*このお話は「罪」(風丘はるな)の続編として書かれています。
「恋しくて」遠野りえ
彼を見送ることはできなかったけれど、それでもわたしは後悔などしていなかった。
昨晩の余韻がまだ体のあちこちに残っている。それは、切なく辛く。だけど、そのなかに「しあわせ」をも感じている自分がいることを確信している。
彼の立ち去った後のアパート。まだ人が住んでいる感じがする。あたたかさが残っている気がする。
合鍵をひねって、やはり彼がいないことをあらためて知る。
昨晩、抱きしめあったソファを目にして、やはり体が先に余韻を反芻し始める。必死で打ち消そうとしても彼の指をまだ体がはっきりと覚えていた。
カーテンが引かれたアパートの部屋は薄暗く、妙に整ったベッドがわたしを誘う。
クローゼットに残された、それともわざと残して行ったのか?彼の白いボタンダウンのシャツを見つけて、わたしの体は疼きはじめる。それは、彼。幻。だけど。
幻でもよかった。心満たしてくれるなら。
わたしは、着ているものをすべて脱いで、そのシャツに袖を通す。ふと抱きしめられている錯覚を起こす。
切なさに目を閉じて、ベッドに横たわった。
シャツにもシーツにも、ほとんど彼の匂いはなく。それでも、目一杯息を吸いこんで、彼を呼び起こす。
ほんの数時間前のこと。ここにいた彼を抱きしめる。そして、抱きしめられたいと願うから、わたしの指は動き始める。
昨晩、ここへ来たことの意味を考える。
…自分でもわからない。この気持ちがなんなのか。
好きだった人の身代わりとして求めた?たださびしかったから?
…違う、違う。
いつでも認めたくない思い。ずっと彼に恋してたこと。諦めきれずに思いつづけていたこと。
誰でもよかったなんて嘘。身代わり、さびしさ、みんな言い訳。
ずっと好きだった。だから、抱きしめて欲しかった。
…彼が欲しかった。
好きだった人を奪った組織への復讐なんて、言い訳。日本へ行ったのは、ただ、彼に会いたかったから。
彼を奪いたかったから。
そして、まんまとあの人から奪い取り、ここへ来て誘惑した。
心のどこかで、わたしは計算していたのかもしれない。
なんてずるくて卑怯な女。
彼は、あの人の代わりにわたしを抱いた。さびしさに負けて、わたしを。
そう仕向けたのはわたしだから。こういうカタチで抱かれることを悔いてはいないけれど。
心を求めてはいけない。そんなのわかってるのに。
…切なくて。
確かな時間だけを頼りに、わたしは指を滑らせる。
記憶をたどって、昨晩の彼の動きを忠実に蘇らせながら。
唇、首筋、胸、その先端、背中、腰、そしてその茂みに。
軽く足を開いて、指を這わせて。
彼の白いシャツが肌に触れるだけで、感じてしまう。
抱かれている錯覚のなかで、その部分は潤っていく。
ゆっくりと、その部分に指を差し込みながら、思わず涙がこぼれる。
確かに、そう、昨晩は彼がココにいた。
心地よさに気が遠くなる。昨晩、彼の耳元で聞かせた喘ぎ声をシャツの襟に吐き出す。
声を聞いて、ハッとしていた彼を知っている。
そう、わたしはあの人じゃない。あの人じゃない。
わたしを見て。見て。だから、執拗にその耳元で喘いでみせた。
達することができなかった絶頂に、今、幻と共に…。
いっしょに……いきたかった。
彼の心を慰める余裕なんて、わたしにはなくて。本当はとんでもなく取り乱していたのに、全然平気な振りして部屋を出たわたし。ずっとずっと、旅立つその瞬間までここにいたかった。後悔はしていないはずなのに、心の奥底にそんな願望がある。今、それを認めよう。わたしの彼への思いのすべてを認めよう。
ほんの少し汗ばんだ白いシャツ。彼を抱きしめるようにそれを抱きしめ。
今、ようやく別れを告げられた気がする。彼に。そして、わたしの恋に。
…ピリオドを、打つ。
熱いシャワーを浴びながら、いくつもの「さよなら」を言う。止まらない涙は排水溝へと流れていく。
多分きっと、もう二度と彼と会うことはないと女の勘が確信している。
そして、わたしは旅立つ。また闘いの中へと。