*この話は、「それぞれの旅立ち」のその後であり「卒業」の1年前の話しになります。「ふぁれのぷしす」秋号に掲載していたものですが、こちらでも公開したいと思います。
もうひとつの土曜日 ななみん
僕は、彼女を見ていた。ずっとずっと以前から──。
1 街角の天使
最初は高校生の彼女。元気に空手着片手に走りぬけて行った。
そして、高校を卒業後のその姿は、学生として青春を謳歌し、みるみる綺麗になっていく。そんな彼女を眩しげにこの窓から見つめていた。
一歩一歩、大人の階段を登っていく彼女。その隣に時々見かける青年こそが彼女の笑顔の素なのだろう。
その後、自転車に乗って春風のように爽やかに通りぬける彼女が目に入った。社会人になって、毎日が充実していると見える。いつも前向きな彼女の視線に勇気付けられもした。
確実に大人の女性へと変貌を遂げた彼女。
朝のわずかな時間、窓からその姿を追うのがいつのまにか僕の日課となっていた。そんな自分をさながら「これもストーカーか?」と自嘲したりしている。
彼女とは顔見知りだった。6年ほど前、父が逝ったとき、世話になった探偵の娘。毛利蘭。
僕の名は新出智明。医師。勤務医だったが、父のその事件をきっかけに個人病院を継いでいる。が、実のところ大学でもう一度研究に打ちこみたくて気ばかり焦っている日々だった。
見つめつづけるだけで、滅多に話すことはないまま時は過ぎた。僕自身、彼女の存在がそれほどに大きくなっているとは気づいていなかった。
初夏。日差しが強く照りつけている。暑い日曜日の午後。
いつになく青い顔をした彼女がフラフラと歩いているのを窓から見かけた。気になったので目で追ってみる。
すると、彼女がその場にうずくまるのを確認した。余程気分が悪いのか?思わず、家の階段を猛ダッシュで駆け降り、彼女のもとへ駆けつけていた。
「どうしたの?大丈夫?」
「すいません。しばらく…こうしてたら大丈夫だと思います。」
彼女は謙虚に答える。そう言ってるそばから吐き気が襲ってくるのか、顔をそむけた。
「ちょっとうちへ来て休んでいくといい。涼しくしていたら気分も納まるかもしれないし。」
「え?」
ようやくこちらに目を向ける彼女。
「新出先生!」
「やぁ、久し振りだね。遠慮しなくていいから、ホラ、うちへ…。」
「すいません。それじゃお言葉に甘えて…。」
顔見知りだっただけに安心したのか、彼女はそろそろと立ち上がり、僕のあとへつづく。
2 SHE'S IN BLUE
蘭が通されたのは、病院のベッドではなく自宅の居間のソファだった。
「そこへ横になっても構いませんよ。」
彼はおそらくリラックスできる方を選んで案内したに違いない。その気遣いに蘭は感謝していた。
「いえ、もう横になるほどではないんです。それにすぐにおいとましますから。」
それでもまだ顔は青い。
「どうしたの?いつもの元気はどこ行ったんですか?」
「いつもの?」
「ははは、毎朝うちの前を通るから、いやでもその元気な顔は忘れません。」
「あ、そういえば…。高校の時からここの前を通ってたんですよね、わたし。」
ふと蘭の脳裏に彼の父の事件が蘇っていた。それは、彼にとってきっと、思い出話としては、辛すぎる事件に違いなかった。
そんな蘭の一瞬の沈黙を見透かすように
「あの事件の時には、あなたのお父さんにはお世話になりました。悲しい事件でしたが…結果的にはお父さんには感謝しているんですよ。」
「いえ、そんな…。」
「ところで、お父さんはお元気ですか?」
ここ数年、名探偵と謳われた毛利小五郎の活躍は聞かれなくなっていた。蘭は苦笑して答える。
「ええ、元気でやってます。以前ほど派手な事件は手がけてませんが地道に探偵続けてます。」
話の途中でまたも吐き気に襲われる蘭。
「すいません。洗面所を…。」
青い顔で駆け込む。
「まさか彼女…?」
彼は、少しあることを疑っていた。
戻った蘭はまだ気分が悪そうだ。
「冷たい麦茶でも飲む?」
「すいません、ありがとうございます…。」
「風邪?…でもなさそうだし、ひょっとして君…。」
観念したように蘭は答える。彼が医師だからか。
「実は今、3ヶ月なんです。」
「…え?」
あまりに正直な答えに彼のほうがうろたえていた。思わず、左手の薬指を確認する。…そこにあるべきものはなく。
「彼は?」
「あ、新一のこともご存知だったんですか?」
「時々、一緒のところを見かけましたよ。新一…くんって言うんだね。」
「彼、今アメリカです。」
「アメリカ?仕事か何かで?」
こくりと頷き蘭は、テーブルの麦茶を手にする。その琥珀色に透き通った液体をじっと見つめながら。
「探偵…なんです。お父さんと一緒。事件となると見境なくって…。」
悲しそうな目を見せた。
「彼はこのこと知ってるの?」
コップのなかで氷がカラカラと音をたてた。
「居場所もわからないんです…。」
蘭は冷たく冷えたコップを頬にあて、「わぁ、気持ちいい。」と、そっと目を閉じた。コップの外側を覆った結露が頬を濡らす。
彼の脳裏に、元気に笑う制服姿の彼女の姿が思い出される。しあわせをかみしめるようにほんのり頬を染め、その一人の青年を見つめる熱い目を知っていた。そんな彼女が今、翳りを見せている。肩先が震え、救いを求めているようにも見える。
…抱きしめたい。
彼がそんなふうに思うのは当然かもしれなかった。
そう。彼自身もたった今気づいた。ずっと彼女に恋していたことを──。
3 青空の扉
「今度、気分がいいときにでも、どこか遊びにいかない?」
彼女を奪いたいなどと思ってはいない。どうこうしたいわけじゃなく。ただ、少しでも彼女の時間を埋めたいと。そして、彼女と同じ時を過ごしたいと。・・・決して届かぬ思いだということはわかっている。
突然の誘いに戸惑いながらも、微かに笑って蘭は答えた。
「それなら、海…。海に連れて行って下さい…。」
そして、その週末の午後。
蘭の家の前に迎えに現れた彼の車は、オンボロの国産車だった。2階の窓からそれを見た蘭は、ふっと笑った。そして、そんな彼に好感を抱いた。
階段を駆け下り、久し振りのドライブに胸を躍らせてもいる。
「こんにちは。」
幾分か血色もよく見えた蘭の顔を見て、彼は少しホッとする。
「この車…。」
開業医が乗ってるとは思えない、と言おうとして言葉を止めた蘭。
「あ、これですか?オンボロだからおかしいでしょ。車には無頓着なんですよ。」
彼はそう言って笑う。
「彼はどんな車乗ってたの?」
蘭は、はっとしている。
「新一は…あいつはカッコつけだから。」
そう言って笑ってごまかす。
(話したがらないのは、僕を気遣ってのことか?いや、きっと思い出すのが怖いのだろう。ひょっとしたら、彼女、ずっと我慢してるんじゃ…?)
彼は思いを巡らせる。
そして車は海へ向かう。
(彼女の選んだ海は、彼との思い出の場所なのか?)
懐かしそうに窓の外を眺める彼女の横顔は、しあわせそうな眼差しに見えた。
「すいません。ここに!ここに停めてくれませんか?」
蘭が叫んだ場所は、人影まばらな岩場だらけの海岸だった。
「ここ?」
彼女の希望通り、そこに駐車し降り立った。
「岩場だらけで足元が悪いから、君、万一のことがあったら大変だよ。」
降り立ったあとで言っても意味はないが。
「気をつけなくちゃ、ですね。」
彼女は微笑んでいる。
一歩一歩、海に近づく。波の音が心地よく響いてくる。
彼は先導して彼女の手を引きながら前へと進んでいく。すると、
「あ、そこ右かなぁ?」
何かの記憶をたどっているのか、どこかを目指す彼女。岩場は続いている。いつのまにか人ひとりいない場所まで来ている。
そこに、いきなり大きな一枚岩が現れ、視界いっぱいの海──。
岩にぶつかる波音。
水しぶきがキラキラと光っている。
二人そろって、言葉をなくしていた。そして、見つめているのは目の前の海だけ。
波音に耳を傾けるだけの数分間。感動を分かち合う。
「ステキな場所ですね。」
彼はようやく口を開いた。
「ええ、とっても。」
蘭の横顔は海を背景に更に輝いて見えた。
「ここ、前にも来たんだね。・・・彼と?」
こくりと頷く。
「彼の話しをするのは、辛い?」
「辛い…です。」
「じゃ、どうしてここに?」
「とっても辛い。辛いけど…先生、聞いてくれます?」
4 Sweet Little Darlin'
何から話そう?
とてもとても小さな頃からずっと好きだった新一の話し。
推理オタクで、事件のこととなると見境いなく、いつも放ったらかしにされたっけ。
それでも、やっぱりそんなあいつが好きで。
高校生の頃の、離れ離れの日々。会えなくなって、その存在の大きさに気づいて、再会した時には、二度とその手を離すまいと思ったこと。
わかっていても、事件のたびにおいてきぼりにされるのは辛かった。
不安になって泣いた日もあったし、信じられなくて諦めたくなった日もあった。
すれ違うたびに、「どうしてこうなっちゃうんだろう」と悩んで。
それでも二人で歩いてきた。一歩一歩、大人の階段登って──。
そして、そう。いつでもあいつを連れ去るのは事件。
今度ばかりは、いつ帰るともどこにいるのかさえも知らされず。
連絡も途絶え。
今、どこにいるの?
元気…だよね?
不安の中で知った妊娠。…とてもうれしかった。
あの頃、そばにいてくれたコナンくんを思い出す。結局、あれは新一だったんだけど、それでも、コナンくんとしての思い出がわたしの胸に刻まれている。
このお腹の赤ちゃんも、きっとわたしに力をくれる。
わたしを守ってくれると、そう信じたい。
今の、わたしとあいつをつなぐ、たったひとつの絆のような。
だから、わたしは決してひとりじゃなくて。
決して不幸なんかじゃない。
それに新一、約束してくれたよね。
『蘭、オレはいつもおまえのそばにいるよ。どんなに離れてたって、おまえが呼べば飛んでくるって。』
あの日の言葉、あの日の新一を信じてる。信じてる…。
途切れ途切れに、それでも全てを話す彼女。
こらえきれずに流れる涙を見て、手をさしのべたくなる。だけど、僕に何ができるだろう。抱きしめたい。いっそ、彼女を自分のものにしたい。
最後に彼女が話したのはこの海の思い出だった。
きっと誰にも話したくない彼との宝物だったに違いない。
「ここに来たのは、もう何年前かな。いいところがあるって、見せたいものがあるって連れてこられた。それがこの場所。ここは、わたしにとってのエンゲージリングだった。」
彼女が時折しあわせそうな眼差しになるのは、きっとその日にタイムスリップしているからなんだろう。だけど、隣にいるのは彼じゃない…。
いつの間に陽は傾き、夕陽が海を染めている。
波はやさしく静かに寄せては返す。先ほどまでは、あんなに激しくしぶきを上げていたはずの波。
そして夕凪。風も止まった。
彼女の肩が震えている。まだ我慢してるのか?
抑えきれずに彼女を抱き寄せた。僕の胸で、声を殺して彼女は泣く。
「泣いていいよ。我慢しないで、今日だけは…。」
「ごめんなさい・・・。」
静まりかえった海に彼女の慟哭だけが響いていた。
5 君去りし夏
彼女の涙を、この悲しみに暮れた姿を両手で受けとめながら、僕はほんの少しの夢を見る。この手で彼女をしあわせにしたいと。
だけど、言えない。彼女の心はここになく。
見守ることしかできないのか。
…今なら。強引に彼女を奪うこともできるかもしれない。その顔を引き寄せくちづけることも、きっと。
だけど、心は?
たった今、一途な思いを耳にしたばかりの僕には、何もできるはずはない。
日が暮れようとしている。
「帰ろうか。」
彼女との距離を縮めることはなかった。
彼女の手を引き車へ戻る。その手のぬくもりを感じながら、それはいつかは離さなくてはいけないものだと考えることが辛かった。
「新出先生…。」
彼女が自分をそう呼ぶのがさびしく感じられた。
「出来れば名前で呼んでください。智明、です。」
何かを悟ったように、彼女は一瞬ためらった。
「智明さん、なんて呼んだら別の人みたい。なんだか照れますね。」
そういえば、僕自身は彼女を名前で呼んだことはなかった。
「智明さん、ありがとう。」
「いえ、僕はただ…。」
自分の気持ちを伝えるべきか迷っていた。
「わたし、ずっと我慢してたんです。もう泣かないって意地張って。でも今日気づいた。泣いて、泣いて、涙が枯れるまで泣いてからでないと、もう一歩足を前に踏み出すことってできないんだってこと。」
そして、少しの沈黙のあと、意を決したように言った。
「わたし、やっぱりアメリカに行って来ます。…ずっと行くんだって、行かなくちゃって思ってきたけど二の足を踏んでた。迷ってたのかな。怖いのかもしれない。とても悪い予感が、とりついてて…。」
「悪い予感?」
こくりと頷く。
「行っちゃいけないって、もう一人のわたしが言ってるんです。だけど、このままこんな気持ちでいるのはいや。この悪い予感、なんなのか知りたいから。」
彼女の手が震えている。
こんなに近くにいる。すぐ隣に僕はいるのに。僕が守ってあげたいのに。これ以上彼女が傷つく姿は見たくない。
僕なら彼女をこんなふうにはしないのに。
「泣きたい時には電話して。なにかあったら、…いや、なくても電話くれたらいつでも駆けつけるから。」
行くなと言えない自分がもどかしい。
そして、停めてあった車に乗りこんだ。
この手を離すこと、それは「サヨナラ」を意味した。
6 青空のゆくえ
闇の中を車は走った。
闇を抜け、いつかは光の国が見つかるのだろうか。
彼女が「明日発ちます。」と電話してきたのは、それからまもなくのことだった。
彼女のしあわせ。
それはそこにあるのか?
行くな、行くな!・・・届かぬ思い。
切なさに、またあの海に車を走らせる自分がいた。
その助手席に、もう彼女はいない。
Fin