「円谷君?」と言った気がした。
僕は叫んだ。
「灰原さーんっ!風邪、大丈夫ですかぁ!?」
彼女はただうんうんと頷いた。
「ゆっくり休んでくださいねーっ!」
そう言うとまた、うんと大きく頷いて小さく手を振った。
「それから!!」
僕がどうしても今日言いたかった言葉。それを届けたくて……
「お誕生日おめでとうございますっ!!」
その言葉を投げたとき、どうやら北風は僕の味方だったみたいで、その瞬間だけ止んだ気がした。辺りが静まり返った中で僕の言葉だけが響いていた。…だから、僕は逆に恥ずかしくて頬を染めた。
そして灰原さんは───。微動だにしないでじっと僕を見た。ただ、瞳に光るものがあった。
泣いてるんですか?
一言一言噛み締めるようにゆっくりと彼女の口元が動く。僕はそれを追う。
『 あ、り、が、と、う 』
その言葉が嬉しくて嬉しくて。僕は次第に笑顔になった。
「寒いからもう窓を閉めてくださいっ。明日は学校来れそうですか?みんな待ってますから!!」
そして一呼吸。
「僕も………待ってますからっ!!」
そう叫んで僕は踵を返し走り出した。
彼女の視線が僕を追っているかもしれないと思うとドキドキする。早く早く、走りきって彼女から見えないところに逃げ込みたい。と、急いで角を曲がって。そこで振り返ってみたけれど、もうすでに彼女の窓からは死角で。
そこまで来て僕はようやく息を整えた。ドキドキドキ。心臓が鳴っている。いつも以上に大きな音で。
多分、明日からはまたいつもの灰原さんなんだと思う。辛い表情なんて見せない涙も見せない強がっているいつもの彼女。だけど、僕だけが知っているあの涙を、僕は決して忘れない。多分、これだけは自信がある。コナンくんだってあんな彼女の涙は見ていないはずだと。
誕生日おめでとう、灰原さん。
きっと来年も再来年も。ずっとずっと未来までも、こうしてこの言葉を伝えられたら。そして出来るなら──、いえ、これ以上のことは今日のところは望みません。だけど、僕は知っています。明日は今日の続きだけれど、決して今日と同じだということはないんだってことを。
そして僕はまた走りはじめた。北風なんてものともせずに。
おしまい