○喪失の午後 結城アキミ |
SIDE A 蘭 |
窓から入る陽射しは暖かかったが、街路樹を揺らす風はまだまだ冬のものだ。 今日は何しようかなあ。コナンを見送った蘭は、飲みさしのティーカップのぬくもりを手のひらに包んでぼんやりと窓の外を眺める。 あの子って、ときどき本当に「彼」に似てる。 あるはずのない想像がまた頭をかすめたのをようやく振り切り、蘭は一人、食後の紅茶を楽しむことにしたのだ。 せっかくの休日だというのに、こういう日に限って園子は用事が入っていて出かけられない。父の小五郎は、なにやら複雑な事件が起きたと警察に駆り出されていった。 「今回のヤマはちょっとやっかいそうだ。コナンと一緒に先に寝てろ」なんて、ずいぶん偉そうなこと言っちゃってさ。 そもそも蘭は、この数ヶ月、突然目覚しい活躍をし始めた父がどことなく疑わしくてしょうがない。 それに。 確信があるわけではない。ただいつも、奇妙な違和感がある。 あんなふうに事件の謎を鮮やかに解く人は、「彼」しかいないと思っていた。 自分の部屋に引き揚げた蘭は、思い切って窓を開けた。寒気が肌を刺す。弱気な心に活を入れ、蘭は腕まくりをした。 その写真に気付いたのは、机の脇の棚の整理があらかた片付いた頃だった。お気に入りの本に隠れるように、鮮やかなブルーの写真立てが出てきたのだ。 写真立てには腕を組む蘭と新一の姿があった。 いたずら半分に腕を取ったら、新一ったらなんだかとても慌てて振りほどこうとしたっけ。 ほんの数カ月前のことなのに、蘭には気が遠くなるほど昔のことに思えた。まだ、高校の制服がしっくりなじんで間もないころ。ずっとこんなたわいもない日々が続いていくと信じていたころ。 新一が姿を消して、もうどれくらいたつのだろう。あんなに気軽に顔を合わせていた幼なじみと断ち切られるように会えなくなって、蘭は始めのうち少し落ち着かなかった。 心配?そう、心配した。事件のただ中に飛び込めば、危険なことなど気にも留めない。そんな新一の性格を知っていたから。 本当は、違うことを言いたいのに。 何度目かの電話に出たとき、蘭は思わず自分の声がきつくなっていくことに驚いた。 「会いたい」 つかえがとれたように、言葉が心を埋め尽くす。 それは言ってはいけないこと。新一を困らせること。けれど一度形を得た言葉は、行き場もなく心で膨れ上がる。 新一が、好きだ。 なぜ、側にいるときに確かめておかなかったんだろう。ずっとこのままで、居心地のいい「幼なじみ」のままでいられると、過信していたんだろう。 写真の中で新一は、困っていてテレていて。 新一。
新一は、あたしのこと、好き? 身体が熱くなった。 あたし、へん。 蘭はぱたんと写真立てを倒した。 気分を替えよう。部屋にこもっているのはやめよう。蘭は窓を閉め、出かける準備をしようと思った。あてなどないが、公園でわずかな春の気配を探すのもいい。 けれど、定期入れを探して机に手を伸ばして、蘭はまた写真立てを見てしまった。そのまま視線を反らそうとしても、一度気づいた心は新一の笑顔に執着している。 いつもの、見慣れた、制服姿の新一。その新一に、くったくなく腕を絡める自分。 涙があふれてきた。 「どうしたんだよ、蘭」 本当はそこにいない新一の、手の感触を蘭は感じていた。それと意識せず、何度か触れた手のぬくもりを、自分よりもずっとがっしりとした腕を思い出していた。 助けて、新一。いつもみたいにあたしを守って。一人で置いて行かないで。 肩を抱きしめる手は、あたしのものじゃない。新一の手。 まぼろしの新一は、ベッドの傍らに腰を下ろし、震えている蘭を抱きしめる。あのときのシャツの感触、父とは違う新一のにおいがふいによみがえる。 心臓が痛い。しめつけられるよう。 蘭はまた、自分の身体が熱くなってきているのに気づいた。 だんだん頭がぼんやりしてきた。身体の力が抜けてきて、蘭はがくんとベッドに倒れ掛かった。 しんいちの、くちびるが、あたしにふれている。 「しん、いち…」 息苦しい。それとわかるほど、胸が高鳴る。 その胸を、ブラウスのはずしたボタンのすき間から忍び込んだ手がそっと包んだ。最初はためらいがちに、やがて強く、蘭の胸のふくらみをもみしだく。初めて感じるもやもやとした欲求が、身体の奥から全身に広がり、それにつれて手の動きは大胆になっていった。 熱い彼の指は、蘭の身体をくまなく知りつくそうとした。蘭の望みをかなえるように。 だから。 蘭はもう、快楽を恐れなかった。最後まで指が進入をためらっていた、あの場所へ。自分の身体でありながら、自分では確かめたことのないところに。 蘭、と再び新一が笑いかけてくれた気がした。 「新一!」 ふいに胸を押しつぶす苦しさから開放され、至福のときが訪れた。淡く白い光が視界をいっぱいに埋める。身体が宙に浮いているよう。暖かな何かに包まれているよう。 あたしをうけとめているのは、だれ? もどかしいほどに感覚が遠い。それでも蘭は、おぼろげな人影を見間違えはしなかった。あんなに望んでいた彼が、今ここにいる。 「うっ…」 |
SIDE B 新一、あるいはコナン |
ようやく少年探偵団から開放されたコナンは、とぼとぼと足取り重く毛利探偵事務所を目指していた。 家を出るときに蘭に言ったことは嘘ではなかった。工藤の家で少し整理したい資料があったのだ。 いつまでも、こんな身体でいるわけにはいかないんだからな。 それは、気を抜くとそこそこに快適ですらある小学生生活に逃げようとする自分への戒めでもある。 蘭は一人じゃ絶対に夕食を食べないんだ。 いつかもうっかり帰りが遅れ、蘭にひどく叱られた。小学生としてはあまりに遅い時間だったから、しかたのないことだとコナンは思った。 気丈にふるまいながら、内心はひどくさびしがり屋の蘭にとっくに気づいていたはずなのに、一人夕食の席で待たせてしまったことをコナンは悔いた。だから、夕食には遅れられない。 コナンは玄関でいつものように無邪気に、「ただいまぁ」と声をかけた。 何かあったのか。具合でも悪いのか。 急に心配になったコナンは、階段を駆け上がった。家はしんとしていて、人の気配はしない。物が荒らされた跡はない。コナンは自分のいやな予感がはずれていることを祈りながら二階の廊下を走った。 「だめ!入ってこないで!!」 暗さに目がなれていない。それでもコナンには、蘭のありさまが尋常ではないのがすぐわかる。乱れた髪。はだけられたブラウス。ぼう然と自分を見る蘭は、遠目にも赤く泣きはらした眼をしていた。 「何かあったら」 自分の腕は蘭の身体を包むこともできない。届かない両の手が、コナンとしての身体の非力さを思い知らせる。 ふいにコナンは蘭から抱きしめられた。驚いた。力を込めていた腕が緩んだ瞬間、蘭はコナンの顔にそっと手を触れて自分の方を向かせた。 きれいだな。 ばかみたいにそう思った。普段の蘭だって十分かわいい。ふとした表情にはっとさせられることはよくある。 くちびるが、あたたかい。 蘭とキスしているのだと気づいたのは、無意識に自分がそのキスに応え始めてからだ。子どもとふざけてする軽いものではない。愛撫するような唇の動きに、コナンは「コナン」であることを忘れた。おずおずと触れてくる舌に、そっと舌を絡めようとした。 その瞬間に、蘭はびくりと身体を引いた。間近にある顔が見る見るうちに赤くなっていく。 コナンはどうしていいか、わからなかった。「コナン」に戻って蘭に何か声をかけるべきか迷った。 まずい。ふらちな欲望がわき起こってくる。密着しているみずみずしい蘭の肌に触れたい。先程のキスのせいで、気づくと欲望は急激に加速する。身体は子どもだってのに、気持ちだけは高校生の「工藤新一」のままだ。このアンバランスがいまいましい。 蘭に抱きとめられたまま、コナンは葛藤していた。どうしようもない。今の俺は「工藤新一」じゃない。小学生の江戸川コナンだ。仮に触れ合い求めあうことができても、コナンの身体じゃその先には行き着けやしない。わかっているのに。 そんなコナンの気持ちを知るはずもない蘭は、なぜかコナンをもう一度強く抱いた。 「ごめんね。…コナンくん、新一みたいだった」 はっと身を固くするコナンにかまわず、蘭は続けた。 蘭の身体が少し震えた。耳元で「くぅ…」と小さな嗚咽が聞こえた。 「…ありがとう…」 聞こえるか聞こえないかの、かすかなつぶやきだった。柔らかく暖かな蘭の身体によりそい、コナンはやり場のない切なさに苛まれた。 翌朝。 「昨日のこと、内緒だよ」 その頬が赤らむのを、コナンは見逃さなかった。 「…新一にいちゃんにも?」 少しいじわるだとわかっていて、コナンは聞いた。蘭の顔はさらに赤くなる。 今はこの、ささやかな秘密の共有で十分だ。自分の半分の身長しかないこんな俺に、弱い気持ちの片りんを預けてくれただけで。それで蘭の心のどれくらいが救われるのか、わかりはしないけれど。 コナンは大きすぎるランドセルを揺すりあげた。そしていつかこの、いつわりの日々を終わらせるための一歩を踏み出した。 Fin *遠野さんの『午後の誘惑』を読んで、コナンと蘭のままでもこんな話が書けるのか!と眼から鱗になりました。それであたしもチャレンジ!してみたのですが。 |