ファイアー・ウォール
<恋ふたたび:サイドエピソード4>
作・華 |
志保は、5年ぶりで日本の地に降り立った。
フランスから帰国することを蘭には知らせていたが、
詳しい日時は伝えていなかった。
懐かしい顔を見てみたいという気持ちが
ないといえば、ウソになる。
でも、空港で出迎えられるなんていうことは、
どうも自分に似合わないと思っていた。
荷物を受け取り外へ出ると
「志保」「志保ちゃん」「志保君」「宮野ぉ」という
不協和音が聞こえてきた。
意外な出来事に軽い眩暈を覚えながら、
不覚にも涙でその光景がゆがんだ。
最初に駆け寄ってきたのは蘭で、
志保のことを抱きしめた。
姉妹のように。
後ろから園子が来て、その二人の肩に手をかけた。
「どうして分かったの?知らせていなかったのに」
まず、志保が口を開き疑問をぶつけた。
それには、新一が即座に答えた。
「おめぇボケちまったのか。俺を誰だと思っているんだよ」
「なにいっているよの、新一。
あなたが調べたわけじゃないでしょ?
高木さんと美和子さんに電話して頼んだのは、
わたしじゃない」と文句を言う蘭。
「そのアイデアを出したのは俺だぜ。
宮野に直接聞いても、どうせ言ってくれないからって
航空会社に電話かけまくって、教えてくれないって、
電話、叩きつけて壊しかけたのは誰だよ」
「最初から搭乗者名簿は、
一般の人には教えてくれないって、言ってくれればいいじゃない」
「何事も経験、け・い・け・ん」
「すとぉっぷ!」園子が割って入った。
「その続きはお家でね、お二人さん。全く成長がないんだから。
相変わらず園子様の苦労が絶えないって訳よ。
ところで志保はどこに滞在するの?
どうせ志保のことだから、
ホテルを予約しているんだろうけど
みんな、志保に来て欲しくって、
それぞれ志保が過ごせるように準備しているのよ。
でもね、ここはやっぱり、
博士に花を持たせてあげようって思うんだけど、どうかしら?」
「志保君、かまわんじゃろ」
「ええ、すごく嬉しいわ。
待っていてくれる人がいるなんて、考えもしなかった……」
志保の身の上を思い、しんみりしかけたが
「あ・な・たっ!」という厳しい声にみんな背筋を伸ばした。
そう、小五郎がファンにサインを求められ、
デレデレしていることに英理が気づいたのである。
「まったく、この母娘は
成長しない関係を楽しむ遺伝子が刷り込まれているのよね」
「園子ぉ、そんなんじゃないってばぁ」
「園子ちゃん…あのねぇ…」と言いながら、
英理はさっさと自分で話題を変えてしまった。
「志保ちゃん、疲れているでしょ。
とにかく博士のうちへ送っていってあげて、休ませてあげましょう」
誰も異論をはさめない。
博士の家の志保の部屋は、
いつでも帰っていいようにそのままになっていた。
志保は部屋に入ってすぐに眠ってしまったので、
そのときは気づかなかったが
今、目覚めて気づいていた。
部屋はきれいに整えられている。
そして、以前は無機的にしていたインテリアが少し違う。
なにが違うのか、志保はすぐには分からなかった。
それだけ長くいなかったってことかしら。
白かったブラインドの色が、薄い桜色になっている。
ベッドサイドのランプの傘は
ベージュがかったピンクに変わっており
同じ色の小さな額縁が3つ白い壁に並んでいた。
そしてよくみると
足元のきれいに畳まれたベージュのベッドカバーの下には
緋色の小さなクッションがあった。
蘭の優しい思いやりを感じて、
志保はその部屋に漂う空気を抱きしめた。
トントンと控えめなノックの音がした。
「志保、起きている?夕食の時間だけど、どうする?」
「蘭、起きているわよ。どうぞ入って」
蘭はそっとドアを開けて入り、明かりを点けブラインドを下ろした。
「蘭、ありがとう」
「えっ?あっ、この部屋のことね。
ごめんなさい、勝手にいじってしまって。
でも、病院みたいな部屋で目覚めたら、
また布団にもぐり込みたくなっちゃうでしょ?」
「うふふっ、そうだわね。
前はどうしていたのかしら?分からないわ」
「おなかは空いていないかしら?」
「いいえ、ペコペコよ。
機内ではなんとなく落ち着かなくて、殆ど食べていないのよ。
着替えてから下へ行くわ」
「ええ、それじゃあ用意しておくわね」
「ありがとう」
下に降りて行くと、おいしそうな匂いが立ち込めていた。
テーブルの上には、志保の知らない食器が並んでいた。
まさかと思いながら蘭の顔を見ると、彼女は笑って志保を見た。
「ちがうわよ。全部うちから運んだものよ。
だって、新一に聞いたら
博士の家の食器は全然揃っていなくって
ろくなものがないって言うから」
「あんまりじゃなぁ、ろくなものがないとは。
ところで蘭君、ちがうというのはどういう事じゃ?」
「それはね」と志保が言った。
「わたしが知らない食器があるということは、
それを用意した女性(ひと)がいるっていうことでしょ?
だって、博士が新しく買うわけないじゃない。
わたしが一緒に住んでいたときも、
同じおかずなのに、二人で違う形のお皿で食べていたことに、
全然気づいていなかったじゃない」
翌朝、朝のコーヒーをいれながら、
志保は少年探偵団のことが気になり、博士に尋ねた。
「ねえ、博士、あの子達はどうしているの?
わたしはここにいて大丈夫かしら」
「志保君は言いたくないんじゃろ、哀君のことを」
「ええ、できればね。
今、考えると哀としての生活は、
わたしにとって、とても大切な時だったの。
志保の子供時代は、幽閉されたような生活だったから。
だから、哀の記憶をとどめてくれる人が、存在していて欲しいの」
「大丈夫じゃ。心配は要らないぞ。
あの子達は、いま6年生で、
卒業アルバムやら卒業式の準備やらで
『とても博士とは遊んでいられない』のだそうじゃ。
特に光彦君はよくがんばっておるぞ。児童会長じゃからな」
「そうなの。こっそり学校をのぞいて見ようかしら?」
「おお、それは楽しいぞ。
あの子達も、ずいぶん成長しているからなぁ」
素顔のままで行ったら、
少なくとも光彦にはバレてしまうと志保は感じていた。
勘が鋭いだけでなく、哀はおそらく彼の初恋の人だから。
そこで志保は蘭と相談し
軽くカールのかかった長い黒髪のかつらをつけ、
キャップを目深に被ってみた。
蘭は面白がって、もっとワイルドにしてみたらと、
志保に派手な化粧と怪しげな色のマニキュアまでほどこした。
そして、志保と蘭は、一緒に学校へ向かっていった。
懐かしい校庭だ。
志保は、小さい頃ろくに学校に通わせて貰えなかった。
だから、懐かしい校庭はここしかないのである。
複雑な表情をしている志保を、蘭は黙って見つめていた。
「さあ、志保。行ってみましょう」
そう言うと、蘭はどんどん職員室のほうへ向かっていった。
志保は訳がわからず戸惑っていた。
蘭は志保のほうを振り向くと、そのわけを説明した。
「わたしたちは怪しいことをするわけではないのよ。
だからトラブルを起こして目立つより、正攻法でいきましょ」
職員室へ入ると、蘭は、まず自分の名前を名乗り
自分は卒業生で、外国から友人が遊びに来ているので
自分の出身校を見せたいのだと説明した。
さすが有名人の娘、そして妻は名前を知られており
卒業生であることを知っている職員が何人かいた。
きちんと許可を得て校舎内に入ると、
志保と蘭は児童会室を探した。
蘭も卒業してから、ずいぶん経っているので、
うろ覚えでなかなか見つからない。
その時、志保にとっては懐かしい声、
蘭にとっては聞き慣れた声がした。
二人は顔を見合わせて、扉のガラス越しにのぞいてみた。
すると、すぐに歩美が気づいて声をかけてきた。
容姿の愛らしさは昔のままだが
ちょっぴり自信と強さが加わって、魅力的な少女となっている。
「蘭お姉さん、こんにちは。今日はどうしたんですか」
「こんにちは。ええ、ちょっと見学。
外国から来た友達が、
日本の小学校を見てみたいというものだから。
それに博士が皆が
とってもがんぱっているって言っていたから、
陣中見舞いも兼ねてね」
奥から元太と光彦も顔を出した。
元太はすっかり背が伸び、がっしりとした体格は、
すこしませたスポーツマン風だ。
すねて見せる表情の中には、
持ち前のおおらかさが潜んでいる。
「蘭姉ちゃん、ずいぶんきれいな人だなぁ」
光彦もうなずいている。
「さすが男の子。チェックが早いのねぇ」と蘭がからかうと
光彦は照れたような表情を見せた。
それを見て、すかさず元太が予防線を張る。
「光彦、大事な灰原はどうしたんだよぉ」
「そっ、そんなこと。今言わなくったっていいじゃないですか。
初対面の方がいらっしゃるんですよ」
と真っ赤になった光彦であったが、
はじめましてと、そつなく右手を志保のほうへ差し出した。
はにかむ姿は昔のまま。
しかし、以前の頼りない表情の彼はもういない。
将来への希望と自信が見え隠れする鋭い瞳は、彼の成長を物語っている。
志保は、にっこり笑ってその手を取った。
「蘭、今日はどうもありがとう。
お陰であの子達に会うことが出来たわ」
「よかったわ。わたしは、よくあの子達と話しているから
『哀ちゃん』の名前が、みんなの会話の中に出てくるのを知っているわ。
だから、わたしには皆の中に『哀ちゃん』は、
しっかり生きているんだと分かっていたけど
志保にも今日の会話でよーーく分かったでしょ」
「ええ、そのようね。ちょっと複雑な気もするけど
円谷君が哀のことを、いまだに慕っていてくれるのは、やはり嬉しいわ」
と志保は満足げな表情した。
志保は、その後1週間ほど日本で過ごし、またフランスへ旅立っていった。
フランスで学位を取った志保は日本で職を得て、
一時帰国の3年後に日本へ戻ってきた。
ある夜、自宅でコンピュータを立ち上げると、
大きく「警告」の文字がうつしだされた。
志保が「哀」として過ごしたあの事件のデータに、
アクセスがあったということだ。
あの事件のデータは、いまだに当局の厳重な管理下にあり、
通常はアクセスできないだけでなく
事件の関係者、当事者には
事前に危険が及ぶ可能性を知らせるために
アクセスがあったことが、通知されるようになっていた。
志保はこの休眠状態であったデータに
アクセスしてくる人物に興味を覚え
詳細なアクセス状況を見てみることにした。
別に怪しい調査ではなさそうだ。
この事件の内容を知らない人物が、
まずは概要を知るといった感じだ。
警察や検察の公開されている記録、裁判記録などを見ている。
きっと何も見つからないであろう。
しかし、次に事件ではなく
「灰原哀と江戸川コナン」の情報を調べ始めた。
学校、現れた時期、少年探偵団として関わった事件?
えっ、これは...まさか...探偵団の誰か?
いまさら、こんなことを思いつくのは、きっと彼だけだわ。
…やだ…今日は円谷君の15回目の誕生日じゃないの。
彼らしい発想かもしれないと、志保は考えていた。
自分の誕生日プレゼントとして、謎解きをしようと思っているのね。
志保はくすぐったいような気持ちで、
情報が逐次入ってくるモニターを眺めていた。
そのとき志保は、はっとした。
だめよ、円谷君。
それ以上はハッカー行為になってしまうわ。
やめなさい。
志保は祈るような気持ちで、モニターに浮かぶ文字を見据えた。
モニターの文字は、
アクセスしてきた人物の躊躇を表すかのように一瞬止まり
志保の祈りが通じたのか、さっと消えていった。
あそこまでやりかけたのであれば
このバリアを突破するのは、
さほど難しいことではないであろう。
でも、きちんと犯罪行為については認識している。
志保は光彦の自制心に感心し
そして自分の心の中に、
温かい何かが芽生えるのを感じていた。
そんな思いを、志保は蘭にだけは告げていた。
とても不思議な感覚、でもとても嬉しいことであると。
蘭は志保の気持ちを考えて
そのことについて、自分の考えを言うことを避けていたが
正直なところ、そのアクセスしてきた人物が
光彦である可能性は、かなり低いのではないかと思っていた。
果たして、今までずっと哀のことを
心にとめておくことが出来るのであろうか。
少なくとも、蘭が志保から聞いた検索内容ならば
ちょっと鋭い新聞記者なら、やってのけるだろう。
少し落ち着いて考えれば分かる答えである。
どうしてそんな単純なことを、
志保は見逃してしまっているのだろうか。
正式な調査結果が出て、
がっかりする志保の姿を見たくないと思っていた。
そんな心配をよそに、
1週間後、正式な調査結果が志保や新一のもとに届いた。
蘭はその結果を新一から聞いた。
「蘭、安心しろよ。宮野の言う通り、あのアクセスは光彦のようだぜ。
俺も蘭から、宮野がずいぶん肩入れしているって聞いていたから
正直言って、心配していたんだ。だってそうだろ。
あいつらが一緒に過ごしたのは数ヶ月。
その後何年たっていると思う?
けどよ、まあ、光彦が初恋を忘れられないってのは、
分かるような気もするよな。
でも、宮野のやつはどう考えているんだろう。
不思議なやつらだよな」
「本当にそうね。
単純な恋愛感情というのとは、少し違うような気がするけれど
分かっちゃっているのよね。彼の行動が。そんな関係も素敵かもね。
…これからどうなるのかしら?」
蘭はそう言いながら、志保の幸せは、
どういう形なのかと思いあぐねていた。
新一は、蘭の横顔を見ながら、
蘭から投げかけられた難しい問いの答えを探していた。
「どうにもなんねぇんじゃないのか。…いや…光彦次第かもな…」
光彦の今の姿を、
この目に焼き付けておきたいと思った志保は
中学の卒業式、高校の入学式、
体育祭、文化祭など節目の行事のときには
必ず彼の学校を訪ねるようになっていた。
まるでストーカーのようね。
志保は見つからないように、
こっそり眺める自分の姿が滑稽で
思わず笑ってしまったが
日に日に自信を深めていき、
輝いてくる光彦の姿を見るのは
彼女の密かな楽しみとなっていた。
志保が日本で働き始めて3年目、
漸く彼女の仕事が認められるようになり
特別チームのリーダーに任命された。
そのお祝いの会が、
内輪の友人を招いて、阿笠邸で開かれた。
そのお祝いに相応しい話が、新一から披露された。
ある若い科学者の卵が、志保の論文に出合い
自分の進むべき道を見つけたというものだった。
その場にいた誰もが、
それが光彦のことであることを分かっていたが
あえて、その名前を口にするものはなかった。
安易に発言することが、はばかられるほど
志保と光彦の繋がりは深く、
そして複雑であることを知ったからである。
志保は新一から詳しく話を聞き、
その翌日、彼に一通の書簡を託した。
それは志保から光彦に宛てたもので
光彦の科学者としての将来を励ますものであった。
志保は自分の正体は明かさなかったが
いずれ、必ず自分との接点が出来ると
信じていることを伝えていた。
今までの光彦の哀に対する思慕を感謝するとともに
将来、光彦が自分と同じフィールドに立ったとき、
何かが動くことも期待していた。
静かにうねる潮流ような思いが込められた書簡であった。
その後の志保は忙しく、
厳しい生活を強いられることになっていった。
志保のポストを狙う人間は周りに沢山いる。
少しでも油断をすれば、彼女ははじき出されてしまう。
そんな生き馬の目を抜くような毎日であった。
しかし、彼女は常に生き残っていった。
ようやく手にした社会的地位を、
簡単に手放すわけには行かない。
これを手にするために、
彼女ほど辛い回り道をしてきた人間は、
おそらくいないであろう。
研究で成果を出すことは、
彼女にとって、さほど辛いことではなかったが
一般社会での普通の生活に順応してゆくことが、
どれほど難しいことであったか。
そして、光彦の恋人の存在も
志保の心に影を落としていた。
志保自身も光彦に対して、
どのような感情を抱いているのか、はかりかねていたが
志保にとって、
恋人といる光彦を見るのは非常に辛いことであった。
また、自分の中途半端な感情への苛立ちも感じていた。
そんな志保をやさしく包んでいたのは、やはり蘭と園子であった。
彼女たちは心の中に踏み込まない。
しかし、信念とも思える強い心で、
必ず見守っているという信頼を与えていた。
彼女たちに見守られながら、
志保もまたしなやかな強さを身につけていった。
蘭は、こうして悩む志保に伝えるべきか迷ったが
事実を隠し続けることに意味があるとも思えなかったので
光彦から聞かされてから、2週間ほど経ったある日、
光彦が結局、恋人と別れるに至ったことを告げることにした。
「志保、自分を見失わないで、聞いて欲しいことがあるの」
「なんだか、物々しい前置きね。何かしら。大丈夫よ。
これでも、いろいろな修羅場をくぐって来たつもりよ。
話してみてちょうだい」
「…志保にとって、必ずしも悪い話って訳じゃないの。
もしかしたら、いい話かもしれない…でも…」
「『でも…』、なんなの。あんまり、まどろっこしいことを言うのなら
わたし、帰るわよ。明日の発表の準備もしなくちゃならないし…」
「ごめんなさい…そんなつもりじゃないの…。悪かったわ」
蘭は意を決して、一息に言いきった。
「事実関係は、いたってシンプル。光彦君が恋人と別れたの」
「そう…残念ね」
「志保、わたしにそんな強がりを言わないで。
だから、心配だったのよ、このことを言うのは…。
あなたは、光彦君に対して、とても強い感情を抱いているわ。
もちろん、どんな種類のものかは、分からないけれど…」
「そうね、蘭にこんなこと言ったって意味ないわね。
正直に言うわ。
心の重石がとれたみたいに、心が高ぶっている。
おそらく、嬉しいんだと思う」
「光彦君が恋人と別れた理由は、『灰原 哀』への思慕なの」
「…え?…」
「だから、光彦君は今、目の前にいる恋人よりも
『灰原 哀』を選んだのよ。もちろん、まぎれもない愛情だわ」
「……」
「…そういうこと…」
「…わたし…わたし…何…」
志保は言葉を継げなかった。
「志保、落着いて。
だからって、何かが変わるわけじゃないわ。
あなたは自分で行動を決めることができるのよ。
でも、今、会うことは勧めたくないわ。
分かるわね、わたしの言っていること。
よく考えて、軽はずみな行動は謹んでね。
今までのあなたの光彦君に対する気持ちを
……どうしたいのか……よく考えて。
あなたの幸せを願っているのよ。大切にして欲しいの」
志保は、もちろん光彦の
『灰原 哀』への気持ちを知っていたが、
子供の憧れの域を出ないものであると、
いつも、自分に言い聞かせていた。
実際以上の期待をして、自分が傷つくのが怖かった。
でも、今回聞いた話は、明らかに愛情だ。
彼は何故、こんなにまで
哀のことをこんなに慕えるのかと考えた。
そして、彼女は、こんなにストレートな愛情を
ぶつけられた経験がなかったので動揺していた。
どう対処していいのか分からなかった。
いつもクールに決断してきたのに
このときばかりは、何も考えられなかった。
蘭が何も言ってくれなかったら、
光彦に会いに行っていたに違いない。
そして、彼の胸に飛び込んでみたいと思ったかもしれない。
ひょっとしたら、本当に行動に移していたかもしれない。
でも、蘭の言葉が彼女の心の中に響いていた。
…軽はずみな行動は謹んで、大切に…
どういうことか、最初はピンと来なかった。
家に帰って、落着いて考えると、そう思えてきた。
…今、会ったって、どうすることも出来ない。
彼は、きっと、わたしの感情を持て余してしまうだろう。
もう少し、彼がオトナになってから会えば、
流れが変わるかもしれない。
でも、今では、なんといっても早すぎる。
彼を押しつぶしてしまうことになるかもしれない。
もう少し待ったって、今と大差はない…
…まだ…早い…。
それが志保の出した結論であった。
必ずしも、光彦と恋人同士になりたいと
思っているわけではないが
きちんとお互いに向き合えるような
付き合い方をしたいと思っていた。
だから、光彦が自分の研究なり仕事なりの方向を定め
自信を持って進めていくようになってから
会ったほうがいいと思い直したのである。
そう、以前光彦に宛てた手紙に書いたように。
光彦は、志保が期待した以上に頭角を現してきた。
彼と同世代の研究者の中では、ちょっとした有名人であった。
光彦の優れた才能は、
学生に与えられる賞や奨学金を片端から獲得していった。
それはもちろん、志保の目にも、とまっていた。
志保は今度こそ、絶対に会うことが出来ると確信した。
そして、志保は就職希望の学生の履歴書の山の中から、
光彦の履歴書を発見した。
志保は小躍りしたくなるような気持ちを抑え、
その履歴書の主を強く推薦した。
いつも冷静な志保が、この時ばかりは
頬を紅潮させ興奮状態で熱弁をふるい、
周囲の人間を驚かせた。
まさか、15年以上も、
この日を待っていたなどとは、想像できるはずもない。
その運命の日はやってきた。
「あら、新人さんの挨拶は終わってしまったの?残念だわ。
ごめんなさいね、遅れてしまって。円谷君ね。よろしく、宮野志保です。
工藤君に渡した手紙は受け取ってくれているのよね。
ずいぶん前のような気もするけど、ようやく会える日が来たのね」
志保は、自分の胸の鼓動の高まりを悟られまいと、
いつもは見せない微笑をうかべた。
おしまい
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