イフィゲネイア
<恋ふたたび:サイドエピソード3>
作・華



光彦と恋人同士になった志保は、
ここのところ光彦の家へ遊びにゆくことが多くなっている。
その理由は光彦の母。

初対面のその時に、
「哀ちゃんね、はじめまして」と懐かしい名前で呼ばれた。
別に光彦の母親に知られても構わないが
光彦が、それをわざわざ話したことが、意外であったので
志保は、彼のほうに疑問の目を向けた。
彼は話していないと、首を軽く横に振った。
「昔ね。光彦は哀ちゃん一筋で、ほんとに妬けちゃうくらいだったのよ」
と説明されたが、それ以上の言及はなかった。

光彦の母親は、フリーのデザイナーで、
大手アパレルにデザインを提供している。
実は、志保が最初に着ていった
小麦色のパンツスーツとオリーブ色のインナーが
偶然にも彼女のデザインであった。
彼女はとても喜んで、
話題は自然とそちらのほうへ移っていった。
志保は母親の愛情を知らずに育ったので
母に作ってもらった洋服を着ているような錯覚に陥り
初めて、その誇らしく嬉しい気持ちを味わった。

高級ブランドではないが、
着やすいデザインとファッション性のバランスがよい
志保お気に入りのブランドであったので、
光彦の母にいろいろと聞いてみると
志保の持っている服の、特にスーツ類は、
殆どが彼女のデザインのもののようであった。

遊びに行くたびに違うスーツを着ていって、
彼女のデザインかどうかを見てもらう約束をした。
約束の日はいつも、二人とも子供のようにはしゃいでいる。
その横で、お茶やお菓子や軽食を用意しては
運んでくる光彦もまた、
不思議なめぐり合わせに心ときめいていた。

そして、今日は少しだけ特別な日。
光彦にプロポーズされてから初めて、志保が彼の家を訪れた。
まさか、こういう結果になろうとは志保自身、考えていなかった。
ほとんど諦めかけていた恋だった。
光彦を間違いなく愛していたが、彼があれほどまで
まっすぐな澄んだ瞳で問い詰めなければ
彼の前から、再び消えていたにちがいない。
彼の前に出るとその彼女の決心は揺らいでしまった。
彼と離れることなど出来ない自分の心を
彼の瞳の中に見たのである。

光彦の家は何度も足を運んでいたし、何度も泊まったこともあり
志保にとっては、通いなれた家である。
しかし、今日はとても照れくさい思いでいっぱいであった。
母親に彼氏がいることを気づかれるのは
こんな感じなのかもしれないと志保は考えていた。
そんな気持ちになれるのは、
幸せなことであることは、分かっているものの
このような経験のない志保としては、
なんとも居たたまれない思いで
少しでも話題をそらすことが出来るようにと
今日は、想い出深い服を選んでいた。

玄関のチャイムを押すと、柔らかいアルトの声が響いた。
「志保ちゃん。ごめんなさい。光彦ね、まだ戻ってきていないのよ。
何だか朝から出掛けていったんだけど、
電車が事故で止まっちゃったらしくて、帰ってこられないみたいなの。
とりあえず、あがってちょうだい」
光彦の母は一息にしゃべると、志保の服に気づき息を飲んだ。

「その服…」
と言ったきり絶句している。
「え?なにか変ですか?ちょっと古い服なんですけど。
でも、とても想い出深い服なので大切にしているんです。」
「志保ちゃん、ちょっと散らかっているけれど
わたしの仕事部屋に来てくれる?」
光彦の母の目は、なんだか赤く潤んで見えたが
志保はなにも言わずに、彼女のあとをついて廊下を進んでいった。

部屋に入ると、彼女は表紙の黄ばんだデザインブックを取り出し、
その最初の頁を開いた。
今度は志保が絶句する番であった。
そこには今、志保が着ている服のデザイン画があった。
しかもそのデザイン画の女性は、志保にそっくりであった。
「驚いた?」
光彦の母はいたずらっぽい目をしながら話しかけてきた。
「ええ、このデザイン画はこの服のですよね?
このデザイン画の女性はわたしみたい」

「これはね…志保ちゃんだと思うのよ」
光彦の母は懐かしい目をしながら話し始めた。

このデザインを手掛ける1年ほど前から
本格的にデザイナーとしての仕事に復帰した彼女であったが
数年のブランクは、この業界では致命的であった。
殆ど仕事は取れず、たまに回ってくるのはバーゲン用の企画など。
デザイン画は描き貯めていたが、それが日の目を見ることはなかった。
その頃、光彦は同級生の女の子が転校してしまって落ち込んでいた。
光彦は家に篭りがちになり、
母親が仕事をしている横で本を読むことが多くなった。

あるとき光彦がデザイン画をぼんやり眺めながら
「おかあさん、この女の人の顔を少し変えてみてください」と言い出した。
彼女は言われるままに、茶色のさらさらのショートボブ、深いグレーの瞳、
ちょっぴりシニカルな笑みを浮かべた口元に女性の顔を変えた。
「この女の人にはどんな感じの洋服が似合いますか」

息子に言われるままに描いた女性であったが
とても創作意欲の湧くモデルであった。
思いつくまま数枚のデザイン画をさっと描き上げた。
今までもやもやしていたイメージが、簡単に具現できた彼女は
一種の興奮状態に陥り、
その勢いでアパレル会社の担当者に電話をかけた。
そして、デザイン画を掴むとその足で会社を訪問した。

担当者は、折しも会議の真っ最中であったが
なぜか彼女はその会議室に案内された。
それは新ブランドの立ち上げの会議であった。
ことごとくデザインを却下されてきた担当者は、わらをも掴む思いで
無名の彼女のデザインも、会議にかけてみようと思ったのである。

この日の彼女は勢いが違った。
デザインに関して説明を求められると
デザインの特徴を細かく説明した上で
働く女性のための優れた機能性を持つおしゃれな洋服を中心に
今後も活動をしていきたいとまくし立てた。
彼女は新ブランドのコンセプトを全く知らなかったが、
彼女の説明がまさにそれであった。

「それで、もしその創作活動に
名前をつけるとしたらどのようになさいますか?」

「イフィゲネイアです」

予期せぬ質問であったので、なにも考えず
彼女は、その時読んでいた小説の
女性主人公のミドルネームを答えたのである。
こうして、新ブランド「イフィゲネイア」は立ち上がり
彼女は、そのデザイナーのチーフとして迎えられたのである。

「その後も今もね、この女性をモデルにデザインしているの。
あの時光彦が言った女性の顔は
おそらく、あの子が好きだった哀ちゃんが
大人になったときの顔を、想像したものだろうと思っていたから
あなたに初めて会ったときに、すぐに哀ちゃんだと分かったわ。
でも、ずっとモデルにしてきたなんて
志保ちゃんの重荷になってしまうことは言いたくなかったから
今までだまっていたのよ」

そして、光彦の母は付け加えた。
「あなたが志保ちゃんでも哀ちゃんでも、あなたはあなた。
どうしてそうなのかは、重要なことではないと思うの。
あなたが、わたしにとって大切な人であることが、
わたしには重要なことなのよ」

「何にも話していないけれど、
きっとお母さんには分かっているんですよね。
光彦君のお母さんだもの鋭いのは当然だわ。
…その名前の元になった小説って、
V.I.ウォーショースキー、ヴィクの話ですか」
「ええ、そうよ。Iはイフィゲネイアの略なの。
ちょっと安易だったかしらね。
でも、コンセプトには合っているでしょ?」
「灰原哀の哀って、V.I.のアイからとったんです。
この服は、わたしにとっても思い出があるのです。
聞いてくださいますか」

灰原哀から宮野志保に戻って3ヶ月が経ち
フランスへの留学手続きも整い、出発の日を待つだけになっていた。
少しの間、日本ともお別れ。
志保は蘭と園子と夕食の約束をしていた。
彼女たちのほかに、志保には友人といえる人はいない。
つまり、こうした経験も、もちろん殆どと言っていいほど、ない。
どうしても気持ちがはやる。
約束の時間より、1時間も早く来てしまった。

仕方がないので、ウインドーショッピングを楽しむことにした。
この近くにできた新しい店を覗いてみようと歩き出した。
この辺のはずだけど、と志保は立ち止まった。
横にあるウインドーのネイビーブルーのスーツが彼女の目に止まった。
合わせてあるシルバーのブラウスは志保の瞳に映えるだろう。
店の名前は「イフィゲネイア」。
志保は、なにやら因縁めいたものを感じ、
店の中に入るのをためらった。
そのとき、店の中から店員が出てきて彼女に話しかけた。

「このスーツを是非あなたに着ていただきたいのですが。
ご試着だけで結構です。お願いできますか。
お時間はだいじょうぶですか」
意外な申し出に志保の心は軽くなり、にこやかにうなずいた。

「いかがですか」試着室の志保に店員が声をかけた。
今日の夕食会のために、志保はおしゃれをしてきたはずであったが
そんなことは忘れてしまえるほど、このスーツはよく似合っていた。
まるで自分のために、誂えられたもののようであった。

「これをお願いします。それから今日は友人と約束があって
これをそのまま着ていきたいのですけれど」
「ありがとうございます。
無理やり買わせてしまうみたいで気がひけるのですが
あなたを見たとき、絶対似合うと思ったので、
声をかけさせていただいたのです」
店員は、志保が着てきた服を丁寧にたたみ、紙袋にいれた。
そして、失礼にあたらないといいのですがと言いながら
志保の首にライトブルーとシルバーのコンビのスカーフを華やかに結んだ。
「これは、わたしからのプレゼントです。よい夜をお過ごし下さいね」
と志保は送り出された。

「そして、このスカーフが、そのときのものです」
志保は光彦の母にそのスカーフを渡した。
「普通、店の外にいる人に声をかけることはないでしょう。
その上、飾ってあるスカーフをプレゼントされるなんて、びっくりしてしまって。
でも、めぐり合うべくして、めぐり合った服のような気がしたので、
とても大切にしていました」

光彦の母は、にっこりと微笑みながら志保に話しかけた。
「このスカーフはね、ディスプレイ用に作られた非売品だったの。
今思えば、あなたに、この服を勧めてくれた店員さんの訳だけど。
『先生、すみません、物凄くこのスーツのイメージにあうお客さまがみえたので
思わず差し上げてしまいました』とわたしのところに謝りに来たのよ。
その人、ベテランで信頼のおける人だったから
そのお客さまがみえたら、紹介して欲しいと頼んでおいたの。
もちろん、そのあとすぐ志保ちゃんはフランスへ行ってしまったし
あなたが帰国したときには、もうあのお店のスタッフはすべて変わっていて
うやむやになってしまったのね」

「イフィゲネイア…確か神話に出てくる神様でしたよね。神秘的だわ。
わたしたちの出合いは運命だったんですね」

「ねえ、志保ちゃん。今日、その服を着てきてくれたのは嬉しいけれど、
冷えるのはよくないわ。ちょっとスカートが短目よ。大切にして頂戴。
赤ちゃんのためだけじゃなくて、志保ちゃんの体の負担にもなるのよ」

光彦は家路を急いでいた。
彼の右手にはテタンジェが抱えられている。
そして、その栓が開けられるとき、
渡されることになっている志保への純白のプレゼントは
光彦の母の仕事部屋のクローゼットの奥で出番を待っている。
最初のデザインよりも、
おなかのあたりにゆとりを持たせたものに変えられて。



おしまい

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●空想ちょこっとエピソード・華さんのメールより抜粋●


哀ちゃんの名前の由来の
V.I.ウォーショースキーの探偵小説は
大好きな小説の1つです。

「V.I.ウォーショースキー」の「I」は、
「空想」中のセリフにもありますように
「イフィゲネイア」の略です。
ローマ神話かなにかの、戦いの神らしいんです。
もちろん、哀ちゃんの「アイ」は、
V.I.ウォーショースキーの「I」からとっていますよね。
そんな繋がりで書いてみました。

V.I.ウォーショースキーは、略さないと
「ヴィクトリア・イフィゲネイア・ウォーショースキー」です。
V.I.は、ウーマンリブの世代で、女性問題と戦う人。
「ヴィクトリア」という女性らしいファーストネームを嫌い、
友人には、「ヴィク」または「V.I.」で通しています。
「ヴィク」というのは、本来は「ヴィクター(男性名)」の
ニックネームなのだそうです。

また、最後の場面で、
光彦が抱えている「テタンジェ」というのは、
シャンペンの名前です。
V.I.は、いいことがあると、
このシャンペンを奮発するんです。