旅立ち 

 黒の組織を闇の葬り去って、新一が自分を取り戻してから五年が経過した。学生の傍らに続けている探偵稼業もそれなりに世間を賑わし、新一自身も探偵として事務所開きを考えなくもなかった。
 が、しかし──日本は平和だった。巷に事件はなくならないことを事実だが、探偵を必要とするほどの難事件に遭遇することはなくなった。少なくとも新一の周囲では。それだけ黒の組織が闇で操っていた事件が多すぎたと言うことなのだろう。
 平和なら、それに越したことはない。頭ではわかっていても新一は欲求を止められないでいた。そう。事件への欲求だ。それが難解であればあるほどに心そそられる、そういう事件を欲していた。

 蘭との関係は、ずっといい状態だと新一は思っている。離れていた「あの頃」があるから、二人はいかにお互いが大切かをよくわかっていた。
 大学卒業後、蘭は小学校の教師になっていた。このところ会うたびに「教師」としての顔を見せる蘭が、充実した日々を送っていることを物語るように輝いて見えた。
 それに引き換え俺は、と思わずにいられない。時に蘭の話しもうわの空で自分のことばかりを考えている。
 今、新一は大学に残り、関わった事件などをまとめつつ「犯罪心理学」を突き詰めている。確かに知ること、研究すること、物事を突き詰めていくことは楽しい。これも充実していると言えるのだろう。今後の犯罪の抑制や犯人への手がかりなど、実際に事件に関わった新一だからこそできるこれもひとつの役割なのだろう。だけど…、これが俺のやりたかったことなのかと自分に問いかける。答えは『違う』と出てしまう。
 蘭にはいつからか結婚の二文字を意識していたが、仕事に夢中な蘭を見ると言葉を飲み込んでしまう新一だった。今はまだ。もう少ししたら。──だけどそれが言い訳に過ぎないことを知っている。やはり問題は自分自身にあった。

 そんな折、彼女が帰ってきた。彼女、宮野志保は、五年前にアメリカに渡り、MITで研究者として名を上げていた。彼女の活躍振りは日本のマスコミでも取り上げられるほどだったので、新一は彼女のその後に心配するまでもなかった。
 めぼしい事件を検索するために阿笠邸にいた新一の前に、彼女は平然と現れた。
「あら、工藤くん、来てたのね」
 五年という時を感じさせない何気ない挨拶だった。
「よぉ、日本にはいつ?」
「昨夜、成田に着いてちょっと博士の顔、見に来たの。ま、ほかに帰るとこなんてないしね」
 新一の前のパソコンの画面に目をやりながら、志保は不敵に笑って見せた。
「その顔は平和な日本に退屈してるってとこかしら?」
 言い当てられて答えを失う。
「アメリカ、平和じゃないわよ…」
 志保に見据えられて思わず視線をそらす。
「あの時の黒の組織のボス、闇に葬ったはずのあいつが、仮にまだどこかで息を潜めているとしたら…?」
 新一は思わず息を呑む。
「そして、もしどこかで新たな秘密結社を作り上げ、あの時の野望を推し進めようと画策していたとしたら?」
「秘密結社?」
 度肝を抜かれるような話しだった。考えただけでもそら恐ろしい。
「おい、ちょっと待てよ、灰原。いや、宮野か、どうも慣れねーな。冗談にしちゃキツすぎるぜ」
「冗談?…………信じるか信じないかはあなた次第ね。だけど、もしそれが事実だとして。あなたに今、平穏な日々を手放すことなんてできるかしら…?」
 新一の脳裏に蘭の顔が浮かぶ。
「調査にあたった有能な私立探偵、某所の情報員、警察官、そして少しでも関わりを持った一般市民にいたるまで抹殺されてしまった。………そう。つまりわたしもかなり危険ね。だけど、わたしには守るべきものは何もないから。あなたと違って。大切な誰かが巻き添えを食わないとも言い切れないものね。」
 志保には何もかも見透かされていた。今、蘭と離れることなど考えられない。かと言って危険が及ぶかもしれない場所に連れていくことなどできるはずが……。
「確かなのか?」
 新一の鋭い目は事件のこととなると輝きを増す。志保はそんな新一に半ば呆れながらも、あの頃のままの新一を見出すとうれしくなってしまっている。
「いっしょに来る? 来なきゃ話しにならない。話せないわね」
 ピシャリと言い放ち、窓の外に目をやる志保。窓の外には隣の、工藤新一の自宅が見える。
(彼にこの平穏な場所を出ろと、今、わたしは言ってるのね。…酷だわね。わたしは、工藤くん、あなたを連れ出すために日本に帰ってきたのよ)
 新一は即座に「行く」とは言えなかった。あの「コナン」の日々がなければ、おそらく即答できたはずだ。

 蘭の涙はもう見たくはない。なのに。血が騒ぎ出す。俺、どうしようもねぇよな。
 秘密結社? 何なんだ? 今すぐなりふり構わず飛んで行きたい。
 じっとしていられない。そう思うと足は蘭の勤務先である帝丹小学校に向かってしまっていた。
 正門前に立ち中を伺う。時間は丁度下校の頃。パラパラと児童が前を通り過ぎていく。訝しげにこちらを眺めながら。
 校庭に蘭の姿を見つけた。ジャージ姿で児童に混ざってソフトボールをしているようだ。子供が投げ蘭がバットを振る。大きく空振り。
「へたくそー」
 思わずつぶやく。
 そしてもう一球。今度はピッチャーゴロ。
「あーあー。見てらんねぇ」
 呆れて見ていたが蘭はピッチャーゴロだとわかっていても走る、走る。汗が飛び散り砂が舞い上がる。そしてやはりアウト。なのに当の蘭は笑顔だった。次のバッターの少年に豪快に声援を送っている。
「行けーっ! かっとばせっ! 諦めちゃダメだよっ」
 諦めちゃダメだよ……。こだまする蘭の声。
「蘭…」
 小さくつぶやいてみる。
 新一は拳を握った。俺はバカだな、と思う。何も迷うことなんてない。俺は俺にできることを精一杯するだけだ。それ以外何があるって言うんだ? なぁ、蘭、そうだろ? それでいいんだよな?
 新一はそのまま踵を返した。
 
 その晩遅くに新一は蘭に電話をした。単刀直入に話す。
「俺、アメリカに行くよ」
 蘭の返事はない。
「数ヶ月になるか数年になるか、全然見当つかないんだ」
 さすがに命まで危ないとは言えない。蘭は黙ったままだ。しばらくの沈黙のあと、
「新一、今からそっち行っていい?」
 声が震えているのがわかる。
「お、おい。今何時だと思ってるんだ?」
「だって。だって、今会わないと……新一に……新一にもう二度と会えなくなるような気がして」
 蘭があの日のトロピカルランドを思い出していることが簡単に想像できた。
「待ってて、新一。今、行くから」
 そう言って蘭は電話を切った。新一は切れた電話をしばらく握ったまま立ち尽くした。

 頬を真っ赤に染め、息を切らせて新一の家の前に立つ蘭。一度そこで息を整えて、玄関のドアを開けた。
「新一…」
 しんとした玄関のロビーに蘭の声が響く。それを聞きつけ、奥の書斎から新一現れた。蘭はその顔を見ると、もう一度その名を呼び、あふれる涙を振り払いもせずにその胸に飛び込んでいく。
「バカ! 新一のバカっ!」
 胸を何度も強く叩いて。
「電話だけで行っちゃうつもりだったんでしょ?」
 蘭がぐしゃぐしゃになって泣いている。
「行かないで…」
 胸に顔をうずめながら、いつになく正直な気持ちをぶつける蘭。
「もうどこにも行かないって、もう離れないって、いつもそばにいるって………約束したじゃない!」
 新一は何も言えずにただなだめるように蘭の背中を抱いていた。
 ひとしきり泣いたあと、蘭は言う。
「でも、もう決めたんだね…」
 新一はただ頷く。言い訳なんてしない。そこには蘭にとって酷な事実しかないんだから。
「帰ってくるよね? ここにまた帰って……」
 心細げに見つめる蘭に嘘でも安心できる答えをあげたいと思う。
「あったりめーだろ!」
 無理して笑って蘭の額をコツンとたたく。
 ただ、今は、束の間でも蘭に安心を与えてやりたい。強く強く抱きしめるだけ。
 口火を切ったのは蘭だった。
「今日は帰らない。一緒にいる…」
 その瞳に吸い込まれるように新一は蘭をグッと引き寄せた。

 二人にとって長くて短い夜。執拗に求め合う。寂しさを埋めるため、現実から逃避するため。何よりも互いの心に互いを刻印するため。
 蘭を抱きながら新一は思う。
 あたかかくやわらかく心地いい蘭。こうしているといつも思う。愛したい守りたい、強くもっと強くと思うのに、結局俺のほうが蘭に包み込まれやさしさに浸り…より愛されている。甘えてるんだな、と思う。
 今日の決断にしたってそうだ。蘭に甘えている。勝手に蘭は俺を待っててくれるってそう決めつけている。確かな約束をずっと後回しにしてるのは俺なのに。

 新一の胸に顔を埋め、蘭はつぶやくように言った。
「新一の子どもが産みたいな…」
「え?」
「予感が、したから。今、確かに感じたから。新一と一緒になれた気がしたから。多分、きっと、ここに………」
 新一は動揺を隠せないでいた。もしもその予感が当たっていたら…。それでも俺は行くのかと自分に問いかける。…答えなんて出てるのに。それでも。
「わたしは大丈夫だよ。一人じゃない。いつもそばにいるって言ったじゃない? 何かあったら飛んできてくれるんでしょ?」
 微笑みながら涙を流す。まるで聖母のように。
「それにわたし、いざとなったら…新一、あなたを…わたしがあなたを守ってあげる」
 新一は言葉を見つけられなかった。
 ただ。愛してる愛してる愛してる。こんなにも…。
 強く抱きしめて、そしてキスして。二人はまた愛を確かめ合う。
 この一瞬を「永遠」に変えたかった。この夜を二人は多分一生忘れないだろう。

 新一は、そして旅立った。
「いつでもおまえのそばにいる。どんな離れてたって、おまえが呼べば飛んでくるって………」
 二人は新しい朝を見つめていた。
 信じてる。いつか、きっと…。
 

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