第4話 **追想**

 こんな話、どうして今しようとしてるの?思い出したくなくて、いつも目をそらしていたのに。

 腕枕が温かい。智明のやさしさに甘えてる。そんななか、あの海での出来事を思い出す。聞いてもらったのは新一への思い。あの時、この人に奪われていたら…、また違う自分がいたかもしれないなんて。今更…。だけど、今、こうしてここにいるのは、確実に、傷ついたあの日があったから。少しは前向きに考えられるようになった?なんて自分に問い掛ける。

 アメリカに発ったのは、夏の暑い陽射しのなかだった。教師の蘭には、海外で新一を探すための時間は夏休みのこのとき以外はなかった。
 あてがあるわけではない。とりあえず向かった先は、新一の両親が住むロス。
 が、連絡なしでいきなり訪ねてみると、そこにはすでに別の住人がいた。近所の知る人に聞くと、数ヶ月前にスイスに移転したと聞かされた。
「どうしよう…。」
 ひとつため息。ここまで来て、計画性のない自分に呆れ果てる。
 そして、メモ帳のもうひとつの訪ね先を見つめた。…MIT。

 新一の口からその人の名を聞いたのは、別れの夜だった。
「アメリカの旧友の宮野って奴からの依頼なんだ。・・・ちょっと世話になってな。かなり危険を伴うらしいが、オレには放っておけないんだ。」
 そんな言い方をした。
 新一は知らない。蘭が宮野志保の存在を知っていたことを。
 新一がコナンの姿から自分を取り戻した後、以前とは違う新一に蘭は気づいた。翳りがある。何かを秘めている。
 それが、新一が戻ると同時にいなくなった、阿笠博士のところにいた女の子…灰原哀…だと、思い至った。
「あの子、どこに行ったの?」
 博士を問いただすと、
「彼女はアメリカに住む両親のもとに帰っていったんじゃ。」
 と答えた。ウソ、ついてる、と直感した。カマをかけてみた。
「アメリカ?あれ?新一と言ってること違うわ…。」
 そう言うと、態度が一変した。
「なに?新一は哀くんの居場所を知っとるのか!?」
 言った後に「あー、いやその…」と口をつぐんだ。

 新一に事件のことは、おおまかには聞いていた。帰れなかった理由として。ただ、そのなかに「灰原哀」という名前は出てこなかった。だけど蘭には、何か関連があると思えてならなかった。
「博士、教えて…。何があったの?彼女って灰原さんって…突然いなくなったのって何故?…まさか新一がコナンくんに姿を変えてたように、彼女も…?」
「蘭くん、新一はいったいどこまで話したんじゃ?哀くんの話は全く、…か?」
 こくんと頷く。
 博士は観念したように全てを話した。
「新一を庇って大怪我したんじゃよ。哀くんは。しばらくはここで療養していたんじゃが、ある日忽然と姿を消してな。例の薬だけを残して。」
「薬?」
「そう。哀くんは科学者じゃった。しかも例の黒の組織の…。そこを命からがら抜け出して、ここに住んでいたというわけじゃ。例の人間が小さくなる薬を作ったのも哀くんで、その解毒剤をここの地下室でずっと研究しておった。」
「それじゃ、灰原さんももとの姿に戻ったのかしら?」
「さぁ、それはわからんな。ただ、どっちにしろ新一が哀くんを気にしてるってのは確かじゃな。元気でいるといいんじゃが。」
 それを聞いて俯いていると博士が焦った。
「あっーー!蘭くん、誤解するんじゃない。新一にとって気がかりというだけじゃ。決して哀くんをそんな風には…。」
 話してくれない新一を考えていた。それは、人に話せないほどの「心の傷」だと理解しようと思った。

 そして、数年がたち、ある雑誌の記事を見て、新一の表情が変わるのに気づいた。安堵の表情。
 MITで活躍する日本人女性が紹介されていた。名前は宮野志保。…蘭のなかで、イコール灰原哀だと確信できた。
 これで、見えない呪縛から新一は解き放たれる。きっと。そう信じたい。
 その後、何度その名前を雑誌や新聞で見かけても、新一は表情を変えることはなくなった。蘭もいつしか、そんなことは忘れていた。

 再びその彼女が現れ、新一を奪い去って行った。・・・蘭にはそう感じられる。
 いや、事件が新一を連れ去ったのだと、頭ではわかっている。それでも背後に感じる彼女の存在。打ち消そうとしても出来なかった。見えない呪縛にかかっていたのは蘭自身だったのかもしれない。
 だけど、新一の居場所を知っているのは、きっと彼女以外にはいないだろう。…会ってみよう。会いにいってみよう。宮野志保、その人に。

 

 チャールズ川ほとりの奥まった研究棟に、宮野志保の研究室があった。
 蘭は、迷いに迷った挙句、川のほとりのベンチに腰掛けていた。歩きすぎたせいか下腹が痛む。
 キラキラ光る川の水面を見つめていると、ふと提無津川の河川を思い出した。新一と一緒だった日々が頭をよぎっていく。
「大丈夫…大丈夫よ…。」
 誰に話しかけるわけでもなく、蘭はつぶやいた。
 鳥のさえずりが聞こえる。目を閉じて耳をすましてみた。
 そうしながら気づいた。「わたし、怯えてる…」と。会うのが怖い。足が震えている。…どうして?
 ふと、人の近づいてくる気配を感じ胸がざわめいた。
 振り返り、その人影を見る。白衣を着たスレンダーな女性。赤みがかった茶髪。逆光でその顔は見えない。

 蘭はめまいを感じ、その場にうずくまった。