***そばにいて***

by 沙樹里



 遠くで名前を呼ばれた気がした。

「…んー、何…?」
 とにかく眠くて、眠くて。瞼が重くて持ち上がらない。

 ふわりと体が浮いて、髪が揺れるのを感じた。
 次の瞬間、柔らかいところに降ろされた。

 状況を認識しようとゆっくりと目を開けると、彼と目が合った。

「なんや、目ぇ覚めてしもたか?」

 それは大好きな人の優しい声。
 それだけでアタシは嬉しくなり、知らずに笑みがこぼれる。
 けれど、睡魔の力は強力で一度覚醒しかけたアタシを再びゆっくりと眠りへ誘う。


 睡魔と大好きな人とのあいだで。
 夢と現のあいだで。
 逆らいがたい誘惑のあいだで。


 頭を少し持ち上げられた。結えていた髪が広がり、優しく梳かれる。
 より弛緩していくアタシの体。


 大好き。
 アタシがこんなに好きなことを知ってる?


 アタシは睡魔にもう少しだけ待つように言った。
 右手を持ち上げる。彼はその手をとってくれた。
 あたたかな大きな手。

 アタシはもう少し頑張って逆の手を動かし、彼の頬に触れた。


 大好き。


 睡魔に囚われているアタシの体温は、普段より高いはずなのに彼の頬はそれより熱かった。

 アタシの右手を捉えていた彼の手がアタシの頬に触れる。
 額を、頬を、瞼を、ゆっくりとその大きな手がたどる。
 それがとても心地良くて。
 アタシも同じように彼の額を、頬を、瞼を、指でたどった。


 彼の手がくちびるに触れた。


 睡魔が誘っている。
 アタシは彼に引き止めてもらいたくて、彼の首に腕をまわした。


 そばにいさせて。


 アタシの気持ちが届いたのか、彼はアタシを抱きしめてくれた。
 とても強い力で、しっかりと。
 オレのそばにおり、と耳元で聞こえたような気がした。


 いる。あたり前やん。ずっと一緒にいる。
 アタシはここにおるよ。平次のそばに。


 彼のくちびるが額に触れた。アタシはこのキスが大好き。
 そして瞼にも、頬にもキスがおとされる。
 いくつも、いくつも。とても優しく。


 それから―――くちびるに触れた。
 アタシは気持ちが溢れて、首にまわした腕に力を込めた。


 ―――睡魔が諦めて遠ざかっていく。


 それが合図だったかのように、優しいキスは次第に熱を帯び、
 はじまりのキスに変わっていった―――――





 *****





 あれ…?アタシ寝てたんかな?
 やけにすっきりと目覚めた頭。

 夕食を食べて、平次の部屋で雑誌を読んでいて。
 ……あれ?その後は?


「あ、起きたんか?」


 ごそっと動いたアタシに気がついて、平次は額にキスをおとした。
 そのキスに微笑み、目を閉じて再びまどろみに落ちようとした。
 平次の手が体をなぞる。その愛撫に体を預けようとして―――。


 …ちょっと待って。アタシ、今、もしかして裸?!なんで?


 平次の手を押しのけて、ガバッと起き上がった。
 待って、待って、待って。
 …夕食を食べて、平次の部屋で雑誌を読んでいて…その後は…。


 嘘……じゃない、思い出した―――。


 慌てて時計を見た。夕食が早かったせいか、眩暈がするような時間にはなっていないけれど、それでも、もう帰らなければいけない時間は過ぎている。
 平次の部屋で寝てしまうことはよくあること。いや、そういう意味じゃなくて、純粋に言葉通りの意味で。………こういうこともたまにはあるけれど。
 でもでも、今日はおばちゃんもいるのに!
 アタシ……声……まさか、声が聞こえてる…………?
 そう考えて、頭に一度に血が上った。

「ちょっと、平次っ!」
 後ろから抱きしめてきた平次の腕を振りほどいた。そして散らばっている洋服をひとつひとつ身につける。
「ん?」
「どういうつもり?」
「どうって…」
「あーもーっ!今日はおばちゃんもいるし、それにもう帰らなあかんし!」
「おかんやったら、近所の家に行っとるで?それから、家から電話あったからそろそろ起こして送っていくってゆうたけど?」
「…なんやて?」
「いや、そやから、おかんはおらんし、家には送ってくって」

 いったいどんな顔をして家に帰ればいい?
 平次の部屋で寝てしまうことはよくあることで…いや、そういう意味じゃなくて、純粋に言葉通りの意味で、と何度も言い訳のように繰り返す。
 でも、今日は………。ああぁ、もうっ!

「帰る」
「ちょー待て。すぐ用意するから」


 平次の仕度を待つ間、ベッドの端にちょこんと腰掛けて自分専用となっているクッションを膝に置き、ぽすぽすと叩きながら恨み言を言った。
「…ほんまにむちゃくちゃやわ。寝込みを襲うってどーいうこと?しかも、おばちゃんがいるのに」
「そやから、おかんはおらんってゆうたやろ?」
「確信犯」
「なんやと、こら!それはこっちのセリフやっちゅうねん」
「なんでよー?」
「なんでて……」
 平次は言葉を濁して明後日の方向へ視線をずらした。
「なによ?」
「いや、別に…」
 歯切れの悪い平次に「やっぱり平次が悪いんやん」と言うと、「自分かて……」とちらりとアタシを見やってブツブツ言う。
「何よー?男やったらはっきり言い!」
「あんなー、自分かて、応えてきた…」
 咄嗟に投げたクッションは見事に平次の顔面にぶちあたった。

 あーー、もーーーっ、何を言い出すのだ、この男は。

 平次と体を重ね合わせるようになったのは昨日や今日のことではないが、未だにこの手の話には慣れない。頬が熱くなっているのがわかる。
 平次は鼻を押え「いったーっ、オマエなぁー!」と言いながらも、アタシの反応を見て面白がっているのがわかる。それがなんだか悔しくて恥ずかしくて、ぷいと顔を背けた。


 仕度を終えた平次がぽんぽんとアタシの頭を軽くたたく。
「ほれ、もっと遅なるで?」
 目の前にメットを差し出され、しぶしぶ顔を上げた。
 目が合うと、平次は額に触れるだけのキスをし、「行くで」と部屋を出ていく。

「…ほんまにもー」

 そんなん…ずるいわ……と心の中で呟き、平次のくちびるの感触が残るそこにそっと触れた。


 fin