レクイエム
<恋ふたたび サイドストーリー8>
作・華 |
志保は、悪夢のような思い出を夢みてうなされ、自分が激しく寝返った拍子に目が覚めた。汗でべったり髪の毛が張り付き気持ち悪かった。
志保が夢にうなされるのは決まって、光彦が泊まった夜だった。もともと眠りは浅い方だが、光彦に愛されて心も身体も満たされて、気持ちよく眠りについた夜に必ずうなされた。まだ、カーテンの向こうは暗かったが、これ以上眠れないと、彼女は熱いシャワーをあびることにした。光彦はこんな風に目覚める自分のことをどう思っているだろうかとそればかりが気になる。激しく愛を交わした明け方にこんな風にうなされるのは、嫌な気分に違いない。でも、志保自身どうすることも出来なかった。
自分が起きあがったときに光彦が目覚めていたのは、分かっている。彼は何も言わず、目をつぶっていた。
けれども、彼女がシャワーから出てくる頃、キッチンはコーヒーのいい香りで満たされていた。目を合わせないように、ブラックコーヒーのカップを差し出す光彦に胸が痛む。こんなに光彦のことを愛しているのに…。こうした亀裂が少しずつ広がって、別れが訪れるかもしれない。そんなことを感じる一方で、別れを予感しながらもとても離れられないことをも分かっていた。
「志保さんはもう起きるんですか?」
「ええ…もう眠れないわ…」
「そうですか。僕はまだ少し横になっていますね」
「起こしてしまってごめんなさい」
そう言う志保を遮るように、光彦は志保の頬に唇を寄せた。
志保は軽く身支度をすると、早朝の街へ歩き出した。涼しい風が心地よく彼女の頬のなでていく。緑薫る公園のこんもりとした小さな森を抜けると小高い丘の上に出た。一本杉の丘の上からは、眼下に街を見下ろして、その先の海まで視界が広がっている。朝日が水面に反射していた。
志保は、そこでぬかづき目を伏せて手を合わせた。
自分の住む街の一番美しい場所で祈りを奉げるのは、昔愛した男だから。自分以外の誰が弔うというのだろう。そう、彼女がうなされたのは、昔の出来事の夢。ジンと過ごした時間の夢なのだ。
お互いに愛よりも憎しみの方が深い関係だったが、結局最後はジンに命を与えてもらったようなものだ。ジンは自分の命に引き換えに、志保を助けたのだった。
ジンを愛したのは昔のこと。『愛していた』と思えるのは、その恋はもう終わったということだ。それでも、うなされるのはどうしたわけだろうか。
最後に助けられるまで、ジンが自分のことを愛していたとは思っていなかったからだろう。確かに身体をゆだねたのは、1回や2回のことではない。しかし、それは志保にとって愛とは別物だった。命を救われたとき、自分がジンの真実を見ていたわけではなかったことを志保は悟ったのだ。だが、もう永遠にそれを詫びる機会を失ってしまった。普通に考えれば、彼女が彼に詫びる必要などないだろう。籠の中の鳥で姉を人質に取られていたようなものだから。それでも、きっと自分もジンを愛してしまっていたのだ。自分たちのような関係にも真実の時があったということを否定したくない。
与えられた命で別の人を激しく愛するということに心の奥底で罪悪感を感じていたのだ。そう、命を与えてくれた男よりもはるかに愛している、光彦のことを。 だから、光彦に満たされた後に、夢にうなされるのだろう。
どれだけ詫びれば許して貰えるのだろうか。もう、光彦を愛することは許されないのだろうか。一生許しを乞い続けるのだろうか。そう考えてはみても、昨夜の光彦の愛撫の感覚が生々しく思い出され、身体が熱くなる。光彦にこの恐ろしい感覚を忘れさせてもらいたい、それも志保の欲望なのだ。この責めぎ合いが志保の心を散り散りに引き裂いていく。
それでも、1日は始まる。いつまでもこうしてはいられない。
志保は、丘から降りるための階段を下り始めた。
階段を降りて横の石垣を曲がると、そこに笑顔の光彦が寄り掛かって待っていた。
「志保さん、そんなに驚かないで下さい。僕は名探偵のもとで何年も修行をしていたんですよ。分かってます。過去を変えることはできません。でも、その過去も全て志保さんのものなんです。志保さんが今ここにいることの証でもあるんです。僕はとっくの昔にそれを受け入れています。本当は、志保さんがそんなに苦しまなくてはならない過去を僕は消してしまいたいと思っています。でも、それは不可能です。だから必ず、僕が志保さんにとって、その苦しい過去よりも重い存在になってみせます」
「…光彦君…。ゴメンナサイ、心配をかけてしまって」
「そんなことはどうでもいいことです。それより…」
「…ありがとう。大丈夫。いつもあなたがそばにいることは分かっているの。本当に分かっているの。でも…」
「無理をしないで下さい。時間はたくさんあるんです。僕らはお互いに随分待ちました。それに比べたら、今、2人で過ごしていることはずっと確かなものだと思いませんか。僕は絶対離しません。だから、志保さんもあきらめないでください」
志保に忘れかけていた微笑がよみがえる。
わたしには明日がある。わたしには朝がやってくる。
そして、そこには必ず光彦がいる。
志保は光彦の笑顔に勇気をもらって、彼女の時計が再び時を刻み始めた。
おしまい
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