○喪失の午後  結城アキミ

 SIDE A 蘭


 窓から入る陽射しは暖かかったが、街路樹を揺らす風はまだまだ冬のものだ。

 今日は何しようかなあ。コナンを見送った蘭は、飲みさしのティーカップのぬくもりを手のひらに包んでぼんやりと窓の外を眺める。
 真冬でも元気いっぱいの(自称)少年探偵団は、春の気配がすればもちろんさらに活気づく。今日も朝から三人そろって「町内をパトロールしに」コナンを迎えに来た。
 当のコナンはといえば、行きたくないとさんざんごねていた。
 「あいつら、やることがこどもっぽいんだよ」。
 誘ってくれる友達がいるっていいことよ、と諭す蘭に、コナンは口を尖らせて呟いた。
 「僕、この休みにやんなきゃいけないこと、あるんだ」。
  自分だって子供のくせに、何言ってんだか。らしからぬ理屈っぽい顔で蘭に懇願するコナンを、蘭は笑って送り出した。
 三人組に引きずられていくコナンは、何度も何度も蘭の方を振り向いた。その顔がなんだか切なげで、蘭は少しどきんとした。

 あの子って、ときどき本当に「彼」に似てる。

 あるはずのない想像がまた頭をかすめたのをようやく振り切り、蘭は一人、食後の紅茶を楽しむことにしたのだ。

 せっかくの休日だというのに、こういう日に限って園子は用事が入っていて出かけられない。父の小五郎は、なにやら複雑な事件が起きたと警察に駆り出されていった。

 「今回のヤマはちょっとやっかいそうだ。コナンと一緒に先に寝てろ」なんて、ずいぶん偉そうなこと言っちゃってさ。

 そもそも蘭は、この数ヶ月、突然目覚しい活躍をし始めた父がどことなく疑わしくてしょうがない。
 お父さんがあんな切れものだなんて。だったら今までのこの事務所の開店休業状態は何だったっていうのよ。そんなにさっさと事件を解決できるなら、もっと早くからやって欲しかったわ。
 家計や事務所の運転資金に気苦労し通しだった日々を思うと、蘭は手放しで喜べない。

 それに。

 確信があるわけではない。ただいつも、奇妙な違和感がある。
 本当に、事件を解決しているのはお父さんなの?
 目の付け方、推理の隙の無さ。犯人の言い逃れを許さぬ毅然とした態度は、日頃のだらけきった父からは想像もつかない。

 あんなふうに事件の謎を鮮やかに解く人は、「彼」しかいないと思っていた。
 「彼」。工藤新一。
  数ヶ月前から姿を消した、蘭の幼なじみ。その冴え渡った推理力で日本中に知られ、平成のシャーロック・ホームズを自称する超高校生級の探偵。
 お調子者で、いいかっこしいで、三度の食事より難事件が大好き。いつもあたしには憎まれ口ばかりたたいて。
 …でも、危険なときには真っ先に駆けつけてくれた。守ってくれた。会えなくなってやっと、それに気付くなんて。
 思わず涙腺が緩みそうになっていた。
 いけない、いけない。こんなんじゃ、新一に笑われる。
 蘭はすっくと立ちあがり、朝食の食器が散乱しているテーブルをてきぱきと片づけ始めた。

 自分の部屋に引き揚げた蘭は、思い切って窓を開けた。寒気が肌を刺す。弱気な心に活を入れ、蘭は腕まくりをした。
 もうすぐ新学期が来る。この一年はあまりにも慌ただしくて、机の周囲は雑然としていた。校内行事の写真、夏の旅行で買った潮の匂いのする小物。ちゃんと整理してかわいいコーナーを作ろうと思っていたのに、出番がないままに季節はすっかり入れ替わってしまった。
 新学期からはきれいな部屋で心新たにすごそう。予定のない休日の過ごし方としては、悲しくなるほど地味だと溜息をつきつつ、蘭は机の上に散らばるカラフルなノートを拾い寄せはじめた。

 その写真に気付いたのは、机の脇の棚の整理があらかた片付いた頃だった。お気に入りの本に隠れるように、鮮やかなブルーの写真立てが出てきたのだ。
 そうだ、ここに置いたんだった。
 すっかり忘れていた。
 …いや、忘れたかったんだ。

 写真立てには腕を組む蘭と新一の姿があった。

 いたずら半分に腕を取ったら、新一ったらなんだかとても慌てて振りほどこうとしたっけ。
 その顔が少し赤くなったような気がして、蘭はわざと腕を引いて新一にぴったりくっついてみせた。新一が困った顔をするのが楽しかった。その瞬間を、すかさず園子が撮ってくれて。

 ほんの数カ月前のことなのに、蘭には気が遠くなるほど昔のことに思えた。まだ、高校の制服がしっくりなじんで間もないころ。ずっとこんなたわいもない日々が続いていくと信じていたころ。

 新一が姿を消して、もうどれくらいたつのだろう。あんなに気軽に顔を合わせていた幼なじみと断ち切られるように会えなくなって、蘭は始めのうち少し落ち着かなかった。

 心配?そう、心配した。事件のただ中に飛び込めば、危険なことなど気にも留めない。そんな新一の性格を知っていたから。
 時折かかる新一からの電話に出ると、蘭はいつもこんなことばかり口にした。「気をつけてね。そそっかしいんだから」「元気?ご飯ちゃんと食べてる?」そして、新一のいない学校での出来事をあれこれ伝えた。

 本当は、違うことを言いたいのに。

 何度目かの電話に出たとき、蘭は思わず自分の声がきつくなっていくことに驚いた。
 「な、何怒ってるんだよ」
 電話の向こうの新一のとまどいにはっとした。のど元まで出かかった言葉を、無意識に押し隠そうとしている自分がいた。

 「会いたい」
 「帰ってきて」
 「元気な姿を見せて」

 つかえがとれたように、言葉が心を埋め尽くす。

 それは言ってはいけないこと。新一を困らせること。けれど一度形を得た言葉は、行き場もなく心で膨れ上がる。
 とたんに涙がこぼれ落ちた。言葉が涙になって、出口を求めてあふれ出てくる。何も言えなくなって受話器を握りしめていたら、新一が心配そうに何度も問いかけてきた。
 「どうした?」「大丈夫か、蘭?」
 側にいたとき、それがどんなに大切なものか気づかずにいた声。いつもの軽い調子が消え、真剣なまなざしで蘭の顔をのぞき込んでいたあの日の新一と同じ声。

 新一が、好きだ。
 自分の気持ちがどんどん押さえきれなくなっていくのがわかる。

 なぜ、側にいるときに確かめておかなかったんだろう。ずっとこのままで、居心地のいい「幼なじみ」のままでいられると、過信していたんだろう。
 きまぐれな電話でしか新一を知ることができなくなってから、こんなにも心細く寂しい思いをしているのに。

 写真の中で新一は、困っていてテレていて。
 でも、笑っていた。いつもいつも自信たっぷりに、蘭の心配を吹き飛ばすように笑っていた新一。

 新一。  新一は、あたしのこと、好き?
 大事にしてくれるのは、古い友達だから?
 その声で、他のひとを慰めたりするの?
 その笑顔で、知らない人を元気づけたりするの?
 その手で、悲しんでいる誰かの肩を抱いたりするの?
 …そのくちびるで、誰か他のひとに触れたことがあるの?
 蘭は自分にそっと耳打ちしたときの、新一の吐息を思い出していた。耳たぶに、触れるか触れないかの、危うい距離に新一がいた。かすかに襟元から汗とは違う、くんと男っぽいにおいがしたことも、なぜか鮮明に覚えていた。

 身体が熱くなった。

 あたし、へん。

 蘭はぱたんと写真立てを倒した。
 …だから。気弱になるのがわかっていたから、二人の写真のことは忘れておこうとしていたのに。

 気分を替えよう。部屋にこもっているのはやめよう。蘭は窓を閉め、出かける準備をしようと思った。あてなどないが、公園でわずかな春の気配を探すのもいい。

 けれど、定期入れを探して机に手を伸ばして、蘭はまた写真立てを見てしまった。そのまま視線を反らそうとしても、一度気づいた心は新一の笑顔に執着している。
 写真立てを起こす手が震えてしまった。側のベッドに腰を下ろし、蘭はなんだか恐ろしいものを見るような気持ちで写真を見た。

 いつもの、見慣れた、制服姿の新一。その新一に、くったくなく腕を絡める自分。
 こんなに近くにいた、あたしたち。

 涙があふれてきた。
 寂しい。一人は悲しい。それがたとえただの幼なじみとしてでも、新一と一緒にいられる日々の方がいい。
 けれどもそれは、今はかなえられない望みだ。蘭は新一の居場所すら知らない。どうして戻ってこれないのか、そのわけもわからない。
 だから笑ってなくちゃいけないのに。強くなくちゃいけないのに。
 蘭は強い自分を守りたかった。だから、いつもはけして考えもしない虚構で、沈もうとする心を支えようとした。

 「どうしたんだよ、蘭」
 心の中で新一が言う。
 「また泣いてるのか?蘭は笑ってる方がいいって前にも言ったろ」
 わかってる。わかってるよ、新一。でも、どうにもならない日もあるの。身体になんにもつまってないみたい。外の冷たい風だけが、あたしの身体を埋めてるみたい。
 「そんなこと、ねえよ」
 新一の手が、蘭の頭をなでる。思いがけず大きなその手が、するっと蘭の頬を包む。
 「ほら、暖かい。冷たくなんかない。お前のほっぺた、いつまでも子どものときとおんなじに柔らかいなあ」

 本当はそこにいない新一の、手の感触を蘭は感じていた。それと意識せず、何度か触れた手のぬくもりを、自分よりもずっとがっしりとした腕を思い出していた。

 助けて、新一。いつもみたいにあたしを守って。一人で置いて行かないで。
「ばーろ。いつだって、側にいる。お前を守る。そう言ったろ?オレが嘘ついたこと、あるか」
 それはまだ会うことが日常だった日々で、頼りない電話の向こうで、新一が言ってくれた言葉の寄せ集め。自分勝手な願望が見せる幻影。
 蘭は自分で自分の肩を抱いた。ばかなこと、してる。自分でもわかっている。でも。
 蘭の心は限界だった。愚かな行為にすら頼りたくなるほど。妄想でもまぼろしでもいい、新一に会いたい。
 わかっていて、蘭はもう自分を止められなかった。

 肩を抱きしめる手は、あたしのものじゃない。新一の手。
 あたしを求めてくれる、新一の手。

 まぼろしの新一は、ベッドの傍らに腰を下ろし、震えている蘭を抱きしめる。あのときのシャツの感触、父とは違う新一のにおいがふいによみがえる。

 心臓が痛い。しめつけられるよう。

 蘭はまた、自分の身体が熱くなってきているのに気づいた。
 ゆっくりと手をすべらせ、首筋に触れる。そう、とあごの線に添わせる。細い指先が、吸いつくように白い喉を愛撫する。
 それは新一の指。蘭は男のものとは違う、しなやかでやわらかい指を、記憶の中の新一の指に置き換えていた。武骨ではないが力強い、これはあたしを、あたしの全てを知ろうとする新一の指。

 だんだん頭がぼんやりしてきた。身体の力が抜けてきて、蘭はがくんとベッドに倒れ掛かった。
 喉に触れていた指が、蘭のくちびるをかすめる。
 びくりと身体が震えた。初めは自分でもその反応を不思議に感じた蘭だが、今度はゆっくり確信的に、指をくちびるに添わせてみる。
 蘭、と新一の声が聞こえたような気がした。無意識のうちに、くちびるをなぞる指の動きが熱をおびたものになる。

 しんいちの、くちびるが、あたしにふれている。
 しんいちの、くちびるが、あたしをもとめている。

「しん、いち…」
 呼ぶ声が途切れる。
 執拗にくちびるをさまよっていた指は、しだいにのど元へと降りていった。そしてブラウスの襟をなぞるように行き来すると、しばらくためらった後、蘭の身体の丸みをすべっていく。

 息苦しい。それとわかるほど、胸が高鳴る。

 その胸を、ブラウスのはずしたボタンのすき間から忍び込んだ手がそっと包んだ。最初はためらいがちに、やがて強く、蘭の胸のふくらみをもみしだく。初めて感じるもやもやとした欲求が、身体の奥から全身に広がり、それにつれて手の動きは大胆になっていった。
 気がつくと、指は直接、蘭の胸に触れていた。今はもう存在を主張し始めた敏感な先端を、ころがすようにもてあそんでいる。
 こんなことしちゃ、だめ。残っていたささやかな理性が、みだらな指を止めようとする。が。
 これは新一なの。新一があたしを知りたいって言ってるの。
 知って欲しい、あたしを。あなたの知らない、幼なじみの小さな女の子じゃないあたしを。

 熱い彼の指は、蘭の身体をくまなく知りつくそうとした。蘭の望みをかなえるように。
 胸を愛撫する手は、やわらかな唇としっとりとぬれた舌に変わり、蘭の白く隆起した肌を味わい淡く色づいた乳首にからみついた。
 ああ、と自分の口から漏れる声が、信じられないほどいやらしく響く。
 こんなの、あたしじゃない。
 否定する自分を打ち消す自分がいる。
 違う、これもあたしなの。新一が見つけ出した、もう一人のあたし。新一だけが見つけることのできる、新しいあたし。

 だから。

 蘭はもう、快楽を恐れなかった。最後まで指が進入をためらっていた、あの場所へ。自分の身体でありながら、自分では確かめたことのないところに。
 新一の手はやさしく蘭の内股を滑り、一瞬そこに触れた。
 とたんに強い快感が全身に走り、熱いうるおいがあふれだす。その激しさに驚いたようにいったん太股まで引き返した指が、ゆっくりとその中心に進んできた。濡れそぼるひだをなで、大きくふくらんだつぼみにそっと触れる。
 蘭は小さく悲鳴をあげた。苦しい。胸がしめあげられる。
 それでも指は快感を追い求め、容赦なく熱いぬくみを攻めたてた。

 蘭、と再び新一が笑いかけてくれた気がした。

 「新一!」
 声を上げて呼んだ。苦しい、苦しい、息が止まりそう。助けて、抱いて、あたしを抱きしめてよ、新一!!

 ふいに胸を押しつぶす苦しさから開放され、至福のときが訪れた。淡く白い光が視界をいっぱいに埋める。身体が宙に浮いているよう。暖かな何かに包まれているよう。

 あたしをうけとめているのは、だれ?

 もどかしいほどに感覚が遠い。それでも蘭は、おぼろげな人影を見間違えはしなかった。あんなに望んでいた彼が、今ここにいる。
 それが新一だと、蘭が確信しようとした瞬間、とりまく空気は一瞬にして冷たい早春の午後のものに変わった。

 「うっ…」
 冷たくて、何もなかった。日の傾きかけた蘭の部屋には人気などなく、新一のほほ笑みは遠い写真立ての中にしかなかった。
 「くぅ…。うっ、うっ…」
 ぱたぱたとシーツに丸いしみができていく。押し殺した忍び泣きが自分のものだと気づくまで、しばらくかかった。
 快感の頂点で、蘭は確かに新一の腕を感じた。息遣いを感じた。新一が誰よりも自分のそばにいると信じた。
 だから、覚めたときの喪失感は堪え難かった。自分がひとりぼっちなのだと、改めて思い知らされた気がした。
 「新一、しんいちぃ…」
 泣けばよけいにつらくなるから、と自分を戒め続けてきたのに、今の蘭はただ新一の名を呼んで泣くことしかできなかった。

 

 SIDE B 新一、あるいはコナン


 ようやく少年探偵団から開放されたコナンは、とぼとぼと足取り重く毛利探偵事務所を目指していた。

 家を出るときに蘭に言ったことは嘘ではなかった。工藤の家で少し整理したい資料があったのだ。

 いつまでも、こんな身体でいるわけにはいかないんだからな。

 それは、気を抜くとそこそこに快適ですらある小学生生活に逃げようとする自分への戒めでもある。
 だが、秘密の一仕事をするには、今日はもう時間がない。いったん推理に没頭し始めると、コナンは時間の経つのを忘れてしまいがちだ。それは「新一」であったときから変わらない。
 今から家に帰って資料を広げ、あれこれ考えを巡らせていればあっという間に夜になる。そうなれば夕食の時間に遅れてしまうだろう。

 蘭は一人じゃ絶対に夕食を食べないんだ。

 いつかもうっかり帰りが遅れ、蘭にひどく叱られた。小学生としてはあまりに遅い時間だったから、しかたのないことだとコナンは思った。
 それよりも気になったのは、テーブルの上に並べられた料理だった。蘭も部活でお腹が空いているだろうに、どれ一つとして手をつけられていなかった。ひとしきり注意を述べ立てた後は何もなかったかのように、蘭は「すぐに夕食暖め直すからね」と笑顔でキッチンに入っていったが。

 気丈にふるまいながら、内心はひどくさびしがり屋の蘭にとっくに気づいていたはずなのに、一人夕食の席で待たせてしまったことをコナンは悔いた。だから、夕食には遅れられない。
 自分を、「工藤新一」を取り戻す時間を犠牲にしたとしても。

 コナンは玄関でいつものように無邪気に、「ただいまぁ」と声をかけた。
 だがいつもならすぐに顔を出す蘭が、今日は出てこない。出かけているのかと思ったが、鍵もかけていないのはおかしい。

 何かあったのか。具合でも悪いのか。

 急に心配になったコナンは、階段を駆け上がった。家はしんとしていて、人の気配はしない。物が荒らされた跡はない。コナンは自分のいやな予感がはずれていることを祈りながら二階の廊下を走った。
 蘭の部屋の戸は閉じられていた。
 「蘭ねーちゃん?」
 返事はない。普段なら蘭のプライバシーを気づかって、許しもなく部屋に入ることはないコナンだが、今は不安な気持ちが先に立ち、思わずドアノブに手をかけた。

 「だめ!入ってこないで!!」
 ドアを開けた途端、鋭い蘭の声が響いた。それがよけいにコナンの不安を加速させる。
 「どうした、蘭!」
 部屋に飛び込み、蘭の姿を探した。カーテンを閉ざした室内は、早春の早い日暮れで薄暗かったが、ベッドで身を起こす蘭のシルエットは目に入る。

 暗さに目がなれていない。それでもコナンには、蘭のありさまが尋常ではないのがすぐわかる。乱れた髪。はだけられたブラウス。ぼう然と自分を見る蘭は、遠目にも赤く泣きはらした眼をしていた。
 「何があったんだ!?」
 思わずコナンはベッドに駆け登っていた。悲しくなるほど小さな子どもの手で、それでも力いっぱい蘭の肩をつかみ揺すぶった。
 「なんでも…」
 蘭は明らかに狼狽していた。瞳が落ち着かなげにあちこちをさまよう。
 「なんでもないの、コナンくん。…あの。ちょっと熱っぽくて。風邪でも引いたかなって」
 一生懸命不自然に言葉をつなごうとする。
 「心配しないで。本当になんでもないの」
 コナンはそんな蘭をじっと見つめた。自分を安心させるための少しの嘘も見逃すまいと。
 「本当に?」
 「本当よ」
 蘭の表情におびえや恐怖がなく、むしろわずかながら笑みが戻っているのが見えてコナンはほっとした。そして急に、悲しさや悔しさがわきあがってきて思わず蘭を強く抱きしめていた。
 「コナンくん…?」

 「何かあったら」

 自分の腕は蘭の身体を包むこともできない。届かない両の手が、コナンとしての身体の非力さを思い知らせる。
 「蘭に何かあったら、俺が許さない。何だって、誰だって許さない」
 何もできやしないのだと、誰よりも自分がわかっていた。ベッドの上に上がって、ようやく蘭の顔と同じ高さになる今の自分。明らかに泣いていた蘭に、本当のことも言ってもらえない子どもの自分。
 それでもコナンは本気で思ったのだ。この身体なんかくれてやる。蘭を泣かせるものを滅ぼすことができるなら、俺の身体なんか惜しくない。「工藤新一」であれ、「江戸川コナン」であれ、俺はいつだってそうしてやる。

 ふいにコナンは蘭から抱きしめられた。驚いた。力を込めていた腕が緩んだ瞬間、蘭はコナンの顔にそっと手を触れて自分の方を向かせた。

 きれいだな。

 ばかみたいにそう思った。普段の蘭だって十分かわいい。ふとした表情にはっとさせられることはよくある。
 だが、今日の蘭はきれいだった。まだ涙をふくんだまつげがはかなげで、けれども自分を見つめている瞳はぞっとするほど艶っぽい。
 そんな蘭に気を取られていたから、コナンは次に起きたことが一瞬理解できなかった。

 くちびるが、あたたかい。
 ぬらりと濡れた、柔らかい感触。

 蘭とキスしているのだと気づいたのは、無意識に自分がそのキスに応え始めてからだ。子どもとふざけてする軽いものではない。愛撫するような唇の動きに、コナンは「コナン」であることを忘れた。おずおずと触れてくる舌に、そっと舌を絡めようとした。

 その瞬間に、蘭はびくりと身体を引いた。間近にある顔が見る見るうちに赤くなっていく。
 「ごめん、ごめんなさい」
 まだぼう然としているコナンを、蘭は再び抱きしめた。けれどもそれは、さっきとは違う。子どもをいたわるやさしい抱き方だ。
 「ごめんね。びっくりしたね。こんなことするつもり、なかったのに」

 コナンはどうしていいか、わからなかった。「コナン」に戻って蘭に何か声をかけるべきか迷った。
 そのときになって、コナンは初めて気づいた。自分を抱く蘭の胸がいつになく柔らかいことに。何もつけていない、裸の胸だということに。
 薄やみの中でブラウスの間からのぞいていた白い肌が、今になって鮮明によみがえってきた。陰りをおびて隆起したふくらみの先に、淡い紅みが見えたのさえ思い出してしまった。

 まずい。ふらちな欲望がわき起こってくる。密着しているみずみずしい蘭の肌に触れたい。先程のキスのせいで、気づくと欲望は急激に加速する。身体は子どもだってのに、気持ちだけは高校生の「工藤新一」のままだ。このアンバランスがいまいましい。

 蘭に抱きとめられたまま、コナンは葛藤していた。どうしようもない。今の俺は「工藤新一」じゃない。小学生の江戸川コナンだ。仮に触れ合い求めあうことができても、コナンの身体じゃその先には行き着けやしない。わかっているのに。

 そんなコナンの気持ちを知るはずもない蘭は、なぜかコナンをもう一度強く抱いた。

 「ごめんね。…コナンくん、新一みたいだった」

 はっと身を固くするコナンにかまわず、蘭は続けた。
 「おかしい?おかしいよね。でも、そう思ったの。新一がそばにいるみたいだった…」

 蘭の身体が少し震えた。耳元で「くぅ…」と小さな嗚咽が聞こえた。
 コナンはぎゅっと目をつむり、できるだけ腕を伸ばして蘭を抱きしめた。こんな俺でも蘭をなぐさめることができるなら。小さな身体で精いっぱいの力を込めた。涙を止めることはできなくても、その涙を受けとめることができるなら。

 「…ありがとう…」

 聞こえるか聞こえないかの、かすかなつぶやきだった。柔らかく暖かな蘭の身体によりそい、コナンはやり場のない切なさに苛まれた。
 閉じられたカーテンの向こうは、かすかに赤みを残した藍色の夕空になっていた。

 翌朝。
 何事もなかったかのようにふるまっていた蘭は、小学校と高校との分かれ道で、コナンを呼びとめた。他に人がいないのを確かめるようにあたりを見回すと、そっと引き寄せたコナンに、蘭は耳打ちした。

 「昨日のこと、内緒だよ」

 その頬が赤らむのを、コナンは見逃さなかった。
 「誰にも?」
 「誰にも。お父さんとお母さんにも」

 「…新一にいちゃんにも?」

 少しいじわるだとわかっていて、コナンは聞いた。蘭の顔はさらに赤くなる。
 「新一には絶対、絶対ないしょ!」
 「ふーん」
 あどけない子どもの顔で、ことさら不思議そうに蘭を見上げながら、コナンは「わかった」と言った。そして元気そうに高校へ駆けていく蘭を見送る。

 今はこの、ささやかな秘密の共有で十分だ。自分の半分の身長しかないこんな俺に、弱い気持ちの片りんを預けてくれただけで。それで蘭の心のどれくらいが救われるのか、わかりはしないけれど。

 コナンは大きすぎるランドセルを揺すりあげた。そしていつかこの、いつわりの日々を終わらせるための一歩を踏み出した。

Fin


*遠野さんの『午後の誘惑』を読んで、コナンと蘭のままでもこんな話が書けるのか!と眼から鱗になりました。それであたしもチャレンジ!してみたのですが。
こういう話を書いたことなかったので難しかったです。少しでも『コナンと蘭の話だなあ』と思っていただければうれしいです。(結城アキミ)

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