罪 風丘はるな
*このお話は「旅立ち」の続編です。新一と蘭のしあわせを強く願っている方には読まないことをお勧めします。ホントにホントに読まないで下さい。
この町の一角はベージュの壁が基調だった。陽の光を浴び、どことなく薄汚れている。ほどよく古く、懐かしく・・・。
新一が渡米して1ヶ月が過ぎた。
この1ヶ月はホテル住まいから宮野志保の友人(同志)の家などを転々とし、仮住まいの日々だった。ようやく宮野から紹介されたアパ−トメントをアメリカでの住まいと決め、落ちついたところだ。
あれから蘭とは連絡を断ったままだ。どうしているだろう。電話もついたしこちらの住所くらい知らせてもいいだろうか?
受話器を取り、指が覚えたナンバーをプッシュする。そして久し振りに蘭の声を聞いた。
「新一?どうしてるの?元気なの?今どこにいるの?ちゃんと食べてるの?どうしてもっと早く連絡くれないの?」
こちらからかける言葉を失うくらいに蘭の責め句がつづいた。
「やっと住むとこも決まって落ちついたんだ。元気だよ。蘭は?」
「わたしは・・・。」
蘭の台詞が続かない。泣いている?きっと「さびしい」というコトバを必死に呑み込んでいるに違いない。そんな蘭を思うとなんと声をかけていいかわからなかった。
「そうだ、住所控えてくれ。ここの住所知らせておくよ、電話も・・・。」
その時、背後に気配を感じた。背後からの侵入者はおもむろに受話器を奪い取った。
「宮野!!」
侵入者は宮野志保だった。
「工藤君、ごめんなさいね・・・。」
そう言って宮野は静かに受話器を下ろした。
「どういうつもりだ?」
宮野の態度に腹を立てていた。
「あなた全然わかってないみたいね。彼女に自分の居所を伝えるなんて・・・。そうすることで彼女の身に危険が及ぶかもしれないのよ。あなた、何のために彼女と決別したの?」
言葉がなかった。
だが、どこまでも、自分のプライベートにまでも侵入してくる宮野に憤りを感じていた。
「ところで、ここの住み心地はどう?」
辺りを見まわしながら宮野が聞く。
「ああ、家具も食器もテレビも、何から何まで揃ってるんだから快適だよ。・・・ところで、人んち(家)に入るときはノックくらいしろよな!!」
まだ怒りは消えていない。
「あーら、何度もノックしたわよ。それよりドアに鍵くらいかけるのね。」
忌々しい言い草だった。
「おまえ、相変わらずかわいくねーな。そんなんじゃ男も寄りつかねーぞ!」
少し突っかかってみた。
「男なんて・・・。」
物憂げに窓の外を見る宮野。背中が泣いているように見えた。
「恋人となにかあったのか?」
触れてはいけないことかもしれない、と思いつつも触れてしまっていた。
「あなた、わたしの恋人になんて興味あるの?」
意外そうに志保は笑った。
「大丈夫よ・・・。あなたと違って待ってくれている人なんていないもの、もう・・・。」
「もう?」
意味ありげな言い方をする。
「聞きたい?・・・そうね、あなただったら全部話してもいいわ。・・・というよりあなたにこそ聞いてほしい・・・。」
「珍しく しおらしいじゃねーか?」
そして宮野は話しはじめた。
アメリカでの日々を。MITでの充実した日々。その中で彼女が恋に落ちたこと。
研究者の一人だった男と恋に落ち、ごく当たり前の恋人同士の関係になったこと、一緒に住むようになったこと。その部屋がここ─今の新一の住居─だということ。
が、ある時、彼が例の秘密結社と関わりがあることを知った。彼もその時は組織が「悪」とは思っていなかったらしい。それを知って彼は組織の監視の目を逃れた。つまり組織の裏切り者、ということだ。
その後、彼は組織の撲滅に命を掛け、地下組織を作り活動をはじめた。そんななか、有力な情報を得るため自ら敵のアジトに乗りこみ帰らぬ人に・・・。
宮野は彼の遺志を継ぎ地下組織のリーダーとして活動をはじめ、切り札として新一をアメリカへ呼び寄せたのだった。
「おまえもとことん運がないな・・・。なんて言ったらいいか・・・。」
やさしいなぐさめなど宮野は求めていない。そんなことはわかっていた。
「早速だけど、仕事の話よ。」
先ほどの過去の話にしても宮野は淡々としていた。彼女は感情を押し殺しているのだろうか?
「アメリカでも有数の資産家フォードを知っているかしら?」
「ああ、最近では日本にも進出してきてるしな。」
「どうやら組織の資金はここから流れているらしいわ。でも、まだ確かな証拠がつかめていない・・。」
「なるほど。」
「そこであなたに潜入して調査してきてほしいの。フォードのご子息の家庭教師として、ね。」
組織の懐に飛び込んで行くわけだ。新一の闘志が漲った。
数日後、新一はフォード家の家庭教師の面接に向かった。
どこからどう手に入れたのか有名政治家の推薦状まで宮野は用意していた。
「これで万事うまくいくわ。」
宮野の言う通り、新一は家庭教師としてフォード家へ赴任することが決まった。
フォード家へ赴任する前日。
夜更けまで新一は荷物をまとめていた。密かに忍ばせていた蘭の写真を見つめる。
「蘭・・・待っててくれ・・・。」
そう言って大事な写真を鞄の底に詰めようとしている時だった。
ノックの音がした。
ドアを開けると宮野がそこに立っていた。
「こんばんは。」
つぶやくように、小さな声で宮野は言った。
「いよいよ、明日ね・・・。」
「ああ。」
こんな夜中に突然どうしたのか。宮野の行動が読めないでいた。
ともかく部屋の中へ彼女を通す。
「こんな時、本当ならあの人からの一言が一番欲しいんでしょうね・・・。」
らしくないことを言う。
「あの人って蘭のことか?」
宮野は大きく頷く。
「わたし、今でも後悔してることがひとつだけあるの・・・。」
「後悔?」
「あの日、あの時、彼を見送ってあげられなかったこと・・。」
彼?恋人だった男のことらしい。宮野の目に涙があふれた。
「わたし、行ってほしくなかったから行かないでって何度も止めて、何か悪い予感がして、だから。・・・そしたら
口論になって、だけど彼を止められなくて・・・。」
いつも冷静な宮野がまとまらない台詞をたどたどしく口にしている。
「わたしたち、喧嘩したまま別れてしまった・・・。」
静かすぎる部屋。宮野の嗚咽が新一の心を揺さぶる。震える肩を見ると、いてもたってもいられなくなった。
彼女を抱きしめた。そして宮野はその胸でひとしきり泣いた。
「行かないで・・・。」
か細く、聞き逃しそうな小さな声で宮野は言った。
目の前にいるのは蘭ではなく宮野だとわかっているのに、なぜかあの決別の日、蘭が自分の胸で同じようにつぶやいたのを思い出していた。
いつも淡々として自分の弱みなど決して見せない宮野が、今、全てをぶつけてきていた。かつての恋人と自分とをダブらせて感傷にひたっているのか?
「工藤君・・・死なないで・・・。」
はっきりと新一の名前を呼んでいる宮野。そう言われてはじめて彼女の本当の気持ちに気づいた。そして、今抱きしめている細い肩がとても愛しく感じる。
思わず彼女のくちびるを奪っていた。彼女はビクリと体を離す。
新一は自分のしたことに自分で驚いていた。
「同情?なぐさめ?それともわたしを憐れんでいるの?」
宮野は動揺していた。
「悪かったな・・・。」
謝ることしかできなかった。確かに自分の求めている人は蘭以外にはいない。ほんの一瞬でも宮野に心が傾いた自分が情けない。
宮野を抱きしめていたその手をほどいた。そして二人は、二人掛けのソファにほんの少しの距離を置いて
腰掛けた。長い沈黙・・・。
すると、どうしたのだろう?急に心細くなってきた。先ほどまでの彼女のぬくもりが自分にとってもなぐさめになっていたことに気づいた。この空しさはなんだろう?さびしさ?
「ひとり」のさびしさを今、あらためて思い知っている。ただ、ぬくもりが、今、ほしい、と。
「宮野・・・、おまえがこんなにさびしがり屋とは知らなかったよ・・・。」
そう言うと新一は再び彼女を抱き寄せていた。
「類は友を呼ぶのかしら・・・。さびしがり屋さん。」
彼女はおどけたように新一を見上げ、今度は自分から新一のくちびるを奪っていた。
彼女もおそらく新一のさびしさを察していたのだろう。
「心までは奪えないもの・・・。そんなことは知っている。・・・・でも今夜だけは・・・。」
彼女の言葉を遮るように今度は新一がそのくちびるを奪う。
お互いを責めぎあいながら二人は快楽の世界へと押し流されていった。さびしさを埋めるため、それは激しく執拗に・・・。
はじめて触れる宮野の肌と、懐かしい蘭の肌とを比べてはいないか?
目を閉じ、彼女のあえぐ声に蘭を重ねてはいないか?
絶対に同じではない彼女と蘭の髪の香り。一瞬、我に返り、罪の意識を感じている。
お互い「さびしい」ことを言い訳に、罪を犯すこと。この「秘密」こそが罪・・・。
彼女のなかに埋もれ、何度も貫き、その悦びの声を聞くたびに罪の意識は遠のいていく。「してはいけない」と思えば思うほどに体に刺激が走る。もう引き戻すことはできなかった。
そして、新一がまさに昇りつめようとしたその瞬間──。
窓の隙間から突風が吹き荒れた。荷造り途中の鞄から一枚の写真が舞い上がり、そこに落ちた。
・・・蘭の写真。
凍りつく新一の心。宮野もその写真に気づいた。
二人はそのあと、昇りつめることもなく体を離した。
残ったものと言えば体を合わせる前よりもずっとずっと深く苦しい空虚。
言い訳などできるはずがない。
「蘭・・・・!」
心の中で叫んでいた。
宮野はその後、一言も言わないまま部屋を出ていった。
そんな彼女の素振りには、後悔など一切見えない。
眠れない夜が明け、旅立ちの朝を迎えた。
町はすべてがグレイに映って見えた。空も雲の太陽も、そして壁も道路も空気さえも。
「何度 旅立てば確かな明日が手に入るのだろう・・・。」
新一の心の中を映し出すように、世界もすべてグレイに染まっていた。
<end>